66 売りたくなかった相手
カジノに通うのは、もう日常だった。毎日というほどではないが、時間を見つけては顔を出す。そうでなくても、信頼できる者に様子を見にいかせる。
昼夜問わずいつ現れるかわからない「ブラックリリー」のしっぽを掴むために。
そうして、やっとそのチャンスがきた。
「ブラックリリーだ!」
その声が聞こえた時、彼はハッと扉を見た。
「行きますか?」
エドガーが尋ねる。
「いや。今じゃない」
多くの客が群がる今は、彼女の話を聞けるベストタイミングではない。その様子を見ながら、じっとタイミングを待った。
やがて人々がはけ、その姿が見えた。
若い女だった。想像よりずっと小柄で、子供のようだと思った。赤いローブで顔を隠し、わかるのは長く伸びた黒髪ということくらい。
彼女はバースペースの椅子に座り、ワインを注文する。彼女のそばに従者のように立つのは、身なりからして冒険者だろうか。
ワインを飲んで一息こぼす彼女に、ジュリアンは歩み寄った。
「君がブラックリリー?」
その瞬間、赤いフードの下から、緑色の瞳が見えた。その瞳に見覚えがあった。
「……あら」
しかし、その目は、ゆっくり細められる。
「どなた? お知り合いだったかしら」
まるで子供を相手にする貴婦人のような言葉遣い。それは、若い女という印象に対してあべこべだった。
「あなたに興味があって」
ジュリアンがそう言ってみると、
「素敵な殿方に興味を持っていただけるなんて、嬉しいわ」
彼女はまるで妖艶な雰囲気を醸し出す。
「でも、他の女の名前を呼ぶなんて、失礼よ」
ブラックリリーではなかったのか。一瞬、そう思った。
「ブラックリリーが名前ではないのですか? この場であなたはそう呼ばれているようでしたが」
「勝手に言っているだけですわ。わたしは、ただのリリー。よくある名前でしょう?」
なるほど。ブラックリリーという名前は、周囲が勝手に語っているものなのか。きっとこの女性が「ブラックリリー」本人だと感じた。
「では、リリーとお呼びしても?」
「えぇ。あなたは……」
彼女は迷いを見せた。名前を聞かれるのかと思ったが、
「あなたもわたしのドリンクがほしいのかしら」
そう聞かれる。名前は興味無いのだろうか。
「そうですね」
彼はひとつ頷き、
「まずはひとつ、いただきたいです」
と答えた。
「……」
女が固まった。
「どうしました?」
なぜ。理由がわからなくて、彼は尋ねる。
「私には売れませんか?」
「……いいえ」
女はそう首を振り、鞄に手を入れる。
「こちらです」
差し出されたのは、小瓶だった。
「綺麗な琥珀色ですね。宝石のようだ」
「……えぇ」
これが、貴族たちに流行る「毒」か。
報告は受けている。この薬に依存し、ブラックリリーから買うためにカジノに入り浸る貴族が増えているという話。
それでも、迷いはなかった。
「甘い」
ワインに入れて飲むと、それは口の中に優しく広がった。
「確かに、安いワインも美味しく感じます」
カジノで売られているのは、ギャンブルとアルコールで価値もわからなくなった貴族が美味しく飲めるもの。決しておいしいものではない。
「よかった、ですわ」
彼女の口元が、ふわりと緩んだ。
「もっと買えますか?」
その口元が引き攣るのを、ジュリアンは見逃さなかった。
「もっと、ですか?」
「えぇ。できれば、あと5個ほど」
「……わかりました」
彼女は戸惑いながら、小瓶を出してくれた。
「ありがとう」
金貨を机に並べ、小瓶を持ってバースペースを離れた。彼女は追ってこなかった。
「警戒されていたな」
カジノを出て、ジュリアンは仮面を取る。
「ブラックリリーを追う人間がいることを知っていたのでしょう」
エドガーがそう言いながら、革製の水筒を差し出す。
「毒を飲むなんて、正気ですか。いくらあなたが毒に身体を慣らしていたとしても、危険な行為ですよ」
「何も無かったんだから、いいじゃないか」
毒は効かない。幼い頃から、毒殺対策にといろんな毒に身体を慣らしてきた。それが、公爵家の教育だった。
「それ、飲みませんよね?」
エドガーの視線の先は、ジュリアンの手におさまる5つの小瓶。
「まさか」
そう告げて、エドガーに差し出した。
「分析してくれ。何が使われているのかわかれば、解毒薬を作れるかもしれない」
「かしこまりました」
この毒に溺れる貴族が、ひとりでも救われれば。そして同時に、この毒を売る女を摘発できれば。そのための金貨数枚くらい、惜しくはない。
「あの目……」
赤いフードの下から一瞬だけ見えた、緑色の瞳。どこかで見た気がする。どこだろう、と考えても、思い当たるところはなかった。
「彼女の足取りを掴めないか?」
「無理でしょう。裏社会に詳しい情報屋も、ブラックリリーの正体を掴めていませんから」
「できるところまででいいんだ。家の場所はわからなくても、どこの通りかくらいわかれば、探せるかもしれない」
「……依頼してみます」
カジノからの足取りを追う人間がいれば、拠点のひとつくらいは見つけられるはずだ。
あと少し。あともう少しで、目標が達成できそうだ。
どうやって父を説得しようか。どんな言葉であの令嬢を口説こうか。そんな妄想をする時間が、楽しかった。




