10 地下室
「この地下室は自由に使っていいわ」
リディアが地下室の扉を開ける。錆びた蝶番の音ともに、埃と湿気を含んだ空気がざらりと動いた。
「……なんでこんな場所があるんだ」
呆れながら吐き出された言葉に、リディアは小さく笑う。
「貴族の屋敷ならどこにでもあるわ。ただ、わたしたちは使わない。お父様の意向でね」
外に音が漏れない設計には、きっと魔法が組み込んである。唯一のドアも重厚で、まるで捕らえられた何かを絶対に逃がさないと言っているよう。忌々しい貴族の風習が、こんな形で役に立つなんて思わなかった。
「安心して。ここの鍵はお父様の執務室にしかない。今は執事が管理しているのでしょう。お兄様もこんな何もない場所に用なんてないはずだから、誰も来ないはずよ」
「わかった」
「魔法陣用の導魔液とガレンから届けられる素材はここに入れていいから」
ガレンには素材集めをお願いした。ノエルに正体を明かしたから、彼にも知っておいてもらわないと公平じゃない。だから、「素材はアルセイン伯爵家宛てに届けて」と伝えた。リディアの所作を見て貴族だと察した彼なら、これだけでも充分な答えだろう。
「魔法陣はこれよ」
紙に複写しておいた魔法陣を渡すと、ノエルは少し観察して、
「これ、アッシュラインがある程度作れたら、いろいろ実験してみてもいいか?」
と言った。
「実験?」
「素材の組み合わせとかで、生成されるものが違うのか。あと、魔法陣の組み換えだな。どこがどう作用しているのか、とか」
ノエルにとって、これはそんな幅のあるものに見えるのか。
「好きにして。商売もすぐに始めるわけではないし」
「じゃあ、アッシュライン用の素材以外にも使えそうなものは送ってほしいとガレンに伝えてくれ。いろいろ試してみたい」
「わかったわ」
リディアはそう頷いた。
*
リディアの計画は順調に動いていた。虚弱な令嬢を演じながら、武器商人としての「リリー」の顔も操る。どちらが本当の「リディア」なのか、わからなくなるくらいに。
リディアが令嬢として過ごす数日の間で、ノエルは実験というものを進めたのだろう。
「魔法陣についての詳しい本が見たい」
そう言ってきた。
「書庫には入っていいと言ったはずだけど」
「もう見た。でも足りない。もっと詳しいのがほしい」
「……そう」
確かに、本好きの父が集めたとはいっても、やっぱり経済力には敵わない。ノエルを皇宮書庫に連れていけないか。何か新しいものを見つけてくれるかもしれない。
「少し考えるわ」
リディアはそう答えた。
*
そして翌日、リディアは職場にいる兄を訪ねる名目で外出した。ノエルを同行させ、皇宮に入る。
「リディア、また本を読みに来たのか?」
兄はどこか呆れていた。
「はい。屋敷の本はもう飽きてしまって。お兄様のお仕事の邪魔はしませんから、少し本を読んでいてもいいですか?」
「邪魔にはならないから、好きにしていいよ」
読書家の令嬢ならきっと不自然ではない。特にアルセイン伯爵家は、祖父の代から本とは切っても切り離せない家系だ。
「その読書係、気に入っているみたいだね」
兄が言った。
「……はい」
毎日のように部屋に呼んでいるからだろう。その日の進捗を聞いているだけだが、読書係として読み聞かせをしてもらっているように見えるはずだ。
「声が落ち着いていて聞きやすいのです。それに、文章の受け取り方も似ているようで、感想を話し合うのが楽しくて」
「それなら雇って正解だったみたいだ。父上も心配していらっしゃったから、お手紙に書いておくといい」
「わかりました」
そういえば父から手紙が来ていた。その返事も書かなければ。
「司書官殿、よろしいでしょうか」
「あぁ」
部下に呼ばれた兄が去っていって、リディアはさりげなくその場を離れる。行き先は、古代史の書棚だ。
「この辺りよ。アッシュラインについては、この本が一番詳しいわ」
「ん」
彼は短く頷き、さらっと紙を捲る。その手は慣れていた。安い羊皮紙じゃない、高級な紙を使った本だというのに。驚きも躊躇いもなかった。やはり、かつては恵まれた立場だったのだろう。
リディアもそれに近い本を開いて、その場で軽く目を通す。令嬢と読書係が本について話しているようにしか見えない光景を作り、リディアは彼の視線の動きを観察した。
何を考えているのかまではわからない。ただ、どこに注視しているのかくらいはわかる。その視線に映るのは、様々な形の魔法陣。大嫌いな貴族への復讐に燃える彼は、いったい何をしてくれるのだろう。
「アルセイン伯爵令嬢?」
なじみのない声に、ハッと振り返った。
「すみません。小伯爵に、こちらにいらっしゃると聞いて」
見覚えのある顔。少し考えて、あのパーティーで踊った人物だと思い出す。確か、リュセール小公爵と言ったか。
「リュセール小公爵様、お久しぶりでございます」
軽く膝を曲げてカーテシーをする。
「あぁ、楽にしてください。読書の邪魔をして、すみません」
「かまいません。本はいつでも読めますから」
軽く本を包むように両手で持つ。その手を見て、
「古代史、ですか?」
小公爵が尋ねた。
「えぇ」
「珍しいですね。ご令嬢が好むジャンルではないと思っていましたが」
「なんでも読んでみたいのです。この本は難しかったので、少し時間はかかりますが、理解したくて」
確かにこのジャンルは、国の中枢に関わるような政治的な立場が強い貴族家の後継者が教育されそうなもの。でも、リディアには関係ない。令嬢が好むようなかわいらしい恋愛物語なんて、興味がないのだから。
「小公爵様は、書庫に何かご用ですか?」
「いや……」
彼は目を逸らした。何かを隠すように。これは踏み込んではいけない質問だったか。
「失礼いたしました」
すぐに引き、謝罪の意を込めてお辞儀をする。
「あ、いや。すみません。伯爵令嬢が悪いわけではなくて……」
彼はなぜか口ごもるようにそう言った後、
「そう、私も勉強したくて。よかったら、伯爵令嬢のおすすめの書物を教えていただけませんか?」
「小公爵様におすすめできるような立場ではございません」
どうしよう。ノエルに武器について知識を入れてほしいのに。リディアが話していては、彼は本を読めないのではないか。リディアの背中に隠れているとはいえ、彼はあくまで「従者」でしかないのだから。
「お嬢様」
その時、ノエルが声を上げた。
「こちら、お嬢様のお好みに合うかと」
彼は古代の恋愛物語の本を差し出した。
「ありがとう」
リディアはそれを受け取り、
「小公爵様、申し訳ございませんが、本を読んでもよろしいですか? 兄の仕事の間にしか読めないので、早く読みたくて」
と申し訳なさそうな笑みを向ける。
「あ、あぁ……。邪魔をしてしまってすみません」
彼はなぜか残念そうに去っていった。
「……ふぅ」
書棚の影で、リディアは小さな息を漏らした。
「助かったわ。ありがとう」
「いや。お貴族様は大変だな。あんなやつでも相手にしなきゃいけないんだ」
呆れながらも、彼の視線はずっと本に向いたまま。リディアを敬う気なんて、全くないらしい。
「そう言うものでもないわ。地位がある方だもの」
リディアは軽く諫めた。
「心配しなくても、俺は隠れて読んでたぞ。ちょうど影になってたしな。いろいろ興味深いところも見つかった。早く帰って試したい」
「もう少し待って」
兄の仕事が終わったタイミングで一緒に帰るのが望ましい。そのためには、まだもう少し時間を潰さなければいけない。
ノエルは残念がるかと思ったが、「そうか」と軽く言っただけで、本から視線を外さなかった。




