40 ふさわしい男に
「ジュリアン様、飲みすぎですよ」
ワインボトルを握る手が、その言葉で止まった。
「まだ1本も飲んでないだろ」
「これから舞踏会なんですから、自重してください。ほら、お水も飲んで」
主人の世話を焼くエドガーにボトルを奪われる。ハッと息をこぼし、タイを緩めた。
「ブラックリリーが捕まらないから焦っていらっしゃるのでしょうが」
「違う」
「舞踏会は舞踏会です。切り替えて、ご令嬢とのダンスをお楽しみください」
話を聞かない従者に無理やり着替えさせられる。
「そう簡単に捕らえられるものではないと、わかっていらっしゃったでしょう」
「……あぁ」
せめて今日までに何らかの成果を残していれば、彼女に自信を持ってダンスを申し込めたのに。
「そんなに早く結果がほしいなら、もっとレベルを落とせばよかったのでは? 犯罪組織の摘発なんかでも」
「それだけでは父上が認めてくれないだろう」
大きなことを成し遂げたかった。父に認められるために。大手を振って彼女を守れる資格を誇示するために。
「では、諦めて今日は社交界に集中してください」
「……わかってる」
どこか子どものようにふてくされたような主に、
「アルセイン伯爵令嬢も参加されるのでは?」
と従者が言う。
「そうだろうな」
そうじゃなければ、こんなものに参加する気にはなれない。といっても、不参加が認められる立場でもないのだが。唯一の救いは、彼女をそばで見守れるということだけだった。
*
彼女を見つけるのは容易かった。以前のように孤立しているわけでもなく、同じ立場の令嬢たちと集まって話している。その姿にホッと安堵した。
社交界によく顔を出すようになって、友人もできたのか。彼女を理解してくれるいい友人がそばにいてくれるのなら、と、ジュリアンも安心できた。
しかし、ふとした瞬間、彼女は会場に視線を向けた。それは、冷たく、世の中を俯瞰して見ているような視線だった。
彼女が汚い世界に染まるかのようで、ジュリアンは慌てて、しかし冷静を装って彼女に歩み寄った。
「ファーストダンスのお相手をお願いできませんか?」
「喜んで」
彼女はすっと手を取ってくれた。
ダンスは完璧だった。以前はどこか拙さが残る、かわいらしいダンスだったのに。ジュリアンがリードしなければと思わせるような隙はなく、なめらかに踊っていた。
その時、彼女の腰に触れた手に硬い何かが触れた。
「ポケットに何か入れているんですか?」
ついそう聞いていた。
「香水です」
彼女の返答に迷いはなかった。
「お兄様からプレゼントしていただいたものを、お守りとして持ち歩いているんです」
その言葉が、少しだけ寂しかった。
「そうなんですね」
彼女の耳についているのは緑色のイヤリング。以前ジュリアンがプレゼントしたラピスラズリではない。
兄からもらった香水は持ち歩くのに、ジュリアンがあげたアクセサリーは身につけることもないのか。それだけ彼女にとってのジュリアンは、特別ではないのだろう。
できるだけ手紙を書き、彼女の興味がありそうな文学や演劇の話をしている。彼女からの返事はいつも丁寧で、そっけなくされたことなんてない。
だからこそ、うぬぼれていた。
「どうかされたんですか?」
不思議そうに聞いてくる彼女に、
「いえ。兄君と仲がいいのですね」
とジュリアンは言う。
「まぁ、そうですね。ごく普通の兄妹かと」
羨ましい。と同時に、妬ましい。それは初めての感情だった。
「私も、あなたのお心の隅に、置いていただけませんか?」
だから、この言葉は勢いに任せたものだった。
「……お戯れを」
彼女がすっと足を引いた気がした。それはダンスがそういう振付だったからか。
「小公爵様にはずっとお似合いのご令嬢がきっといらっしゃいますわ」
そんなこと、言わないでほしい。君にだけは言われたくない。そんな子どものような感情に、
「貴女以外嫌だと言ったら?」
ジュリアンは抗えなかった。
「……酔っていらっしゃるのですね」
ダンスに合わせて近づいた時、彼女がふっと笑った。
「そういう素敵なお言葉は、ぜひお酒の力を借りていない時に聞きたいですわ」
それは、綺麗な笑顔だった。守ってあげなくては、と思わせそうな儚さではない。もっと明るく、艶やかな、大人の女性の笑顔。
「それでは」
完璧なカーテシーを決めて、彼女が離れていく。その背中から目が離せなかった。
彼女の手を握っていた右手が、少し冷たく感じた。
*
もし彼女の声で名前を呼ばれたら。そんなことを想像してみた。
きっと胸は高鳴り、気分がよくて、天にでも昇ってしまいそうな心地だろう。今の彼女の声には、きっとそういう力がある。
前回会った時、彼女は花畑の片隅でひっそり咲く儚い花だった。だからこそ守らなければと思ったのだ。恩師の代わりに、彼女を守る存在が必要だと。
しかし、今の彼女は、荒れ地の中真っ直ぐに伸びる力強い花だった。その花に必要なのは、傘ではない。添え木でもない。根を張るのにふさわしい土こそ、今の彼女に必要なものなのだろう。
やっぱり、何の成果もないままではいられない。
彼女を迎えるのにふさわしい男になりたい。
そのためにも、「ブラックリリー」を摘発しなければ。




