77 黒百合の影
その日、リディアは朝から地下室を訪れた。
「下町におつかいに行ってくれない?」
それはノエルへのお願い。
「ん」
彼は言葉少なく頷いて、指示を待つようにリディアの目を見つめる。
「ガレンの後をつけてほしいの」
「なんで?」
それには意外そうに目を丸くした。
「リリーの影武者をたてたのよ。憲兵がどう反応するか見てきて、わたしに教えて」
ガレンを疑っているわけじゃないことを伝えると、ノエルの視線がかすかに緩む。よかった、とでも言わんばかりに。
「わかった」
ノエルは頷き、
「リリーはどうするんだ?」
と聞く。
「社交界の予定を入れたわ」
そう答えると、ノエルはそれ以上聞いてこない。
「よろしくね」
リディアはそれだけを残し、準備のために地下室を後にした。
*
「ようこそ、リュセール公爵夫人、エステル様」
リディアが迎えたのは、公爵夫人とその娘。
「リディア姉様!」
正式な社交界ではなく、あくまでも個人的なお友達とのお茶会ということにして、エステルを誘った。まだデビュタント前の彼女には、当然母親も同行する。
「今日は素敵な招待をありがとう、リディア嬢」
「とんでもございません。わたしがエステル様とお喋りを楽しみたかったので」
「わぁ、嬉しい!」
それを聞いて、エステルが子供のように微笑む。
「あ、そうだ。お土産を持ってきたの。リディア姉様は、このお茶がお好きなんでしょう?」
「グリーンティーですね。ちょうどよかった。本日のお菓子は、これに合うものですから」
「あ、それってもしかして、アズキ?」
それを聞いて、エステルは目を輝かせた。
「えぇ。エステル様もご存知なんですね」
「もちろん! お母様に聞いて、絶対食べてみたいと思ってたの! リディア姉様、ありがとう!」
「たくさんありますから、お好きなだけ召し上がってくださいね」
リュセール公爵家にはレシピを教えたはずだが、あんまり食べていないのだろうか。確かに手間がかかるというし、好んで食べる人がいなければわざわざ作ることはしないかもしれない。
「グリーンティーは苦くて砂糖を入れてもおいしくないけど、アズキは甘くて美味しいんでしょう?」
「えぇ、とってもおいしいですよ」
リディアも普段からアズキを食べているわけではない。今回のは、口実だった。
下町でブラックリリーが目撃された時間帯に、リュセール公爵家の夫人と令嬢がリディアと会っていた。それだけで、ブラックリリーを追う小公爵の目は誤魔化せると思っていた。
「エステル様は甘いものがお好きですか?」
「えぇ! 生クリームはたっぷりつけた方がおいしいのに、お母様はダメっていうのよ」
「ふふ、そうですね」
もう大丈夫と信じよう。このお茶会を楽しもう。
そう思っているのに、心は下町に置き去りになっているかのように。嬉しそうなエステルの笑顔も、彼女に優しい眼差しを向ける公爵夫人の顔も、どこか曇って見えた。
*
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。とても楽しかったわ」
柔らかく微笑む公爵夫人にお礼を述べる。
「リディア姉様、今度はわたくしのお部屋にも遊びにきてくださいね!」
エステルは楽しそうに誘ってくれる。
「えぇ、ぜひ」
そう答える。リディアの手を握りながら、エステルが笑った。
「あーぁ、リディア姉様がお兄様と結婚すればいいのに」
その瞬間、心臓が跳ねた。
「エステル、そんなお話をしてはいけません。リディア嬢に迷惑ですよ」
公爵夫人が冷静になだめる。そう。なんてことはない。子どもの言葉だ。
「ごめんなさいね、リディア嬢」
「……いいえ」
リディアは静かに微笑んだ。
「エステル様」
エステルの手を取り、
「嬉しいお言葉ですが、わたしでは小公爵様のお相手は務まりません。ですから、エステル様のお友達として、これからも仲良くしてくださいね」
その言葉に、エステルはパッと明るく笑う。
「えぇ、もちろん!」
そうして2人は馬車に乗って帰っていった。
部屋に戻って着替えたリディアは、すぐに地下室へ向かう。どうなったのだろうか。無事に終わっただろうか。そんな焦ってしまう気持ちを抑えて、地下室の扉を開けた。
「ノエル」
彼はもう帰ってきていた。
「終わったのか?」
「えぇ」
彼は顔を上げて、武器を作る手を止める。
「ガレンと影武者をつけてる憲兵のやつがいた」
はっ、と小さな息が漏れた。それは、恐怖か、安心か。
「憲兵っていうか、貴族の私兵っぽかった。憲兵の制服は着てなかったし」
「そう。尋問はされていた?」
「オレが見てるところではしてなかった」
やはり取引現場を抑えないと近づけないのだろうか。それならリディアがリリーとして下町を歩いても、捕まることはないと思う。人目につくようなところで取引はしていないのだから。
「ガレンに話を聞きに行くか?」
確かにガレンから直接聞いた方が早い。
でも、今日は疲れた。
「今度でいいわ」
お茶会の間、ずっと気が張っていた。ノエルからの報告を聞いたことで、完全に安全とは言えないが、少しだけ安心した。
「ありがとう、ノエル」
そう言って、リディアは地下室を出る。
部屋に戻るまでの足は、ひどく重かった。
どうか、彼が勘違いしてくれますように。リディアを追わないように。窓から見える青空は、まるで彼の瞳のようだった。




