18 幸福の定義
「お疲れのようですね」
食事の席で、リディアが口を開いた。向かい合って座る兄の顔に、わずかな疲れが滲んでいたから。
「お仕事が忙しいのですか?」
「……いや」
兄の仕事は、いわば閑職のようなもので繁忙期もなければ特別忙しいこともない。だから不思議だった。
「父上から手紙は来ているか?」
「はい。先日も来ていたので、今日お返事を送ったところです」
「何か特別な話は?」
「いいえ。難しい話は、お父様とお兄様でなさるのでしょう?」
父との手紙はお互いの近況を語り合うくらいで、特別なことなんて何もない。先日の手紙の内容も、領地で旬の野菜が取れたから送るといった内容だった。
「……はぁ」
兄がわかりやすくため息をつく。
「お父様が何か?」
なぜ父との手紙でここまで疲れるのか。リディアにはわからなかった。
「結婚を急かされてるんだ」
「あぁ……」
確かに兄はもうとっくに適齢期を迎えている。なのにいまだに恋人の影もないから、父も不安なのだろう。
「良いお相手はいないのですか?」
「いたらこんなに苦労してない」
「そうですね」
ナイフで肉を切りながら、リディアは耳だけ傾ける。
「適当な令嬢を探しているが、もうこの年になるとな」
兄と同い年と考えると、女性としてはやや結婚適齢期を過ぎている。それなら少し年下でと探しても、兄の好みに合う人はいないのだろう。
それならいっそ裕福な平民で、という考え方もきっといいのだろうが、仮にもアルセイン家は貴族だ。将来この家を継ぐ人間の妻が平民なんてことは許されない。
「リディアはどうなんだ」
「え?」
突然兄に言われて、ナイフの動きが止まった。
「リディアだってそろそろ考えてもいい頃だろう?」
「まぁ……」
少し早い気もしなくはないが、この頃から恋人を作って結婚を考える令嬢も少なくないと聞く。
「僕としては、リディアの結婚相手を探したいんだが」
「なぜわたしなんですか?」
「リディアが結婚して子どもを産めば、その子を僕の後継者として育てればいいだろう?」
その言葉に、リディアは思わず顔をしかめた。
「リディアは結婚して幸せになれるし、僕は後継者ができるし、いいことではないかな」
「……わたしが幸せとは、限りません」
貴族の娘に生まれた以上、政略結婚をする覚悟はできている。政略結婚でも幸せになる例は数多くあるし、夫となる人を愛することができるならきっと幸せなのだろう。
それでも、リディアは考えられなかった。悲惨な未来を知ってしまっているから。
もし権力者と自分が結婚したら、あの未来は避けられるのだろうか。しかし、それは同時に、争いが苦手な父が戦場のど真ん中に入っていかなければいけなくなる。そんなことには、させたくなかった。
「わたしも、子爵家や男爵家の令嬢を調べてみます。お兄様のお好みにあうかはわかりませんが、この際わがままは言っていられないでしょう?」
「……わかってるよ」
少しだけ同情した。兄もまた、生きづらい世の中を生きているのだろう。
*
いつものように本を持って部屋を出た。向かう先は地下。ノエルの作業でも見ながら本を読もうと、地下の扉を開ける。
少しだけ視線をあげた彼は、また休んでいるようだった。
「また魔力切れ?」
そう言いながら覗き込むと、彼の腕が赤く染まっていた。思わず本が落ちた。
「怪我をしたの?」
「かすり傷だ。ちゃんと縛ってるし、血が止まればなんとかなる」
引きちぎった袖で上腕を縛っているのに、血が止まっていない。
「待ってて」
リディアはすぐに踵を返した。ポーションがしまってある倉庫にいき、上級ポーションを持ち出す。怪我の程度がわからないため、どれくらいの質のポーションで効くのかわからなかった。とりあえず上級なら効果はあるだろうと、考えている暇はなかった。
そして地下に戻り、迷わずノエルの腕にひっくり返す。
「おい」
「黙ってて」
ポーションを受けた傷跡が、青白く光を放ちながら閉じていく。
「いいのか? それ、ポーションだろ」
一般的に傷の手当てに使われるものとはいえ、多くが町医者にかかって使ってもらうもの。冒険者のように持ち歩いたり、貴族のように家に備蓄することは、ほとんどの平民はしない。
「こんな怪我を放っておけると思う?」
「別に治るだろ」
「動かなくなるわよ」
「まぁ、その時はその時だ」
医者を呼んだり、近くの診療所に運んだり。少なくとも安易にポーションを使うべきではない。それが、平民だった彼の理論なのだろう。
「ポーションは高いんだし、何も俺のために使わなくても」
「別にいいわよ。この家に置いておいても使わないんだし」
安くはない。だから貴族の家にしか置いてないのだろうが。
「動く?」
彼は腕を回し、手を開く。
「ん、痛みもなくなった」
それを聞いて、リディアはホッと息をついた。
「何をしたの?」
彼が怪我をするなんて珍しい。今まで一度もなかったのに。
「アッシュラインに石を入れてみた」
ノエルは壊れたアッシュラインを指した。
「暴発した。異物が詰まってると危ないらしいな」
「……そう」
これもまた、ノエルにとってはひとつの実験の結果に過ぎないのだろう。血を流して倒れている姿を見た時のリディアの気持ちなんて、彼には微塵も伝わっていないのだ。
黙り込むリディアに、ノエルは少し考えて、
「ごめん。商品をひとつ壊して」
と頭を下げた。
「……わたしが怒ってると思ってる?」
「違うのか?」
本当に伝わっていないらしい。リディアはそっと手を伸ばし、もう傷が塞がった彼の右腕に触れる。
「アッシュラインを壊したことじゃないわ。あんなもの、いくらでも量産できる。でも、それは、あなたがいるからなのよ」
大丈夫。温かい。しっかりと温もりを感じるのに。指先は、冷たくなった母の遺体を覚えているようだ。
「あなた自身にも価値があるの。それを忘れないで」
リディアには止められなかった。彼の好奇心から起こした事故だ。それがわかっていても。自分が指示をしたことで命を失う人がいるという現実が、つらかった。
*
「リディア、入ってもいい?」
兄がリディアの部屋の扉を叩いた。
「どうぞ」
夜も更けてくつろいでいたリディアが兄を招き入れる。
「どうされたのですか?」
「ポーションの在庫が合わないらしいんだ。何か知ってる?」
執事から報告されたのか。ほとんど使われることのないポーションを、使ったその日に減っていると気づいて報告するなんて、優秀すぎる執事だと褒めた方がいいのだろうか。
「わたしが使いました」
リディアはそう答えた。
「体調が悪くて。ポーションを飲んだら楽になりました」
それを聞いて、兄は眉を寄せた。
「ポーションを飲んだからって動き回っちゃいけない。ちゃんと休まないと。ポーションなんか使う必要はないだろう?」
「……そうですね」
叱られているのだとわかった。体調が悪いなら休めと、昔から言われているのだから。
「どうしても読みたい本があったんです。勝手に使ってごめんなさい」
素直に頭を下げると、兄の手がその頭に乗せられた。
「わかってくれたならいいんだ。今度から、体調が悪かったらちゃんと休んで」
兄の手の温もりが、頭皮にじんわり伝わる。それが心地よかった。
「せっかく読書係を雇っているんだ。リディアが無理に読まなくても、彼に読んでもらえばいいだろう?」
「わかりました」
リディアが頷くのを見て、兄はさらにくしゃっと頭を撫でる。
「髪が乱れます。やめてください、お兄様」
「お仕置きだ」
兄の顔が楽しそうに綻ぶ。その笑顔を、失いたくない。そう思った。




