17 公爵令息の独白
あの日、彼は救われた。
『大丈夫ですか?』
植木の中に隠れていた彼の姿を見つけてくれたあの時。彼の人生は変わったのだ。
*
小さい頃から彼に向けられていたのは、重い期待だった。四大公爵家の1つ、リュセール公爵家の長男として生まれた時から「次期公爵」という視線から逃れられなかった。
物心がついた時には厳しい教育が始まり、つらくて、悲しくて、その立場から逃げ出したくて、何度となく授業から逃げた。その度に叱られ、ひどい時は閉じ込められた。
植木の中に隠れて泣いていた時、その人は現れたのだ。
『いきたくない』
その人は、幼い彼の言葉を受け止めてくれた。
『それなら、わたしとお話しましょうか』
綺麗なドレスが汚れるのも気にせず、彼女は地面に座った。植木の隣、土に汚れる場所に。
『今日はいい天気ですね』
説得するわけでもなく、そんな世間話を楽しむ。
そんな彼女が、今日から入る文学の家庭教師だと知ったのは、彼女に連れられて植木を出た時だった。
毎週の文学の授業は、楽しくお喋りを楽しむ時間だった。無理やり勉強させられることがなかったため、その時間だけは彼も授業に臨んだ。
でも、休みになる日も少なく無かった。
『どうして先週はお休みだったんですか?』
寂しくてそう聞いたことがある。彼女は悲しそうに笑って、
『申し訳ありません。娘が熱を出してしまって』
そう言っていた。
『娘?』
『えぇ。少し身体が弱い子で、よく熱を出すんです』
それを聞いて、彼は人生で初めて嫉妬した。娘なんて放っておいてほしいと願った。でも、頭がよかった彼は、それが間違った感情だということも気づいていた。
『お大事にと伝えてください』
『ありがとうございます』
マナーの授業で覚えた言葉で返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
『娘の病気が治ったら、遊んであげてください。最近は頑張って本を読んで勉強しているんですよ』
文学の先生の娘だ。きっと知識はいっぱいなのだろう。そんな子と話して楽しいのだろうか。そんなことを考えていた。
*
その日が来ることはなかった。文学の授業が休みになる週も多く、その度に「また熱か」と呆れていた。時々「本当に熱を出しているのか?」「親にかまってほしくて嘘をついているのでは?」と思ったこともあった。
そんな嫉妬も年齢があがるとなくなってきて、文学の授業が終わる頃には、恩師の娘に会ってみたいと思っていた。でも結局会えることもなく授業は終わり、そんなこともあったな、といい思い出になった頃、恩師が亡くなった。
彼女のお別れ会で、初めて娘を見た。
確か4歳下だったか。病弱だと聞いていた通り、どこか儚い女性だった。今にも倒れそうなほど青白くて、母親の死で憔悴しているのだとわかった。
『助けたい』
そう思った。
それから間もなく、アルセイン伯爵家の噂が社交界に流れるようになった。
『伯爵は金を積んで侯爵令嬢を娶った』
『社交界に出てこない令嬢は、病弱だというのは嘘で精神的に病んでいる』
『息子は不能だから結婚しようとしない』
などなど、耳を覆いたくなるような悪評たちが、まことしやかにささやかれる。全員がそんな噂を信じていく現実に、彼は焦った。
どうにかしたい。そう思ったものの、簡単には動けなかった。同じ派閥ではなかったから。皇帝派の筆頭と言われる公爵家の嫡男が、中立派でしかない家を庇うということは、アルセイン伯爵家を無理やり中立派からこちらに引き寄せるように見えてしまうから。
せめて伯爵令嬢と結婚できれば。そう思ったが、貴族の子女子息の結婚は家の決定でしかない。父が良しと認めなければ、そんなことはできないのだ。
どうしようもなく、恩師の大切な家族が貶されるのを見ていることしかできなかった。
*
そんな時、皇后主催のパーティーで、伯爵令嬢が久しぶりに社交界に出てきた。相変わらず顔色は悪かったものの、前のようにおどおどした雰囲気はなくなっていた。胸を張り、あごを軽く引いた凛とした姿勢は、どこか恩師を思わせた。
それでも噂を気にして避ける令嬢たちを前に、彼女は困惑していそうだった。
『もしよろしければ、1曲お相手願えませんか?』
だから、ダンスに誘った。
『喜んで』
そう答えた顔は、ホッとしたような笑顔だった。
どこか拙くて、それでも精一杯ついてくる彼女に、
『大丈夫?』
と踊りながら聞いた。
『なにがですか?』
彼女は笑っていた。その笑顔は、どこか悲しそうに見えた。
『困ってるかなって』
『何のことでしょう』
困っている、助けて、なんてことは言わなかった。
『助けてほしいなら言って。私なら君を救ってあげられる』
彼女の言葉さえあれば、父の反対を押しのけてでも彼女に結婚を申し込める。彼女が同意してくれるとわかっていれば。
『お気遣い、ありがとうございます』
曲が終わる。彼女は一言告げて、手を離した。
『お誘いいただき、ありがとうございました』
彼女のカーテシーは綺麗だった。最後まで「たすけて」という言葉は言わない彼女に、貴族としてのプライドを感じた。
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『お前は立場をわかっていないのか』
そのパーティーの後、父に叱られた。
『申し訳ございません』
謝ることしかできなかった。父に逆らう言葉は、誰も教えてくれなかった。
『今回は力のない家の令嬢だったからいいが、中立派には関わるな』
安易に動いてはいけない。自分の言動が、家の、そして派閥の意思とみられる可能性がある。そんなことはわかっていた。
『父上、アルセイン伯爵令嬢に結婚を申し込ませてください』
それでも、止まれなかった。
『一目惚れなんです』
それは、半分嘘だった。いや、きっとなくはなかったと思う。でも、「守りたい」という気持ちが強かった。
『バカらしい』
父はそう一蹴した。
『情で家を動かそうとするな』
その時は、それ以上反論できなかった。
*
でも、今ならどうだろう。
母が彼女を気に入っている。お茶会や読書会に呼び、親しくしている。母が認めた令嬢なら、父も認めてくれるのではないか。
「父上」
父と母の元を訪れ、声をかける。
「アルセイン伯爵令嬢に結婚を申し込んでもよろしいですか?」
迷いはなかった。これこそが正しいと思っていたから。
しかし、父の表情は良くなかった。
「母上も彼女の教養を認めているようですし、私の妻として問題ない方だと思います」
「教養だけで、公爵家の嫁になれると?」
「社交界にもよく顔を出しているようですよ。読書会やお茶会にも積極的とか」
「それは貴族の娘の義務だろう」
それはそうだ。でも、それさえもできなかった昔の彼女とは違う。病気が治ったのかまではわからないが、少なくとも体調が落ち着いているのだろう。
「同じ派閥で結束を強めるか、敵派閥でこちらに取り込むか。中立派を取り込むような危険な真似はできない」
「中立派を取り込むことにも意味はあると思いますよ。政治の場において、意見を多数派にすることは重要でしょう」
「あの家は政治の意思決定の場には顔を出さないがな」
アルセイン領は王都から離れた北の果て。当主は一年のほとんどを領地で過ごし、その息子も書庫の責任者という閑職で働いていて、政治のことを話し合う場にはいつも欠席だ。
皇帝派と貴族派がバチバチにやりあう場で、中立派として立場がないのはわかる。でも、その場から逃げるというのは、無責任にも見えるのだろう。
「母上……」
母に助けを請うと、
「わたしはただお友達とおしゃべりを楽しんでいるだけ。政治には関わりませんよ」
と告げられてしまった。
「あのご令嬢は、あなたの気持ちを受け取ってくれるのですか?」
それを言われて、何も言えなかった。彼女から好意を向けられていると思ったことはない。この前だって、静かに断られた。
『小公爵様に守っていただくような身分ではございません。まだ関係も浅いではありませんか』
その時のあの言葉、綺麗に置かれたナプキンは、彼女の心の分厚い扉のようだった。




