74 見えない一線
いつもの日常だった。下町に出る日でなければ、お茶会の予定も入っていない。だから、リディアは外出せず、家で読書をしていた。
いつもは地下室に行くのだが、今日は風にあたりたくて、自室で窓を開けて本を開く。さぁっと駆け抜けていく風が髪を揺らし、リディアは顔を上げた。
心地のいい風だった。湿気のない爽やかな風が、リディアの頬を撫でる。
「リディア、入ってもいいか?」
その時、兄の声がした。
「どうぞ」
本を閉じ、ソファから立ち上がる。
「おかえりなさいませ」
仕事から帰った兄にそう言うと、
「あぁ、うん」
兄はそうつぶやき、リディアをじっと見た。
「どうかされましたか?」
その視線を不思議に思って、リディアは首を傾げる。
「いや……」
兄はそう返して、
「リディア、僕があげた香水って持ってるか?」
と聞いた。
「えぇ」
そう頷いて、そばの引き出しから小さな香水瓶を取り出す。
「こちらですよね」
「……そんなの、あげたかな」
どうやら兄は忘れているらしい。ではなぜ聞いたのだろう。
「お兄様が書庫勤めで初めてお給金をいただいた時に買ってくださったものではないですか」
リディアにとっては大切な思い出。その頃は部屋から出ることもままならなくて、兄が買ってくれた「外の匂い」に心を慰めた。
「あぁ……そうだった気もする」
曖昧な兄の返事に、
「どうされたのですか? これが何か?」
とリディアの方が聞いてみた。
「リュセール小公爵様に聞かれたんだ」
その瞬間、リディアが固まった。
「妹に香水をプレゼントしたことはありますか? って」
「……どう、お答えに?」
「ありますって答えたよ。嘘になってなくてよかった」
確か、いつかの舞踏会で、彼と踊った時。ポケットに入れたファントムシェルに触れられて、兄から貰った香水だと嘘をついたことがある。
その時のことを覚えていて、聞いたきたのか。それにしては遅すぎる気がする。
「どうしてそんなお話に?」
リディアは笑みの中に疑念を隠し、兄に尋ねる。
「なんだったかな……。まぁ、小公爵様も妹君がいらっしゃるし、プレゼントに困っていらっしゃったんじゃないかな」
それならいい。そう信じたい。そう思うのに、心がざわついてしょうがない。
「……そうですね」
そう微笑んだ顔は、悲しげに揺らいでいた。
「リディア、小公爵様とは、まだお手紙のやり取りをしているのか?」
「えぇ。時々いただきますから、お返事をお送りするくらいですわ」
ただの手紙のやり取り。お茶会でたまに顔を合わせるだけ。舞踏会ではなぜかダンスに誘われるが、彼はリディアとは最初のダンスを踊ってから、他の令嬢とも踊っている。数ある令嬢のひとりに過ぎないのだ。
特別なことなんて、何もない。そう言い聞かせるのに、顔が強ばって、心臓がドクンドクンと荒く脈打つ。
「仲は、いいのか?」
「特別なことは、何も。小公爵様には、わたしよりも家格がつりあうご令嬢がたくさんいらっしゃいますから」
兄の声が心配そうに揺らいでいるのになんて、気づかなかった。
「そうか」
兄はそう頷いて、リディアの頬に手を伸ばした。
「……なんですか」
兄の手に顔を潰されるようにして、唇を尖らせたリディアは、兄を見つめた。
「小公爵様なんて、やめておけよ」
兄はそう言った。
「リディアが苦労するのが目に見えてる」
「お兄様は勘違いをなさっておりますわ。わたしと小公爵様には何もないと」
「わかってる。だから、念の為だ」
兄はそう言いながら、微笑む。
「それに、リディアに公爵夫人なんて務まらないからな。リディアの子を僕の後継者にする計画もできなくなってしまう」
兄は結婚する気もない様子。いつだったか、そう言われたことがある。
リディアだって結婚したくないのに。家の重荷を背負わせないでほしい。それは、きっと貴族としては間違った感情だった。
*
どうしよう。そう考えを巡らせるのは、ノエルしかいない地下室。万が一言葉にしてしまっても大丈夫なように。
「何が?」
ノエルが手を止めて聞いた。
「小公爵様に疑われている気がするの」
「へぇ」
リディアの言葉に、ノエルは眉を寄せる。
「どうするんだ?」
「それを考えてるのよ。ノエル、何かいい案はない?」
「オレに聞くのかよ」
彼は呆れながらも、少し考えてくれた。
「影武者は?」
「リリーの?」
「あぁ。お前がこっちにいる間、下町でリリーとして動いてくれる人を雇えばいい」
「その人が危険な目にあうことになるわ」
「じゃあガレンに護衛させろよ」
確かに、女性を雇って赤いローブを着せて、ブラックリリーの窓口として有名だというガレンをそばにつければ、撹乱にはなるかもしれない。
しかし、その女性が危険なことにならないか。それを心配してしまうのは、リディアがまだ冷徹な商人になれていない証か。
「考えてみるわ」
あと少し、冷徹になれれば。他人なんて知らない、と思えれば。
リディアが売っている武器は既にたくさんの命を奪っているし、リディアが売った薬はたくさんの貴族の心を壊した。悪になるのに抵抗はないと思っていたはずなのに。
今のリディアは、何かに後ろ髪を引かれている気がする。これ以上進んではいけない、と一線を引かれている気がする。
それが何なのか、何者なのか、リディアにはわからずにいた。




