79 切り札
小さな香水瓶のような容器を、陽の光に透かしてみる。軽く揺らしてみると、無色透明の液体がキラキラ輝いて波を打つ。
これを使うべきかどうか、ずっと迷っていた。外出する時は必ず持ち歩くもの。ひとふきするだけで、その人の記憶を奪う。こんな恐ろしいものさえも、持ち歩くのが日常になっていた。
もしこれを使う時が来たら、自分はどう使うのだろう。誰に使うのだろう。
彼に。それとも、自分に。
これでどれくらい忘れてしまうのだろう。リリーとしての姿を忘れるのか、それともリディアの家族さえも忘れてしまうのか。
小瓶を机に置く。その次に視線が向いたのは、その隣。
アッシュラインよりも小型で、反動がなくて撃ちやすい。そう聞いている。不確かなのは、リディアが使ったことはないから。今までその銃口を誰かに向けたことさえもない。
これを誰かに向ける時。リディアは、今のように平静な心でいられるのだろうか。それが、もし彼だったとしたら。
どんな気持ちになるのだろう。そう考えてみても、思考は現実味がなく、ふわふわ宙に浮いているようだった。
「リディア、入ってもいいかい?」
ハッと振り返る。そこには父が立っていた。
「お父様、どうぞ」
さっとハンカチでファントムシェルを隠し、リディアは立って父を迎える。
「どうされたのですか?」
「いや、特別なことはないんだけどね」
社交のオフシーズンなのに、今年は父が領地に帰っていない。以前はリディアが体調を崩した時にそうしていたが、今年はそんなこともないのに。
王都の屋敷でのんびり過ごす父に、領地に帰れなんて言えなくて、リディアも兄も黙っていた。
「リディア、楽しいかい?」
「え?」
父の目が、娘の瞳を映していた。
「もし君が今していることがつらいなら、やめてもいいんだよ」
何を知っているのだろう。どこまで気づいているのだろう。父に全部知られてしまったのだろうか。
「……やめませんわ」
リディアは静かに答えた。
「必要なことですもの」
エメラルドのような緑色の瞳に、父の瞳が映る。
「そっか」
父の目が細められた。
「今まで社交界にはほとんど参加していなかったからね。リディアの負担になっていないか心配だったんだ」
なんだ、社交界のことか。リディアはホッとして、
「お母様の意思を継いでいるだけです」
と答える。
「そうだね。彼女は完璧だった。私にはもったいないくらいに」
優しい光が宿る瞳に、リディアは静かに尋ねる。
「お父様は、お母様を愛していましたか?」
「もちろん」
父の返答に迷いはなかった。
「今でも愛しているよ」
照れることも、恥じることもない、その言葉に、リディアはさらに尋ねる。
「最初にアプローチしたのはお母様の方だと聞きました」
「そうだね。私は結婚なんてしなくていいと思っていたから」
それは、まるで今の兄のように。
「なぜ、お母様のアプローチを受け入れたのですか?」
結婚しなくていいと思っていた男を、母はどうやって振り向かせたのだろう。
「彼女が熱心だったから」
父の瞳が優しく光る。
「熱意に押されたんだ」
短い言葉。しかし、きっとそれ以上でもそれ以下でもない。それこそが、父と母を指すのにふさわしい言葉なのだろう。
「難しい哲学書を読んできてくれた。有名な恋愛小説をおすすめしてくれた。一緒に観劇にも行ったかな。私の話を熱心に聞いてくれる彼女に、惹かれないはずがなかったんだ」
若い頃の父と母の話は、リディアの胸に優しく響く。
「お父様は、お母様と結婚できて、幸せでしたか?」
熱意に負けた結果、父はどう思ったのだろう。
「もちろん」
そんなこと、聞くまでもないのに。
「彼女には感謝しているんだ。彼女と結婚しなければ、私は君たちのようなかわいい子どもたちにも会えなかったわけだから」
父の手が、リディアの頬に触れる。
「だから、苦労してほしくないんだよ」
「……はい」
リディアも、その手にそっと自分の手を添えた。
「わたしも、お父様やお兄様に苦労してほしくありません」
母が残してくれた家族が苦労するところなんて、見たくない。
「本当は、父親として娘にいい縁談のひとつやふたつ、持ってきてあげたいんだけどね」
その言葉に、リディアは首を振る。
「そんなものがなくても、お父様に愛されていることは、わかっています」
縁談なんていらない。そのせいで争いを好まない父が派閥争いに巻き込まれるくらいなら、リディアはずっと独り身でもいい。それが異端だとされても。
「お父様、どうかずっとお元気でいてください」
リディアが今していることが親孝行なのかわからない。父が知ったら、きっと嫌がるだろうし、怒られるだろう。
それでも、父や兄を無惨に死なせるより、ずっといい。
「お兄様にも、早く結婚していただかなければいけませんね」
「どうかな。あの子は結婚する気もなさそうだ」
父は兄の真意を見抜いているのだろうか。自分は結婚せず、妹の子を後継者に据えようとしている彼の心を。
「お父様もそうでしたのでしょう?」
リディアが微笑むと、父は一瞬驚いて、次には笑った。
「確かにね。あの子にも、私のような春が来るかもしれないね」
「はい。きっと、きます」
兄は優しい人だ。正しい道だけを選べる素晴らしい人だ。そこを見抜いて魅力を感じてくれる人は、きっといる。
「リディアもだよ」
「え?」
父の言葉に、リディアは首を傾げた。
「もしいい人がいたら、言いなさい。お前の持参金くらいは用意できるから」
持参金か。この家にいったいいくらあるのだろう。どれくらいの家格までなら受け入れられるたろう。
もしそのお金が、持参金ではなく保釈金になったら。父や兄は、どう思うのだろう。
そんなことを考えてみて、リディアは笑みを浮かべた。
今は、考えたくない。家族を悲しませるかもしれないなんて、思いたくなかった。




