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龍の国にて  作者: しし
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5-4 乱れ咲く


5-4 乱れ咲く


先触れの女官が静かに扉の脇へ進み出て、深々と頭を垂れた。

続いて、大広間の入口に立つ女官長・練が、澄んだ声で告げる。


「泰威空帝――入室されます」


ざわめいていた空気が、ぴたりと止まった。

絨毯の上を滑る衣擦れの音が重なり、貴族たちは一斉に跪く。

女官たちは壁際へと退き、頭を深く垂れた。


視界の端で、宝石のように煌めく衣が静かに揺れる。

絹の擦れる音とともに、香油と白檀が混ざり合った濃密な香りが空気を満たし、甘く鼻腔を刺した。

一瞬、眩暈を覚える。


清雀の肩にそっと手を添え、目配せで「頭を下げろ」と促す。

彼女は戸惑いながらも、私の隣で静かに跪いた。


アズールだけが動かない。

三人きりになるまでは口を開かない――そう約束していた。

朱の瞳が、静かに私を見つめている。

その視線を一瞬だけ受け止め、私は覚悟を決めた。

皇帝が現れる扉に向き直り、深く膝をつく。


衣擦れの音が近づき、私の目の前で止まった。


「朱映空、面を上げよ」


静かな声が、場を満たすように響く。

その声に従い、私は顔を上げた。


視線の先――そこに立っていたのは、泰威空帝。

私とさほど年の変わらぬ外見の父。

三年前と何一つ変わらぬ容姿。

そして、ただ静かに、龍を見つめる皇帝の姿。


あいかわらず、恐ろしい人だ。

龍を迎えた皇帝は、その退位まで年を取らないという。

神の祝福とも言われるその姿は、手の甲に浮かぶ浅黒い痣と相まって、

私にはむしろ、無理に命の形を止められた、おぞましい化け物のように見えた。


「……朱映空、手の甲を見せよ」

差し出されたその手に、必死に震えを悟られぬよう願いながら、

絆の印が浮かぶ自分の手を重ねた。


「まさか、龍の絆を持つ人間をこの目で見ることになろうとは……」

掠れるような声が漏れる。

その真意を探ろうとした瞬間、皇帝は私の手を離し、片手を高く上げた。


「皆のもの、顔を上げよ!」


集まった貴族たちの顔を見渡し、宣言が響き渡る。


「朱映空を皇太子とする。立太子の儀に向けて動け」


胸の奥がわずかに凍りつく。

――あまりにも早すぎる。

しばらくは貴族同士の潰し合いで膠着し、その隙に計画を進めるはずだった。

立太子の儀が行われれば、

私に残された時間はほとんどない。

これは最悪の一手だ。

戦局を、読み違えた……。


「練、しばし太子に付き整えよ。大広間を太子の居室に変えよ」


そう言い残し、皇帝は静かに大広間を後にした。


その瞬間、大広間の空気は解き放たれた。

ざわめきが一気に広がる――が、それすらも退き際に放たれた種火のように思える。

この場にいる誰一人、皇帝の手のひらから逃れられない。

私もまた、その駒のひとつにすぎぬのだ。


あとにはざわめきを残す貴族達、

我先に私に群がる者と、仲間内で集まり話をしだす者に別れた。

視界が人波に塞がれ、誰がどこで動いているのかすら見えない。

苦味が喉の奥にじわりと広がっていった。




◆◆◆


大広間での皇帝の立太子宣言を見届けた紗鶴は、

遠巻きに朱映に近づこうとする貴族の顔だけ素早く見渡すと、桂花の自室に戻った。


部屋に待機していた若い女官に声高に告げた。


「見てまいりましたわ……朱映空様。

皇帝が朱映空様の立太子を宣言されましたわ。

あれでは、蒼識空様の影が霞んでしまいますわね……困ったこと」


奥の帳の向こうから、くぐもった声が返る。


「……生きていたのか、朱映……」


弱々しくも、その声には確かに悔しさがにじんでいた。

皇帝の立太子宣言は、桂花にとって予想外の急襲――しかも防ぎようのない一手だった。

その瞬間、この日の“前哨戦”は皇帝ただ一人の勝利で終わったのだ。


紗鶴は、心中に冷えた水を落とすような静けさで、女主人の“切り捨て”の時期を計る。

だが、態度にはいささかの揺らぎも見せず、優しく声をかけた。


「ご安心くださいませ、桂花様。

この紗鶴が、つねにおそばにおります」


「……蒼識空の守りを、固めよ」


その命に、紗鶴は微笑みながら頷く。


「はい。

 早急に、“影武者”の件を進めてまいりますわ」



(敵の情報を探るでもなく、攻撃に転じるでもなくまず“守り”とは。

……やはり、弱くなられた)


烈鋭空がいた頃とは、何もかもが違う。

情勢は、変わったのだ。



女主人の衣装を恭しく整えながら、紗鶴は静かに考えていた。

――この先、自分が与すべきは、どの陣営か。


◆◆◆


大広間ではまだ貴族のざわめきが広がっていた。

儀天家は、皇帝の宣言を大広間到着直後に聞いていた。

長は龍を見て、感嘆の息を漏らす。

女官長に使者を出し、皇太子 朱映との取り次ぎを依頼している。

その背後で順番を待つ尚玄は、隠しきれない笑みを口元に浮かべていた。


(突然の立太子宣言とは恐れ入る。

親父は荒れ狂うだろうな……。

何か一つでも親父に有利な情報を持ち帰らねば、私の進退に関わるかもしれん。


だが面白い。

親父のような盛者が崩れる瞬間は……甘美だろう。)


龍と朱映、そして清雀を順に視界に入れて、

攻略すべき点を尚玄は探っていた。





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