47 神像の前で
「じゃあ、祈祷文はいつものように」
兄が家令と話しているのを聞いた。
「お兄様」
だから、声をかけた。
「祈祷文を教会に届けるのですか?」
「あぁ。そろそろね」
年に一度の貴族の大切なイベント。本来なら女主人が持っていくのだが、去年はいつの間にか終わっていた。きっと今みたいに、兄が使用人に頼んでいたのだろう。
「では、わたしが持っていきますわ」
リディアは微笑んだ。
「ダメだよ。まだ病み上がりなんだ」
「もう大丈夫です。動けるようになりましたし」
ベッドから動けなかった時とは違う。家の中は自由に歩けるし、地下に出入りしてノエルと話し合うこともできるようになった。
「下町にお散歩に行くわけではありません。馬車で教会に行くだけ、でしょう?」
「それはそうだけど……」
「お願いします、お兄様。ちょうど退屈だったんです」
そう頼み込むと、兄は少し悩んで
「……わかったよ」
と頷いた。
「本当ならついて行きたいんだけど」
「お仕事でしょう? わたしひとりで大丈夫ですわ」
「……そうだね。頼むから無理はしないでくれよ」
「えぇ」
もう無茶はしない。兄のあんな悲しそうな顔を見るのなんて、もうこりごりだ。
下町に出ないとは言えないが、こうして少しずつ行動範囲を広げることで「お散歩」として出ていける日が来るだろう。
*
準備をしたリディアは、そのまま馬車に乗る。教会まで揺られながら、窓から外を見た。
綺麗に整備された道を、軽く早足で歩いていく人々。その数も多くなく、貴族は普通馬車で移動するため、きっと下働きの人なのだろう。
下町とは違う。あの活気ある市場も、旅芸人に人だかりができる広場も、ここにはない。それがないことが、寂しいというわけでもない。ただぼんやり、違いを観察するように眺めた。
*
「確かにお預かりいたしました」
「よろしくお願いします」
教会の職員に祈祷文を渡し、リディアは踵を返した。廊下を歩いていると、そばの聖堂で手を合わせる人々の背中を見つけた。
自分のためか、大切な人のためか。一心に祈るその姿を、リディアはどこか冷めたもののように見ていた。
神様なんて存在は、信じていなかった。信じたくなかった。
だって、本当にそんな存在がいるのなら、父や兄のような善良な人間を助けてくれるはずだ。どんなに悪評を振りまかれても憎んだり恨んだりせず、犯人探しさえもしなかった。
領民を信じ、家族を愛した人たちを、神様は見捨てた。
最後の最後まで、屋敷を襲った人々を怒った領民と信じて、剣を取ろうとしなかった人たちを、神様は救ってくれなかった。
「力を貸してとは言わないから」
祈る人々を穏やかな表情で見下ろす神像に、リディアはそうこぼした。
「……邪魔だけは、しないでね」
リディアの願いはそれだけだった。
聖堂を離れ、馬車を止めた入口に向かって歩く。
「アルセイン伯爵令嬢?」
声をかけられたのは、その時だった。振り返ると、リュセール小公爵がいた。
「小公爵様」
リディアはさっそくカーテシーをして彼に礼を示す。
「体調を崩されていたと聞きました。お元気になられたのですね」
「その節はご心配をおかけして申し訳ございません。素敵なお花をいただき、ありがとうございました」
リディアの言葉に、彼は嬉しそうに笑った。
「伯爵令嬢も祈祷文を納めに?」
「はい」
「私もです」
それは女性の役目とされているはずだ。男性で、しかも公爵家の嫡男なのに、彼はそんな雑用をするのか。
「妹の付き添いで」
そう付け足された言葉に、納得した。リュセール公爵家では娘が担当しているのか。本来なら付き添いは公爵夫人のはずだが。
そんな感情が、表情に出ていたのだろう。
「母が体調を崩していまして」
と彼は加えた。
「公爵夫人が?」
「はい。医者からは疲れが出たのだろうと」
公爵夫人は社交活動に積極的だし、お茶会もたくさん開いている。その準備も含めると、疲れそうだ。
「お大事になさってくださいとお伝えください」
「ありがとうございます」
形式上とはいえそう伝えたところで、
「お兄様!」
元気な少女の声がした。
「エステル、お祈りは終わったのか?」
「えぇ、もちろん。お兄様、そちらは?」
「アルセイン伯爵令嬢だよ」
「リュセール公爵令嬢、お初にお目にかかります」
彼の紹介を受けて、リディアは再びカーテシーをする。年下だが、家格は彼女の方が上だ。
「まぁ……!」
すると、彼女が嬉しそうに駆け寄ってきて、リディアの手を取った。
「お母様からお聞きしていますわ。とても素敵なお方だって」
「光栄です」
貴族でこの距離感は驚いたが、まだ幼いのだからそういうこともあるだろう。まだ社交界デビューもしていない14歳の女の子だ。
「お名前をお教えください」
「リディアと申します」
「リディア様、お姉様と呼んでもいいですか?」
「え?」
「わたくし、お姉様がほしかったんです!」
すごい勢いだった。
「こら、エステル。伯爵令嬢を困らせるな」
勢いに圧倒されて返答に迷っていたリディアを庇うように、小公爵が口を挟んだ。
「すみません。落ち着かない妹で」
「……いえ」
そうだ。年はリディアの方が上なのだから、落ち着いて対応しなくては。
「公爵令嬢、とても嬉しいお申し出ですが、まずはお友達から、ではいかがですか?」
「お友達……!」
その言葉に、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。
「嬉しい! 来年のデビュタントまでできないと思っていたのに!」
社交界デビューしないと、友達ができにくいという貴族の性質。確かリュセール公爵家に女の子は他にいなかったはずだし、寂しい思いをしていたのだろうか。
「リディア姉様、ぜひお友達になってくださいませ!」
リディアの手を両手で包んで身を乗り出す彼女に驚きながらも、
「喜んで」
と落ち着いて返した。
「エステル、落ち着きなさい」
それを見て、小公爵が妹を注意する。
「まぁ、お兄様、嫉妬ですの? リディア姉様はわたくしのお友達ですからね!」
「わかったから、まずは手を離しなさい。伯爵令嬢が驚かれているだろう」
「あら……」
彼女は不思議そうにリディアを見、困ってる?と聞くように首を傾げる。
これはどう答えるのが正解だろう。格上の人間に対して「困ってます」なんて言えるわけはない。しかしそれを否定するということは、小公爵の言葉を否定するということ。
「わかりました」
すると、彼女が手を離した。
「わたくし、お隣の孤児院を見に行ってまいります。リディア姉様、お兄様とお話していていただけませんか?」
「え?」
「では、よろしくお願いします!」
リディアの返事も待たず、彼女はパタパタと走り去った。
これは、空気を読まれたのだろうか。ありもしない空気を。
「そそかっしい妹ですみません」
小公爵が言った。
「いえ。楽しい妹君ですね」
そう返した。
「私も、ファーストネームでお呼びしてもいいですか?」
「え?」
それは意外な言葉だった。
「知らない仲ではない、と思いますが」
視線を逸らし、頬を赤らめる姿は、まるでリディアに恋をしているようではないか。
「母と妹には許してくださったのですから」
「かまいませんが」
リディアは戸惑っていた。恋心を向けられるのが初めて、というわけではない。リリーの時にはマフィアの構成員に熱視線を受けるが、それは利用すればよかった。しかし、今はどうだろう。この感情をどう受け取ればいいのだろう。
「では、私のこともジュリアンと呼んでください」
なぜこの人はリディアに好意を抱いているのだろう。もしかするとあの花は、体調を崩した公爵夫人の代わりというわけでもなく、ただの好意の証だったのだろうか。
「ジュリアン、様?」
戸惑いながら流れ出た言葉に、
「ありがとうございます」
彼は子どものような無邪気な笑みで微笑んだ。




