65 運命の邂逅
オークションで多額の資金を手に入れたリディアは、そのお金でイレーヌの薬を買った。
貴族を壊す。それはリディアの最大の目標だった。
その目標のために、リディアはカジノを訪れた。
「ブラックリリー!」
久しぶりの訪問だというのに、待ちわびていたかのように人が集まってくる。どんどん膨れ上がっていく人だかりに、
「皆様、落ち着いてください。今日はたくさん持ってきましたから」
その笑みは、女神のように優しく、穏やか。彼らを崩壊に導く人間のものとは思えなかった。
「ありがとうございます」
大金を出して我先にとエデンネクターを手に入れていく貴族たちに、リディアは微笑んだ。乱暴に奪い取ろうとする者は、ガレンが止めてくれた。そうして人だかりが引いたのを見て、リディアはいつもバースペースに座る。
「ワインをちょうだい」
バーテンダーに注文し、周囲を観察した。
「楽しそうだな」
ガレンがつぶやく。
「楽しいわ」
お酒に入れて楽しむものの中に、我慢できず直接あおる者さえもいる。リディアが売ったものに縋る彼らを見ると、前世の無念が晴らされるようだった。
「そんなに幸せになれるのかしら」
恍惚とした表情を浮かべる人々を見ながら、リディアは言ってみる。
「わかってるだろ」
ガレンはそう答えた。
この薬の効果は、リディアも知っている。強い多幸感に依存するように作られていることを。
「飲むなよ」
「わかってるわ。飲まないわよ」
釘を刺すガレンに、リディアは微笑んだ。
「君がブラックリリー?」
その時、声がした。振り返ると、そこには彼がいた。
仮面で隠していてもわかる。リュセール小公爵。リディアがこの場で1番会いたくない人だった。
「……あら」
それでも、リディアは知らないふりをした。
「どなた? お知り合いだったかしら」
その妖艶な笑顔は、まるで「娼婦」という噂のようだった。
「あなたに興味があって」
「素敵な殿方に興味を持っていただけるなんて、嬉しいわ」
本来の自分よりも、何歳も年上の女を演じる。人生経験が豊富な貴婦人のような笑みを。
「でも、他の女の名前を呼ぶなんて、失礼よ」
「ブラックリリーが名前ではないのですか? この場であなたはそう呼ばれているようでしたが」
「勝手に言っているだけですわ。わたしは、ただのリリー。よくある名前でしょう?」
リリーという偽名を隠す必要はない。この国に何百人といる名前だ。
「では、リリーとお呼びしても?」
彼もまた、上品な笑みを浮かべていた。貴族の闇を詰め込んだこのカジノという場には似つかわしくない、明るい笑みだった。
「えぇ。あなたは……」
名前を聞こうと思って、やめておいた。それに理由はなかった。
「あなたもわたしのドリンクがほしいのかしら」
挑戦的な笑みだった。この男に、そんな度胸はない。そう踏んでいた。ブラックリリーを捜査しているのなら、この薬を飲んだ人々がどうなったのか知っているはずだから。
「そうですね」
しかし、彼は頷いた。
「まずはひとつ、いただきたいです」
その笑顔は、あまりにも綺麗だった。
「……」
リディアは声が出なかった。この人を壊すのか。それは、恐怖にも似た感情だった。
「どうしました?」
彼の声が、耳の奥に響く。
「私には売れませんか?」
「……いいえ」
そうだ。ここにいる自分は、伯爵令嬢リディアではない。ただの商人リリーだ。
そう言い聞かせ、鞄から小瓶を取り出す。
「こちらです」
震えそうになる手に、しっかりと力を込めた。
彼は金貨をそばに置いて、小瓶を手に取る。ワイングラスに傾けるその仕草に、迷いはなかった。
「綺麗な琥珀色ですね。宝石のようだ」
「……えぇ」
解毒薬も一緒に渡そうか。しかし、何と言おう。説明ができない。
ワイングラスを持つ彼の手を振り払おうか。しかし、何て言い訳すればいいのだろう。
そう迷っているうちに、彼はワイングラスに口をつける。彼の口の中に入っていくそれを、こくん、と上下する喉仏を、見つめることしかできなかった。
「甘い」
彼が呟いた。指先で軽く唇を拭う姿は、色気に満ちていた。
「確かに、安いワインも美味しく感じます」
「それは……」
飲んでしまった。この人を壊してしまう。
「よかった、ですわ」
そう思っているのに、表情は穏やかだった。
大丈夫。たったひとつで強い効果は現れない。周りで狂っていく貴族たちは、大量に飲んだからだ。そう言い聞かせることで、なんとか冷静を保っていた。
「もっと買えますか?」
しかし、彼の言葉は、残酷だった。
「もっと、ですか?」
「えぇ。できれば、あと5個ほど」
たったひとつでこの薬に魅了されてしまったのだろうか。人によって効果の強さは違うし、その可能性もなくはない。
「……わかりました」
ほしいと言われれば、売るしかない。そう囁いたのは、令嬢ではなく商人、リディアではなくリリーの人格だった。
「ありがとう」
彼は金貨を置き、小瓶を持って去っていった。
「……は……」
小さな息が漏れ出た。それが言葉になる前に、彼の背中は人混みに消えてしまった。
「リリー?」
ガレンの声に、ハッと視線を戻す。
「どうした?」
心配そうな顔。リディアがいつもと違うことに気づいているのだ。
「なんでも、ないわ」
もう止められない。それは、強烈な無力感だった。
「さっきのやつ、なんか他のやつらと違う」
ガレンが言い出した。
「もう売るなよ。嫌な予感がする」
「気のせいよ」
彼は壊れていく。5つも買ったあの薬が、エデンネクターが、その運命から逃してはくれない。
その罪悪感から逃れるように、リディアはワインをあおった。




