45 楽園の蜜
その日、リディアはとあることを計画した。いつもより少し早く寝る準備に入り、侍女たちを外に出す。そして、家を抜け出す準備をした。
久しぶりだった。かつて一度だけ、家を抜け出したことがある。ガレンに出会うきっかけになったあの時だ。
あの時と同じように、家族の目を盗んで外出する。馬車は使えないため、いつものリリーの姿で貴族街を歩いた。夜も更けたばかりで、まだ時間はある。だから焦る必要はなかった。
「リリー」
門を抜け、下町へ。暗がりの中待っていたガレンといつのように合流する。
「大丈夫?」
「あぁ。準備ばっちりだ」
それを確認して、ガレンを連れて門をくぐる。貴族のように顔パスができないため、莫大な通行料がかかる。それさえ払えれば、貴族街そのものには誰でも入れるようになっていた。
「すげぇ。初めてきた」
「そう。別におもしろいものでもないわよ」
下町と貴族街は、雰囲気が全く違う。下町育ちのガレンが驚くのも無理はない。リディアだって、初めて下町に出た時には驚いた。その時は父と一緒に領地に出かけた時だったか。活気のある市場を馬車から眺めて、楽しそう、と思ったものだ。
そして、今日の目的地。貴族街の一角にあるカジノだ。貴族たちが通う夜の社交場として機能するそこは、毎晩いろんな家門の貴族たちが集まっていた。
リディアを知っている人もいるだろう。だから、髪の色が変わっていることは確実にチェックする。ローブを外さなければバレることはないはずだ。
様々な賭け事が行われるテーブルを横目に見ながら、リディアは奥のバースペースに入った。
「ワインを」
バーテンダーにそう言って、椅子に座った。
「ガレンも遊んできていいわよ。お小遣いをあげるから」
「別にいい。楽しめるとも思えないし」
「そう?」
少し後ろで護衛のように立っているガレンとそんなことを話しながら、リディアは獲物が釣られるのを待った。
「わたしも賭け事をしてみればよかったかしら」
テーブルの方は盛り上がっていて、人だかりができているところもある。そういうところで勝ってみせた方が、顧客が掴まるのではないか。かといって、このカジノが正当な運営をされているとも思えない。ディーラーに金を握らせた貴族がいるはずだ。無意味にお金を落とす気にはなれなかった。
「お嬢さん、こんばんは」
その時、男が近づいてきた。
「ごきげんよう」
リディアはあえて丁寧に答える。
「見ない顔だね。どこの家?」
「……ふふ。ここでは、そういうことは聞かないのがマナーなのでは?」
「確かにね。お互い様だ」
返答は間違っていなかったらしい。
「何を飲んでるの?」
「ワインですわ」
「へぇ、いいね。お酒は好き?」
「まぁ、そうですね。たしなむ程度には」
かなりの家柄の人だと思った。相手が格上かもとは思ってもいない、砕けた口調。しかし見覚えはない。おそらく侯爵家くらいだろう。
「それ、なに?」
リディアが机に置いた小瓶に、彼が目を向けた。
「お酒がおいしくなる魔法のお薬です」
「へぇ」
男は興味深そうに目を輝かせる。
「よかったら、おひとつ、いかがですか?」
もうひとつを差し出すと、
「……大丈夫なものか?」
と不安を見せる。それはそうか。違法性がどう、だなんてここでは考えない。でもそれ以前に、貴族は毒殺を恐れるものだ。
リディアは自分のお酒に小瓶を傾け、中身を垂らした。それを彼の目の前で飲んでみせる。
「おいしい」
ふわりと気分が高揚する感じ。すぐに次を求めたくなるようなものはないが、気持ちよく酔いが回るのに似たその高揚感は、絶対に無視できない。
「じゃ、じゃあ、もらおうかな」
彼はそう言った。赤ワインを注文し、グラスに液体を注ぎ入れる。
「コクが出てまろやかに感じるんです」
「確かに」
一口飲んだ彼は、頷いた。
「いいね、これ。癖になりそうだ」
グラスに残った赤ワインを眺めながら、彼は言う。
「光栄です。実はこれ、わたしの商品なんです」
「へ? じゃあ、君は商人?」
リディアの告白に、彼は驚いていた。
「えぇ。軽蔑しますか?」
「……いや。ここに出入りできているんだから、商人の中でも裕福な方なんだろう。それに、君の所作は貴族みたいだ」
「嬉しいですわ」
商人を軽蔑する貴族も少なくない。貴族街に商人が入っているというだけで嫌がる人もきっといるだろう。そんな中、最初に会った人は、意外にもすんなり受け入れてくれた。
「ってことは、これ、売ってくれる?」
「もちろん、ご入用とあれば。それが商人というものですから」
「じゃあ、とりあえず5個もらうよ」
「ありがとうございます」
さっそく売れた。貴族相手だからと単価を高くしたが、問題なかったようだ。
「いい感じに酔いが回るね。そんなに強いお酒じゃないのに」
「よかった。お酒に合うように調整したんです」
躊躇いはなかった。この人たちが壊れようと、リディアには関係ない。そう割り切っていた。貴族の多くは、弱者と見れば容赦なく攻撃し、ありもしない証拠をたてて罪を増やす人たち。そのせいで父と兄をあんな目に合わせた前世を、忘れられなかった。
「よかったら、お友達にも宣伝してくださいませんか?」
「あぁ、もちろん。さすが商人だね」
そう言って男は去っていった。集まっていた若い男たちのところに行くのを見ると、さっそく宣伝してくれるのだろう。少し準備をしておこうか。
鞄を開けて、小瓶を出す。小瓶に入れ替えただけのエデンネクター。少しずつ、少しずつ闇へと誘うその薬は、まだまだたくさんあった。
*
「売れたわね」
カジノを出たリディアは、じゃらりと重くなった財布に微笑む。
「ん」
その時、ガレンに小瓶を押し付けられた。
「ちゃんと飲め」
水のようなその中身は、エデンネクターの解毒薬。
「わかってるわ」
リディアはそう答えて、小瓶を飲み干す。
「無茶するなよ」
「必要な演出よ」
後悔はしていなかった。たとえ危険だと言われても、必要があるなら武器を握ることだってできる。毒を飲むのにも、躊躇はなかった。
「帰りましょう」
そう言って、リディアは歩き出した。




