5-8 二人の母
5-8 二人の母
桂花のもとに、柘榴家から贈り物が届いた。
金糸で結ばれた花籠と、見事な香の品々。
どれもが一流で、どれもが丁重――その中に、ひとつだけ。
柔らかな牡丹の花弁に紛れるように、
小さな指先が、眠るように添えられていた。
桂花は咲き誇る花籠の中に指を入れた。
指先に触れたそれは、花でも香でもない――冷たく硬くなった“人間の一部”。
一本の、女の指だった。
咄嗟に何かを言いかけた女官の前で、桂花は微笑んだまま、
何もなかったように指を懐に隠した。
「……良き花を、ありがとう。と伝えて」
穏やかに、艶やかに微笑んだ桂花は、
侍女たちに贈り物の仕分けを命じた。
花を持ってきた女官に向き直り、告げる。
「わかりましたわ。
その騎士たち十人に後宮への出入りの許可を出せばよろしいのですね。
すぐに許可させていただくとお伝えになってください」
必要な書類に印を押して、私室に戻ると桂花は言った。
人のいない私室で、
障子を閉め、机の奥から小さな漆の箱を取り出した。
蓋を開けると、そこにはすでに干からびた指が三本、静かに眠っていた。
桂花は四本目となる指をそっと並べ、
蓋を閉じる前に、小さく名を呼んだ。
「……霞馨」
手が届かぬ場所にいる娘の名を、そっとつぶやいた。
◆◆◆
日差しが優しく入り込み、花々が飾られた廊下を、
着飾った皇太子が、一人の侍女の誘導だけを受けて歩いていた。
予定が延びていた帰還の挨拶を、養母・翡翠空にするためだった。
廊下を進む私のそばで、先導の女官が静かに告げた。
「翡翠空さまが自ら手配された花です。朱映空様を歓迎したいと仰せでした。」
その言葉を聞き、私は静かに頷いた。
花々を眺め、翡翠空の歓迎をただ受け止めていた。
皇帝の突然の立太子宣言により、私の行動は貴族の謁見や打ち合わせで埋め尽くされ、
翡翠空との懇談は帝都到着から約2週間後となってしまった。
大広間まで翡翠空が訪れる方向で調整されていたが、
皇帝の正妃である翡翠空に対する不遜だとの声が貴族から上がり、
私が翡翠空の自室に向かうことになった。
女官長・練は、アズールの傍から私が離れることで警備が薄くなることを警戒し、
大広間から後宮までの短い往来のためだけに直属の騎士を用意したが、
騎士の後宮への出入りは許されず、後宮に入った後は一人となっていた。
翡翠空の自室には、三年前と変わらぬ姿で私を迎える養母がいた。
「よくぞ戻りました。
おかえりなさい」
私の目を見てそう告げる彼女を見つめ、
私は心の中で「母様」と呼んでいた。
「はい、ただいま戻りました。
翡翠空様」
しかし、口から出た言葉は心の中で呼ぶ名前と異なっていた。
彼女と向かい合い座り、静かにお茶を飲んだ。
最初は私の立太子の話に始まり、貴族たちの動きや連れてきた少女、清雀の保護と後ろ盾の依頼など、さまざまな実務の話が続いた。
その後は後宮に飾られた花や、翡翠空が最近気に入っているお茶の話など、他愛のない日常の話となった。
話題も尽き、少しの沈黙のあと、
私は野兎が死んだことを彼女に伝えた。
「そう、最後まで彼はあなたを守れたのね」
そうつぶやき、翡翠空は目を閉じて哀悼の言葉を捧げた。
私も同じように野兎を想い、目を閉じて哀惜の祈りを捧げる。
野兎と翡翠空、この二人がいなければ私はきっと過去の日々を乗り越えられなかっただろう。
ただ感謝を二人に捧げていた。
その時、急に空気を引き裂くような女の悲鳴が、
静かで穏やかな後宮に響き渡った。
私は立ち上がり、腰に手をやるが、武器は後宮に入るとき控えの間に置いてきたことを思い出した。
部屋を見渡し、何か武器になるものはないか探したが見当たらない。
悲鳴に続き、荒々しい怒号が遠くから聞こえてくる。
ありえない事態だった。反乱か?清雀の近くにはアズールがいる。
二人でいれば無事だろうが……。
遠くにいる二人を思っていると、心にアズールの声が届いた。
『どうしたの?急に不安そうだね?』
「反乱かもしれない。そっちも気をつけてくれ。合流できる方法を考える」
そう答え、私は周囲を改めて見渡した。
やはり武器になりそうなものはなかった。
翡翠空の侍女たちは部屋の扉を閉め、家具を扉の前に運ぶが、
女の手でも運べるような軽い家具しかないようだった。
私は先ほどまで座っていた椅子を扉の前に置こうと手を伸ばした。
軽い……これではほとんど時間稼ぎにならないだろう。
私は振り返り、翡翠空を見つめた。
「翡翠空様、この部屋から中庭に出られるような場所や通路はありませんか?」
翡翠空は静かに頷き、立ち上がった。
そして私を促して続きの間に入ってゆく。
遠くの廊下から聞こえる、後宮ではあり得ぬ怒号と悲鳴の声を背に、
私は翡翠空の後ろに続いた。
煉瓦造りの暖炉と小さなテーブルだけが置かれた部屋だった。
彼女は暖炉の上に置かれた繊細な模様の小箱を私に渡し、
暖炉の壁を指さした。
「朱栄空、暖炉の壁に龍の模様のようなものが見えるでしょう。
そこに触りなさい」
私は小箱を抱えたまましゃがんで暖炉を覗き込むと、
彼女が言った通り龍の模様があるのを目視した。
「翡翠空様、これは、
隠し扉か何かですか」
段々と近づいてくる悲鳴と怒号に、
私はなんとか翡翠空だけでも連れて逃げられないかと考えていた。
中庭まで行けば大広間にいるアズールが迎えに来られる、翡翠空を抱えて走るしかないか。
私は自分が完全に油断していたことを悔やみながら、龍の模様に手を触れた。
その瞬間、白と黒の光が私を包んだ。
眩しさに思わず瞑った目を開けると、
小箱を抱えた私は一人、煉瓦造りの階段が続く行き止まりのような場所にしゃがみ込んでいた。
階段は薄暗く、湿っており、足元には水が流れていた。
「翡翠空様!」
思わず声を上げると、意外に近いところから彼女の声が聞こえた。
この行き止まりの向こうは、さっきいた小部屋のようだった。
「朱栄空、よく聞きなさい。
その階段の先は中庭につながっています。
あなたの龍と合流しなさい」
いつもの落ち着いた彼女の声だった。
私は目の前の壁を強く拳で叩き、叫んだ。
「母様!」
心も叫んでいた。




