5-3 詐りの花
5-3 詐りの花
本来なら、朝の祈りが厳かに響いているはずの時刻だった。
だが、目的の部屋が近づいても、あの神聖な旋律は一向に聞こえてこない。
紗鶴は小さく鼻で笑った。
(ふふ……騒ぎの中でも“信仰”のふりすらできないとは。
やはり、新興の神官などその程度のものね)
「――陣を展開させろ! 簡易陣の予備はないのか!」
「すべて麓の村へ送っております!
それに、陣を描くにしても王宮内のどこに――!」
「大広間は!?」
「……すでに、龍の侵入を許しております!」
昴烈家の居室からは、怒号と混乱の声が飛び交っていた。
紗鶴は廊下の柱の陰からその様子を冷ややかに聞きながら、壁際に縮こまっていた女官に声をかける。
「桂花様の名代として参りました。
昴烈家当主との面会を、至急願いますわ」
やがて、中から短く返答が返る。
「……今は緊急事態だ。要件は手短に頼む」
紗鶴は優雅に一礼し、淡々と告げた。
「龍を従えた“朱映空皇子様”が、お戻りになりました。
女官長・練梓珠が正式に確認し、まもなく皇帝陛下との謁見も予定されているようです」
「――馬鹿な……!
龍は縛られていないはず……誰にも従わぬはずだ!」
「ええ、そう伺っています。
ですが、皇帝の御前へそのまま進み出るご様子。
建国王に倣う姿、とのことでしたわ」
「……信じられん……ッ」
「今のうちに、“対処”をお考えになった方がよろしいかと。
桂花様からのお伝えです」
部屋の中が一瞬、静まり返る。
次に来るのは、焦りか、それとも怒りか。
紗鶴は一礼し、その場を静かに辞した。
(――詰めの一手を打てるのは、“今”だけですわね)
彼女の足音だけが、廊下に冷たく響いていた。
◆◆◆
尚玄は、すれ違う女官や騎士たちが慌てふためく姿を、面白げに見つめていた。
ほどなく、目当ての人物を見つけ、大げさに頭を下げる。
「……柘榴の倅か。何用だ」
儀天の長老は、最上の礼服に身を包んでいた。
「建国王より遠き日々が過ぎ、
いま正しき主がこの都に現れたと聞き及び……
儀天様の傍らにて、そのお姿を拝したく」
「末席にて、ついてまいれ」
尚玄は懐かしげに目を細め、列の後ろにつく。
「……儀天様、また蔵書を拝見しに伺ってもよろしいでしょうか」
老賢者は短く笑い、
「好きなときに来い」
とだけ答えた。
(あの龍付きになった皇子が知る柘榴家は、親父だけだ。
桂花の香りが漂う家名で行っても警戒されて終わり。
この老賢者の影から見せてもらおう)
◆◆◆
朱映のまわりには、次第に貴族たちが集まり始めていた。
歓迎と探りを兼ねた挨拶の波が、彼を中心に押し寄せてくる。
その中で、人波が左右に割れ、一陣がまっすぐ進み出る。
先頭に立つ女官の姿を見て、
私の養母、翡翠空の名代と蘇枋家の登場を悟り、清空に声をかけた。
「――清雀、こちらへ」
清空、いやいまは清雀だ。
“空”の名を帝都で名乗るのは危険すぎたため、事前に偽名を用意していた。
だが、その名を呼ぶたびに、どこか胸の奥がざわつく。
清空がまるで、見知らぬ女になったようだった。
女官が頭を下げる。
「翡翠空様の名代としてまいりました。
朱映空様、よくぞお戻りに――。
翡翠空様より、喜びのお言葉をお預かりしております」
見知った顔の女官は、朱映の姿に驚愕と喜びを隠せず、涙ぐみながら微笑んだ。
「翡翠空様には、心配をかけ済まなかったと伝えよ。
時期を見て、こちらより挨拶に伺う」
女官は深く頷き、背後の男に道を譲る。
現れたのは、蘇枋家の当主。
朝早くからこれほど俊敏に動くとは、老いてなお軽やかだなと内心で苦笑する。
「蘇枋。久しぶりだ。
義母上様に、お変わりはないか」
「はい。お変わりはありません……。
申し訳ありませんが、朱映空様――
その手の甲を、拝見する許しを頂けますか」
私は黙って、手の甲を差し出した。
そこには、アズールとの絆の紋章が、確かに刻まれている。
「……おおっ」
蘇枋はその場に跪き、頭を深く垂れた。
「伝承の通り。まさに、建国王のごとし……
この蘇枋、朱映空様のご帰還心から喜び、お仕えいたします」
私は傍らに控える清雀に視線を移し、なるべく簡潔に聞こえるように、紹介した。
清雀への私の信頼を、帝都の人間に情報として与えることは、ただ清雀の安全を害するだけだった。
「清雀だ」
呼ばれたのは、朱の衣をまとう少女。
その姿は凛として、静かな威圧すら漂わせていた。
だが髪に巻かれた素朴な組紐が、この場にそぐわない印象を彼女に与えていた。
「……この方は?」
蘇枋が問う。
「アズールと共にあった。魔法が使える。
しばらくは、私の側に置くと決めた」
まるで物を扱うかのような言い方だった。
だが、それが施政者としての姿勢でもある。
「“清雀”と申します」
清空――清雀は、透き通る声で名乗り、一礼する。
蘇枋は彼女の姿に、言葉なくただ頷いた。
(拐かされてきたか……、
田舎娘を側に置くことも良いが、正妃は別で準備する必要があるな)
蘇枋は少しの憐れさを含みながら、清雀に賛辞の言葉を捧げた。
一見すれば、主と従者。
だが、清雀の出自も忠誠も、まだ不透明。
――どの“駒”を、誰が動かすのか。
盤上の駒は、出揃い始めていた。
高らかに響く鈴の音が、大広間を満たした。
皇帝の到着を告げる音だ。
私は椅子より静かに立ち上がり、アズール、清雀とともに前を向く。
――欲望と悪意と期待。
そのすべてが交錯する、この場の中心に、今、自分がいる。
皇帝の出方ひとつで、情勢は一瞬で傾くこともある。
それを朱映は痛いほど知っていた。




