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龍の国にて  作者: しし
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5-9 翡翠空


5-9 翡翠空


「早くこちらに来てください」

怒号がすぐ近くで響き、

時間がないことを告げていた。


「この仕掛けは、建国王の時代のものよ。

龍との絆に反応して、あなた以外は使えないの」


翡翠空は静かに諭すように言ったが、私は必死に声を重ねた。


「だったら、そちらに戻る方法を教えてください、母様」


呼びかけた瞬間、壁越しの向こうから小さな沈黙が落ちた。

ほんの刹那、息を呑む気配が伝わってくる。

それがどんなためらいなのか、私には分からなかった。


翡翠空は私を決して抱きしめなかった。

だが、見捨てず影のように寄り添い、導き守り続けた。

私は温もりを与えてくれない寂しさに苛まれながらも、それでも心の内でずっと彼女を母と慕っていた。


しばらくの沈黙のあと、すすり泣くような声が聞こえた。


翡翠空の声を聞き逃さないよう、私は目の前の壁に身を寄せた。


「私を母と呼んでくれるのね……。

愛していたわ。

あんなに小さなあなたを、愛さずにはいられなかった。

でも、無理だったの。

皇帝の息子であるあなたを、ただ愛することはできなかった。

私は皇帝のただ一人の女になりたかったの。

母親ではなく、私はひとりの女だったわ。

でも今ようやく、あなたの母になれた気がする」


怒号と悲鳴にかき消され、彼女の声は途切れ途切れだった。

彼女は強く誇り高かった。

その強さは母であることの優しさとは違う、女としての覚悟と誇りだった。

けれど、それが私を生かしたのだ。


「その箱は、私の代わりにあなたのそばに置いておいて。

あなたを守るお守りよ」


目の前には煉瓦の壁。

冷たく固いそれが、翡翠空との距離を隔てている。

向こう側から伝わる声は、壁に染み込んで震えるように響いた。


私は腕に抱えた、さっき暖炉の前で渡された小箱を強く握りしめた。


突然、扉が蹴破られる音が響き、

続いて女官たちの悲痛な叫びが重なった。


仕掛けだというのであれば、こちらから戻る手立てもあるはずだ。

先程のような龍の模様を探したが、薄暗くてよく見えない。


私は無力感に苛まされ、ただ目の前の壁を見つめ、

翡翠空から発せられる声を聞くしか無かった。


騎士達の武器や鎧が立てる金属音が聞こえた。


「剣を下げなさい。

皇帝の正妃たる私に剣を向けるなど、騎士たる誇りはないのですか?

恥を知りなさい」


「野放しの龍を帝都に連れ込み、混乱を招いた朱映空を粛清のためにきた。

帝国のためである、矮小なしきたりには縛られん」


翡翠空の声に混じり、騎士の声も聞こえる。


「鎖につながれた龍しか認めないとは……。

ですが、知識が浅いと断ずるには、早計かもしれませんね。

知識を独り占めし、皆への公開を恐れたのは歴代の皇帝たちなのですから」


翡翠空の声はもう震えてはいなかった。

誇り高い正妃の声だった。


「愚弄するのか、お飾りの正妃風情が、朱映空を出せ!」


壁の前でただ拳を握りしめる。

私の足元から朱色と翡翠の光が立ち上がる。

目視できていない、効果はあるのか……。


光は壁を越えて翡翠空のもとへと流れ込む。

戦士ではない彼女にとって、攻撃を強める朱色も、回復を補う翡翠も、戦の役には立たない。

だがその輝きは、確かに彼女を包み、朱映の想いをその胸へと届けていた。

それは傷を癒す術ではなく、彼女の「心」を守る盾だった。


翡翠空は、自身を包む光を愛おしそうに見つめた。


仄かな光に包まれる正妃の姿に騎士たちは驚き、「異端の魔法だ」と呟く。


翡翠空は騎士たちをまっすぐ、迷いない目で見つめた。

「お断りしましょう、あの子だけは守ります」


騎士たちは、恐怖と畏怖、怒りの混ざった声を放った。

「ならば、詐りの皇太子と共に死ね!」


剣が肉を切る鈍い音、

女官たちの悲痛な叫び、

くぐもった声……


……翡翠空の声は聞こえなくなった。


翡翠の光がただ強く私の足元から溢れるが、

足元に流れる水は、ただ赤黒く染まっていた。


騎士たちが私を探す怒声と、女官たちの悲鳴が聞こえる。


私は、目の前の壁を強く叩いた。


「こちらだ!」

騎士たちが煉瓦を壊そうとしている音が響く。


『そこにいたら、守れない!

帰ってきて、朱映!』


私は悲痛なアズールの心の声に、

まだ自分にはやるべきことがあると思い出した。


翡翠空の小箱を強く握りしめ、ただ目の前の階段を駆け下りる。


翡翠空の喪失は、私にとって帝都における絶対的な味方を失ったということだった。

ただそれだけではなかった。

この苦しみは、哀しみは……。

母を失ったことへの喪失感だった。





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