4 月夜の潜入
「今日は大人しく寝てるんだよ」
社交界の翌日、兄はそう言った。体力がなさすぎて身体が限界を訴えているのを、見透かされていたのだろうか。
しかし、こんなところで止まっている暇はない。あの事件までもうあと2年しかないのだから。
日中は体力回復のために一日中ベッドの上で過ごした。読書も刺繍もしなかった。家族も使用人たちも、誰もそれを不思議に思わない。皮肉にも、そんな自分の環境は、恵まれていると言えるのだろう。
食事として出された精のつくものはできるだけお腹に入れ、夜に備えた。正直こんな体調の時はお腹に優しいものしか食べたくなかった。むしろ何も食べない方がいいのかもしれない。しかし、動けなくなっては困る。パンもスープもサラダも頑張って食べた。
寝間着に身を包み、鏡を見る。使用人に髪を整えられながら、睨むように見つめた。
朝より幾分か顔色はよくなったか。しかしまだ疲労は隠せていない。上手くいくだろうか。
「……下がっていいわ」
使用人を下がらせて、自室に1人きりになる。
「……やれる」
その言葉は、自分を奮い立たせる魔法だった。
リディアはひとりで準備を始めた。シルクのドレスはいらない。できるだけ地味なワンピースがいい。古くなって色褪せたワンピースがあるのは、伯爵家が決して裕福ではないから。最後にマントを羽織って顔を隠し、使用人用の裏口から屋敷を出た。
*
下町の酒場がいい、というのは直感だった。荒くれ者の冒険者たちが集まる場所だと、そこしか思いつくところはなかった。
馬車を使わない移動は思った以上に辛かった。貴族の屋敷がある区域から平民が住む下町は、こんなに距離があったのかと驚かされた。
そして、灯りがついた酒場を見つけた。
木の扉を押すと、ギィィと錆び付いた蝶番の音がした。
「いらっしゃい!」
勢いよく振り返った女将の顔が、わかりやすく固まる。やはりこの場には不釣り合いな女に見えるのだろうか。
「エールを」
「……はいよ」
しかし、予想は当たっていた。明らかにガラの悪い男たちが酒盛りをしている。
場違いなリディアが入店したことで、彼らの注目はリディアに集まっていた。観察が先かと思ったが、そんな暇はないらしい。
「少しいいかしら」
一番大きなテーブルに行き、立った。背筋をピンと伸ばして、堂々と。
「依頼を受けてほしいの。誰に依頼すればいいのか、教えていただける?」
その言葉に答える者はいなかった。
「……タダで教えろと?」
しばらく間が開いて、屈強な男が告げた。
「いいえ」
やっぱりお金か。持ってきておいてよかった。
さすがに金貨そのものは持っていないが、価値のあるものならたくさんある。例えば、指輪はどうだろう。小さいが本物の宝石がついている。こんな酒場なら、一晩くらいは遊べるはずだ。
「これでどうかしら」
トン、と机に置く。その指輪が価値のあるものだということは、言わなくてもわかるはずだ。
「冒険者ギルドに依頼しな」
男が答えてくれた。
「見合った冒険者が受けるだろうさ」
本物の宝石の価値は、たったそれだけなのだろうか。それとも小さかったか。
「ギルドを通さない方が、あなたたちにとっても良いのでは?」
さらに尋ねる。
「ギルドでは報酬を中抜きされるのでしょう?」
あの火の中、男たちの会話を忘れたことはない。ギルドを通さずに依頼されたおかげで、かなりの額を手に入れた、などと話していたはずだ。
「はいはーい」
そこに、少し離れたテーブルでひとりで飲んでいた男が手を挙げた。
「誰もいないなら、俺がやりたいかな!」
元気な声に、人々を押しのけて駆け寄ってくる。
「いいですよね?」
彼はリディアに答えていた男に聞いた。
「……勝手にしろ」
男の返答を聞いて、
「だって。俺でもいいか? お嬢ちゃん」
と笑った。無邪気な子供のようなニカッとした笑顔に、リディアは表情を崩さずに頷いた。
酒場の片隅、男がいたテーブルで商談。そばにはエール、誰が聞いているかもわからない開けた場所。到底商談に向いているとは言えなかった。
「素材を集めてほしいの」
でも、わがままは言っていられない。外に出て見知らぬ男と2人きりになる危険性の方も、リディアは理解していた。
「何の?」
「魔獣よ。魔獣の肉を焼いた灰と、毛皮と、魔力のコア」
「……へぇ。何に使う気?」
男の顔がニヤリと笑った。
「教える必要があるかしら」
その試すような笑みに、リディアは騙されなかった。なんでも話しそうと思われたのが心外だ。そんな子供じゃない。
「ないね」
断られた男は期限を損ねるわけでもなく、ヘラっと笑った。
「どれくらいで集められる?」
「どんな魔獣でもいいなら余裕もって3日だな」
「なんでもいいわ。毛皮とコアがあるものならね」
毛皮を持たない魔物の存在も知識としてはある。それはきっと違う。魔獣の種類についてあの古代史には書いてなかったから、きっと灰と毛皮とコアがあればいいのだろう。
「5日後、同じ時間にここに来るわ。その時までに集めておいて。報酬は」
一瞬迷った。現金を持ち出せるだろうか。上手くいくかわからない。自由になるのは装飾品くらい。
「これは、前払いよ」
そして、ブレスレットを外した。小さな宝石がいくつかついているシンプルなものだ。
「まさかこれだけ?」
「いいえ。次に来る時に持ってくるわ」
「ふぅん……」
男はそれを持ち、指先でクルクルと回してみる。
「信用できないかしら」
これ以上に高価なものは、今日は持っていない。それに、前金でこれ以上を求められてしまうと、追加報酬がさらに上げられない。そんな不安をぐっと抑え込み、余裕たっぷりの笑顔の下に隠す。
「まぁ、初めての取引なんてお互い信用できなくて当たり前だろ」
男はそう言った。
「あんただって、俺が本当に目当ての素材を持ってくると思ってないだろ」
「……どうかしら」
信じてない、とは言えない。信じてるとも言わない。
「まぁ、一応名乗っておくぜ。Bランク冒険者、ガレンだ」
すっと差し出されたのは泥に汚れた手。どれくらい洗っていないのかもわからないグローブが、手のひらを包んでいる。
「リリーよ」
咄嗟に名乗ったのは偽名だった。その手を掴み、しっかりと握りしめる。
「ほっそい手」
ガレンはハハッと笑った。
*
暗闇の中、月の光だけを頼りに帰宅した。使用人用の出入り口を使い、屋敷中の目を盗みながら部屋に戻る。幸いもう遅いこともあって、誰にも会わなかった。
自室のドアを閉めた瞬間、はぁっと大きな息が漏れ出た。ミッション完了、と心の中で呟いた。
「……疲れた」
言葉になったのは、そんなものだった。
汗をかいている。お風呂に入るには、使用人を呼ばなければいけない。それに、そんな元気もない。
とりあえず着替えて、マントとワンピースはクローゼットの奥に隠す。その後は、もう限界だった。
ベッドに倒れ込むと、もう動けない。泥の匂い。安いエールの匂いに、荒くれ者たちの煙草の匂いも。かつてのリディアなら悲鳴をあげて遠ざけていただろうそれらが、滑らかなシーツを汚していく気がする。
不思議と、不快感はなかった。それどころか、達成感すら覚えた。まだ戦果を得たわけではないのに。頑張った、と自負する心が、今日の成果だった。
下町まで往復したせいで痛む足首と、疲労からか脈拍に合わせてきしむような頭痛。この痛みこそ、生きている証だ。
ずん、と重くなった身体をベッドに沈め、重い瞼を下ろす。
どうかうまくいきますように。
そう願いながら、まどろみの中に落ちていった。




