81 職務か、感情か
あの日、自分は間違ったことをしただろうか。ジュリアンはその答えを出せずにいた。
『ブラックリリーがまるで憲兵を誘うように下町を歩き回っていた時間、ピンポイントで怪しい令嬢にアリバイがある。それも、小公爵様のお母君と妹君を自宅に招いたお茶会。偶然にしてはできすぎていると思いませんか?』
エドガーのその言葉を否定できなかった。
『リディア姉様から、お茶会の招待状が届きました!』
大喜びだった妹と、
『あなたひとりでは不安だわ。私も同行しますからね』
そう告げた母。ジュリアンの大切な家族を、彼女は利用したのだろうか。
『……偶然だろう』
その否定の声は、弱々しいものだった。
考えれば考えるほど、彼女と紐づいていく。彼女ではないか、という疑念が深まっていく。従者の言葉を否定する言葉が、証拠が、見つからないのだ。
だから、ひとりで、彼女の家を訪れた。
『小公爵様、本日はどういったご用件でしょうか』
世間話も挟まず、真っ直ぐにそう尋ねた彼女の瞳は、濁っていた。恐怖と、不安。なぜ、彼女がそんなものを感じないといけないのだろう。後ろめたいものがなければ、そんな感情を感じる必要はない。
『話を聞きたくて』
ひとつずつ、確かめるように紡いだ言葉も、
『お話ですか?』
彼女の冷たい声に跳ね除けられる。
『ブラックリリーという名前を、聞いたことはありますか?』
彼女は反応しなかった。
『いいえ』
その迷いのない返事にさえも、ジュリアンは疑念を抱いてしまう。
令嬢たちでさえもその名前を囁くようになってもう長い。社交に積極的な彼女の耳に入らないということが、ありえるのだろうか。
『カジノに現れるという商人の名前です』
『会ったことはないと思います。カジノに行ったことがないので』
そう。彼女はカジノには行かない。彼女の家族が、それを許さないだろう。
『私はカジノで会ったんですよ』
ひとつ言葉を紡ぐたびに、彼女の反応を確かめてしまう。ほんの少しの動揺も見逃さないように。そんな自分が、嫌だった。
『赤いローブに、黒髪で。噂通りの人物でした』
『そうですか』
彼女の声がひどく強ばっていた。
『直接、会ったんです。顔はローブで隠れていましたが、髪が真っ黒で艶やかでした。声も、目の色も、よく覚えてる』
答えはなかった。ただじっと、射るようにこちらを見ている。濁った宝石のような瞳で。
『この前、下町でブラックリリーと思われる人物が見つかりました』
『よかったですね』
『赤いローブに、黒髪。私がカジノで会った方と同じ姿をしていたと聞きます』
憲兵からあがってきた報告。ブラックリリーの仲間だと言われる冒険者と歩いていたところを憲兵が見つけ、声をかけたらしい。ブラックリリー製といわれる武器をひとつ持っているだけだったため、逮捕には至らず武器だけ押収したと聞いていた。
『下町で見つかったブラックリリーは、グレーの瞳だったと聞きました』
憲兵の報告で、唯一彼が引っかかったところ。嘘だと思いたくて、何度も、何度も確認した。
『私がカジノで見たブラックリリーは、緑色の瞳だったんです』
エメラルドの瞳が、じっと彼を見据えていた。
『ブラックリリーが下町で憲兵と話していた時間、貴女は私の母や妹と会っていた』
『えぇ』
『そのアリバイが完璧すぎると、従者が言うんです。まるで貴女がブラックリリーかのように』
動かない彼女の瞳に映った自分は、あまりにも惨めだった。
『違います』
その答えに迷いはなかった。
『わかっています。貴女であるはずがない。ブラックリリーは裏社会さえ手玉に取る冷徹な商人です。貴女とは似ても似つかない』
違う。彼女じゃない。そう言いたいのに。
『……なのに、貴女じゃないという証拠が、ないんです』
絞り出した声は、掠れていた。自分がこんなに苦しんでいるのに、切実に訴えているのに、目の前の彼女の顔は全く動いていなかった。
『ブラックリリーに伝えたいことがあります』
彼女にとって、自分の苦しみは心を動かすものでもなんでもないのだ。それでも、この気持ちは、どうしようもなかった。
『もし何かに困ってそうしているのなら、私を頼ってほしいと』
頼ってほしい。貴女がその手を汚さなくても、自分なら救ってあげられる。そのためなら、父を説得することだって、無理やり黙らせることだってする。
『きっと何かの役に立つはずですから』
『それは、わたしではなく、その方に言うべきでは?』
それは、冷たい声だった。
『……そうですね』
届かなかった。ほんの少しでも届いてくれたら。彼女が「たすけて」と言ってくれたら。
ジュリアンは失意の内にその屋敷を後にした。
*
「ブラックリリーを捕らえるのはやめたのですか?」
その日、エドガーが聞いた。
「捕らえても意味がない、と?」
「……そんなことはない」
国の中枢を担う人間として、秩序を乱す人間を捕らえるのは当然のこと。しかし、彼は迷っていた。
最初は、父に認めさせるためだった。彼女との結婚を認めてもらうために、実績を残そうとした。
冷徹な商人の表の顔が彼女だったなんて、思いもしなかった。
「情けない」
エドガーから冷たい言葉が飛んできた。
「しっかりしてください。これがあなたの仕事でしょう」
「……わかってるよ」
自分が何もしなければ、皇帝から勅命を受けた誰かが彼女を捕らえる。それを止める術は、ジュリアンにはない。
「リュセール公爵家の権力をもってすれば、伯爵令嬢を庇うこともできるでしょう」
「無理だよ」
それはやってはいけない不正だ。貴族の腐敗に目をつぶることはできても、自らが不正を行うことは許されない。
「では、もう何もしないと?」
追い詰めるようなエドガーの言葉に、ジュリアンは次第に苛立っていた。
「何ができるって言うんだ」
「できますよ。彼女が作る武器は、騎士団にも有用だ」
それは、あっさり吐き出された言葉だった。
「……は?」
「騎士団にも卸させればいいんです。そうすれば、誰も彼女を違法だと摘発することはできなくなる」
アッシュラインと呼ばれる武器は、貴族にも広まっているせいで違法化できない。かといって、正式に合法と認めることもしていない。
そしてその他の武器は、合法化できないということで、憲兵に押収させている。
つまり、ブラックリリーの武器は、合法でも違法でもない、宙ぶらりんの状態だ。
「そんなことが、できるのか?」
「まずは話を聞くところからでしょう。騎士団に武器を売る気が彼女にあるのか、わかりませんから」
彼女に話を聞かなければならない。伯爵令嬢リディアではない。ブラックリリー本人に。
「ブラックリリーを探したい」
「下町で見つけるしかないでしょうね。カジノには長らく姿を現していない。唯一の出没場所は下町の市場ですから」
「下町に行く!」
そうと決まれば早かった。ガウンを掴み、彼は飛び出した。
*
市場には多くの人がいた。たくさんの声が飛び交い、まさに喧騒の中だった。
「いるか?」
「見えませんね」
見える範囲に赤いローブはなかった。
「少し探してみるか」
そう言って、あてもなく歩き出す。
その瞬間、彼の目の端を、青い光が遮った。その光を、彼は知っていた。
「リディア嬢?」
気づけば、そう口にしていた。ハッと振り返った彼女は、黒髪に、緑色の瞳。
ブラックリリー、その人。それなのに。風に膨らむ髪の下に、ラピスラズリが輝く。それは、紛れもない、ジュリアンがリディアに贈ったものだった。
逃げ出す彼女の背中に、慌てて呼びかける。
「待って!」
人混みの中だが、追うのは問題ない。相手は令嬢。こちらはそれなりに体を鍛えている男だ。
その瞬間。
パァンッ
鋭い音がした。人混みの中に、アッシュラインを掲げる男の腕が見えた。
「きゃあぁぁ!」
「うわあぁ!」
一瞬にしてパニックになる市場の中、身動きが取れなくなる。
もう彼女の姿は見えなくなっていた。
「捕らえますか?」
エドガーがそう聞いてくる。
「なぜ?」
「貴族に刃を向けました。……この場合は銃口か。指名手配には十分です」
「向けられてないよ。あれは空を向いていた」
ジュリアンの目に映ったアッシュラインは、斜め上に向いていた。ジュリアンにも、市場を行き交う人々にも当たらないよう、計算された角度だった。
「ですが」
「あれは、殺すために向けられたものじゃない」
貴族に引き金を引くことも躊躇わないような男に、彼女は守られているのか。彼女にとって、その男はどんな人物なのだろう。特別な関係なのだろうか。
ズキンと痛む胸を押さえ、彼女が消えた路地を見つめる。
自分には守らせてくれないのに。
その言葉が、声になることはなかった。




