67 いつか咲く花
「リディア」
グラスを握る手を、兄が止めた。
「飲みすぎだよ」
「……まだ1瓶も空けていませんわ」
「それでも、もうダメだ」
あのカジノでの1件以来、リディアは眠れなかった。彼を壊してしまう恐怖と罪悪感が、ずっと頭の中を巡る。それを忘れるために、アルコールの力を借りることも多かった。
「医者を呼ぼう。薬をもらえば、眠れるかもしれない」
「必要ありません。お酒の方がずっとよく眠れます」
「それが良くないんだ」
ワインのボトルを取り上げられ、リディアは仕方なくグラスを机に置く。
頭の中に霧がかかったようにぼんやりする。それでも、ワインを飲んだ彼の顔だけは、くっきり残っていた。
「最近様子がおかしいけど、どうかしたのか?」
兄が聞いてきた。
「なんでもないですわ」
言えるはずがなかった。
「なんでもないはずがないだろ」
しかし、兄は引き下がらない。
「言ってみてくれよ。相談くらいはのれるから」
「……相談?」
その言葉に、リディアは小さな笑みをこぼした。
「そうですね。わたしが何か問題を起こしていても、それをもみ消せるほどの力は、お父様にはありませんものね」
兄の目が驚いたように丸くなる。
「……申し訳ございません」
この言葉は、兄を傷つけてしまう。それがわかっていたのに、止められなかった。
「やっぱり、おかしいよ、リディア。何かあったんだろう?」
「何もありません」
「社交界かな。お茶会で嫌味でも言われたのか? それとも、お友達と喧嘩をしてしまった?」
そんなものなら、かわいいものだ。嫌味なんて笑って聞き流せばいいし、喧嘩する程の友達もいない。
社交界よりもずっと暗くて、ずっと重い、裏社会での話。大切な人を廃人にするという、とんでもない罪悪感。それを忘れるには、お酒の力を借りるしかなかった。
「お兄様」
リディアはワイングラスに映る兄に呼びかけた。
「わたしは、間違っていますか?」
何も話せないのに。許しだけを求めるなんて。そんなの、間違っている。
「詳しくはわからないけれど」
彼はそう言って、言葉を紡いだ。
「リディアは、間違ってないよ」
その言葉に、胸がぎゅっとしめつけられる。
「僕にとっては、いつもかわいい、たったひとりの妹だ」
病弱でベッドから離れられずに本を読む。そんな妹を信じているかのように、兄は真っ直ぐな目をしていた。
「……そうですね」
そんなの、もう幻想だ。無茶をしなければ寝込むことはないし、読書よりもマフィア相手に商人の真似事をする方が楽しいと思ってしまう。
忘れてはいけない。兄のこの目を。妹を愛する、この目を。切り落とされた頭の中で、閉じられることもないまま黒く濁っていたあの目を。
「シリル、リディア」
そこに父がやって来た。社交シーズンを間近に控え、領地から戻ってきていた。
「おかえりなさいませ、お父様」
「何を持っていらっしゃるのですか、父上」
2人は椅子から立ち上がり、父の手から苗を受け取る。
「綺麗な花が咲くという苗を買ってきたんだ」
「どんな花が?」
「それは咲いてみないとわからないね」
父は明るく微笑む。
「庭に植えよう。2人とも、おいで」
家族そろって庭に出た。ちょうと植え替えで空いていたところに、兄がスコップを持って膝をつく。
軽く穴を掘り、そこに苗を埋めた。
「シリル、丁寧にしなさい。茎が折れてしまう」
「これくらい大丈夫です。父上は膝が弱いのですから、見ていてください」
膝が痛いと訴える父を気遣って、苗を植える兄に、
「お兄様、わたしが変わります」
と言ってみる。
「大丈夫。リディアの綺麗な手を土で汚したくはないからね」
手荒れのない白い陶器のような肌。見た目はどんなに綺麗でも、この手で売ったもので、たくさんの人を追い詰めている。そんな手が、綺麗なはずはなかった。
「花が咲いたら、クラリッサに見せに行こう。家族みんなでね」
父がそんなことを言い出した。
「そうですね」
兄がそれに同意する。
母のお墓に供える花。それだけで、兄の手つきが優しくなる。
あの事件まで、あと1年もない。今のリディアに、彼らを守れるだろうか。父の優しい笑顔を、兄の真面目な顔を、この花を、守れるのだろうか。
父の不正を糾弾する貴族も、それに同調してありもしない証拠を並べたてる貴族たちも。彼らを制することはできるのだろうか。
いや、わがままは言わない。没落を避けられなくても、あの襲撃さえ回避できたら、それでいい。そのために、裏社会と繋がりを持ったのだ。
有力な貴族を仲間につけられるほどの資金と権力を。そして、腐敗した貴族の命令を聞くような輩を買収できる資金を。
楽しむのは、もう終わり。貴族が壊れゆく様を観劇のように楽しむのも、マフィア相手に優位に交渉を進めた時の楽しみも。もう、そんなものに縋っている暇はない。
「リディア?」
兄が振り返った。手が汚れた兄に、リディアはハンカチを渡す。そして、ハンカチごと優しく包み込んだ。
「きっと」
小さく、呟いた。
「お母様に、このお花を見せに行きましょう」
「そうだね」
リディアのその言葉の裏を疑うこともなく、兄は微笑んだ。胸の中から消えない罪悪感には、そっと蓋をした。




