快楽に溺れ 源義経
「義経、帰ってきてくれたんだね。ああ、ありがとう。私のところに、帰ってきてくれたんだね、義経」
屋敷のなかに入ると、秀衡さまがおれを迎えてくれた。
さすがに歳を取ったけれど、あの日とまったく変わらない、優しい秀衡さまの姿である。
「どこか、怪我はしていないかい? 痛いところはない? 疲れてはいない? 大変だったろう、休むといい」
ほんとうに心配してくれているんだってわかったから、うれしくて、安心してしまって、秀衡さまの腕のなかでおれは泣き崩れた。
抱えこんでいたものをすべて吐きだすようで、秀衡さまが背中を撫でてくれると、とても気持ちが楽になった。
「はい。どこも、大丈夫です。おれはだいじょうぶなんだけど、べんけーが……」
「弁慶って、あの大きな男だよね。彼がどうかしたのかい?」
おれの記憶にある彼の姿よりも、さらに彼は優しくおれを抱きしめてくれていた。
そして優しい優しい声で、おれの話を聞きながら、秀衡さまの室へと連れていってくれた。
久しぶりに入るその場所は、彼のにおいでいっぱいで、彼のにおいの座布団に座り、ふたりきりの会話がとても幸せだった。
べんけーが苦しんでくれている。
おれよりもずっと強いべんけーだから、まさか――負けてしまったり……死んでしまったりなんてことはないと思う。
おれがいると全力を出せないから、先におれを走らせた。ただ、それだけのこと。
もうすぐきっと、きっと、べんけーはここにきてくれる。
後を追ってきてくれているに、決まっている。
「話したくないのなら、話さなくてもいいよ。そうだ義経、私の話を聞いてはくれないか? お前がいなくて、とても寂しかったんだ」
おれがうつむいてしまっているから、見るに見かねて、秀衡さまは気を遣ってくれているのだろう。
おれを励まそうとしてくれているのだろうか。
やっぱり秀衡さまは、相変わらずだよ。出会ったときから、なにも変わっていない。
「遠くから応援することしかできない、そんな自分がときに嫌になった。だけど私がここにいないと、義経が帰る場所が、なくなってしまうと思って、この地からずっと義経を応援していた」
途中から、秀衡さまはしゃくりあげていた。
さみしかった。そのことばを証明するように、秀衡さまはさみしげな泣き声をあげていた。
「おれはとってもうれしかったです。平家を追いつめて、やっと戦争が終わって、おれ……すぐに思ったんです。秀衡さまのところに帰りたいって。その前にも、何度も逃げだしそうになって、何度も秀衡さまの優しさを求めてしまいました」
ぽつりぽつりと、離れていた時間を埋め合うように、ふたりでいろいろなできごとを語らった。
そして、落ちつくまで、心置きなく、疲れ果てるほどにふたりで泣いた。
どうしても泣いてしまっているのだけれど、悲しいわけではないのである。
悲しいことはたくさんあったのに、悲しさではなく、もっとべつの理由で泣いていたんだ。きっとそう、お互いに。
秀衡さまといられるのなら、ほかは失ってもいいとすら、思えてきているのであった。
兄さまに一目惚れなんかしなければ、おれと秀衡さまとの平安は守られていたかもしれないのに。
安心して暮らすこともできなくなってしまったから、拗ねたこころでうそぶく。
それによって、兄さまとの日々をなかったことにしてしまうのは、べんけーとの、みんなとの時間をなかったことにしてしまうのは、あまりにも悲しいのに。
ぜんぶを幻にしてしまうには、あまりに幸せで優しくて、大きくつらい日々であったことをおれは理解しているのに。
「ありがとう。義経、お前も大人になったね。生意気なことを言うようになったものだ」
おれをだめにしてしまうくらいに、秀衡さまは優しかったのだ。秀衡さまのことを、愛おしいと感じてしまっていたのだ。
あんなにも、兄さまのことが大好きなんだと思っていたのに。
「私とも、大人の付き合いをしてみる? もう歳も歳だし、元気はないかもしれないけどね」
大好きな秀衡さまの、こんなにも妖艶な笑み。
親のような想いも抱いていた秀衡さまだし、秀衡さまのほうもおれのことを子のように思っていた節はあると思う。
おとなのつきあいだなんて、そんなことをいわれても……。
だけどっ! そんな表情をされたら、おれだって。
「う、うん。秀衡さまと、だなんて、思ったこともなかったけど、うれしいです」
恥ずかしくて堪らなかった。
秀衡さまに抱きしめられると、幸せで満ち足りていくようだった。ほんとうに、ほんとうにしあわせだった。
やっぱりおれは、秀衡さまのことが大切なんだって。
これから手に入るはずの秀衡さまとの平和は、訪れるはずのないものなんだって。
もうくるしくて、痛いくらいに思い知らされて。
それでもその想いよりもたくさん、幸せが溢れていたんだ。
「安心していいんだよ。何も怖がる必要なんてないんだ。これからは私が、お前のことを守ってやるから。義経、私だけを見ておくれ」




