快楽に溺れ 弐
抱きしめられたら、もう、最高の幸せで。
だけどおれは、ほんとうは秀衡さまがどんな状況であったのかを、知らなかったんだ。
いっしょに果てたそのときは、感じたこともないような快楽だった。
秀衡さまは苦しかったのに、おれは気がつかずに……。
おれが目を覚ましたら秀衡さまはもういなくて、そのことにさえ気がつけなかったおれが、ひどく憎かった。
「父上がっ?」
服装をただし、すぐに家のものに報告すると、駆け足で現れる男があった。
父上と呼んでいることを考えると、秀衡さまのこどもなのだろうか。
はじめて会う。秀衡さまの、ほんとうのこども。
なぜだか自分のなかに湧いた嫉妬のこころをふりはらって、彼に向きなおる。
「ああ、義経殿、私は藤原秀衡が子、藤原泰衡と申します」
おれにあいさつを済ませると、彼はおれに抱かれてねむる秀衡さまに抱きついた。
「私は義経殿が羨ましい。父はいつも、義経殿の話をして、私のことを義経殿と間違えることもありました。病に冒されてからも、まだ義経が帰ってきていないから、と笑っていらっしゃいました」
彼はおれと目線を合わせようともせず、語りはじめる。
そのことばからは秀衡さまの想いが伝わってくるけれど、もうしわけないとも思える。
嫉妬しているのはおれだけじゃなかったんだ。
そう思うとどれだけ秀衡さまが愛されているかがわかり、うれしくなってしまう。
「父が笑うのは、義経殿の話をするときだけでした。今だって、幸せそうな顔で眠っています。こんな穏やかな父の表情、私は見たことがありません」
言われてみれば、秀衡さまは幸せそうにしている。
まるでこのときを待っていたかのようにすら思えるほどだ。
「死ぬ前に義経殿と会えて、重なり合えたこと、本当に嬉しかったのでしょう。父も、義経殿が帰る前に尽きてしまえば、死んでも死にきれなかったでしょうから」
泣きそうな声でいうと、苦しそうに哀しそうにつらそうに続けた。
「大好きな父の怨霊に呪われてしまえば、私としても耐えらませんから、感謝していますよ」
秀衡さまの怨霊だなんて、想像もできなかった。
いつでも秀衡さまは優しかったから、おれにとっての秀衡さまと彼にとっての秀衡さまが、違うものであるように感じられた。
おれがいなかったときも、秀衡さまは待っていてくれたんだ。おれを想っていてくれたんだ。
思えば思うほどに、おれは秀衡さまにも、秀衡さまの家族にも、迷惑をかけてしまっていたんだと思い知る。
だけど秀衡さまは幸せそうにしてくれていた。
「父は一年も前に死ぬ、はずだったんです。ここまで生きられたのも、義経殿のおかげです。だから、くれぐれもご自身を責めることなど、なさらないように。父が望まないことを、私はしてほしくないのです」
そんなにも秀衡さまが好きなのに、秀衡さまに似て、彼も優しいんだろう。
秀衡さまの子なんだから、優しくなくては困るよね。
「藤原泰衡さま、ありがとうございます。そこまで秀衡さまが想ってくれているんだったら、もうはなればなれにはなれないでしょう? いっしょにいられなかった時間を埋めたいのです」
おれがここにいたら、奥州藤原氏自体が、兄さまによって消されてしまう。
この優しい泰衡さままでもが、殺されることになるかもしれないのだ。
「お止め下さいっ! 何をなさるおつもりなのですか!」
「おれは、秀衡さまのことが好きなのです。好きだから、いっしょにいたいのです。それだけですよ」
止めてくれているのだけれど、やめるつもりなどなかった。
だって兄さまに殺されて死ぬよりも、おれから秀衡さまのところへ行きたいじゃないか。
あこがれていた兄さまに殺されるのも、それはそれで魅力的かもしれない。それでもまた兄さまのために、秀衡さまをひとりにしてしまうのは、あまりにもひどいと思ったから。
おれは大好きな秀衡さまのところに行きたい。
「それなのに、止めるんですか? おれのまえに立ちはだかり、秀衡さまへの道を拒もうというのですか?」
泰衡さまと兄さまが仲よくしてくれることを願い、おれは自らの腹を貫いた。
べんけーも秀衡さまも、おれのことを待っていてくれている。
会ったことのない、父さまにだって会えるかな。
みんなが、おれのことを待っていてくれているんだ。
「義経殿が自害なさったところで、奥州藤原氏は救われません。武士ながら国を建てようとする頼朝にとって、奥州にて栄える我らは邪魔であることでしょう。滅ぼされるでしょうが、義経殿のせいではない。だから最後の足掻きをするために、義経殿の力を分けてもらいたいのです」
「ごめんなさい。ちからには、なれません……」
そもそもおれは、兄さまのために戦ってきたんだ。
兄さまのためだから、強くなれたんだ。兄さまが喜んでくれると思って、兄さまがほめてくれると思って、努力をかさねてきたんだ。
それなのに今さら、その刃を兄さまに向けるだなんてできるわけがないじゃないか。
兄さまのことをずっと、信じてきたんだから。あこがれて、愛してきたんだから。
おれが死ぬことで兄さまが喜んでくれるなら、それでも構わない。
秀衡さまとの約束を果たしただけ。
べんけーには、もうしわけないことをしてしまったな。
彼は死ぬ必要がなかっただろうに。でもべんけーも、おれと同じ気持ちだったのかな。
兄さまのためなら、おれは迷わず死ねる。おれだけが救われてもいいのだとしても、おれは兄さまを守るために死にたいと思う。
その後すぐに、兄さまが自ら命を絶つことになるとしてもだ。
意識が途切れると、大切なモノたちが俺を包み込んでくれるようだった。
幸せで幸せで、これが死後の世界だというならば、死など端から恐れるようなものではなかったのだと思う。
それに、兄様の隣りにいるのが俺ではないのだとしても、兄様が幸せになってくれるのは嬉しい。
国の一番となる人が、自分の兄だということは、かなり誇らしいことであろう。
嫌われているのだとしても、兄弟であることには違いがないのだから。
「若いからまだ早いだろうに、私を追ってきてくれたのかい?」
「秀衡様の隣りにいるためですから、当然でしょう。これからはずっと、一緒にいて下さいね」
「私はずっと一緒にいるつもりだったのに、離れていったのはお前の方だろう。いつも私がお前を追い掛けてばかりだったから、お前が私を追ってくれたこと、嬉しく思うよ。叱らなければいけないところなのに」
「ふふっ。秀衡様は俺のことを甘やかしすぎですよ」
俺と秀衡様は抱き合うと、二人で笑った。楽しくて、幸せで、永遠を信じていられる時間。
大好きな秀衡様の隣りにいる俺は、甘やかされたり甘えたりばかりで、手に入れた力さえも手放してしまいそうだった。
だって秀衡様との幸せに、強さなんて必要ないのだから。
最初から強さなんて必要なかったんだ。
変な力さえ持っていなければ、秀衡様のところを発つこともなかっただろうし、兄様に警戒されることもなかった。
辛いのは自分が弱いからだと思っていた、その心が間違っていたんだ。
弱い俺のままで、これからは秀衡様との愛に埋もれていよう。
兄様の幸せは、遠くで見守っているだけで良い。
俺によって兄様の幸せが遠ざかってしまうのならば、尚更、俺は兄様に近付けなくて良い。
秀衡様との愛の中で、俺は兄様との愛を否定し、優しさの中に微睡んでいった。
それが正しい道だったのだと言い聞かせ、俺は秀衡様と笑い合った。
――快楽に溺れ。




