殺したいほどに 武蔵坊弁慶
義経は無事に辿り着けただろうか。
某も早く向いたくは思うのだが、此処を生きて抜ける事等、恐らく不可能であろうな。
其れでも、もう……良いわ。
全てが終わったのだから、全てを終わらせる為の力になれたのだから、もう此処で死んでも悔いは無い。
強いて言うならば、平和な世も生きたかった。
頼朝様が思い描いた世界、義経の隣で笑って居られる、優しい世界。
鬼と呼ばれし某とは、正反対にも等しい温もりに満ちた世界。
きっと優しい義経の事だ。某と共に過ごす未来をも、夢見てくれているのだろうな。
最後の最期で期待に応えられぬとは、申し訳無い事をした。
「某は、必ず義経を守るっ!!」
崩れ落ち行く体を奮い起こす様に、自分に言い聞かせる様に、某は声に出して言う。出し切った力を振り絞る様に、某は両手に武器を携え、周囲の敵兵達を蹴散らした。
然し、量が多過ぎる。
薙ぎ倒しては現れるので、某とて疲労が溜まって行く。
諦める訳では無いが、勝てると思えん。
其れなら、最期まで義経の為に力を使いたい。
どうせ某の力等、人を傷付ける力しか持たぬのだ。其れを義経を守る力に出来るのなら、某は此処で死ぬべき存在とすら、言える様な気がして来た。
其の様な事を義経は望まぬ、知って居るのに。
義経は某を心配して、何れ此処に戻ってしまうだろう。
秀衡殿の元へと駆け行き、其後直ぐに来てしまうかも知れぬ。秀衡殿の率いる軍勢を、連れて来てくれるだろうか。
……彼なら、そうするのであろうな。
某は彼の優しさを知っている。だから、そうするのであろうと、思わざるを得なかった。
某は彼の優しさを知っている。だから、彼が戻って来る前に、某が方を付けなければならぬのだと、強く思った。
此の命が尽きようとも、彼には一秒を長く行きて貰いたい。
「ぐはっ!」
体が鉛を付けて居る様に、重くて重くて、思い通りに動かなくて。
上手く避け切れず、敵の槍が某の脇を掠めた。生温かさが広がり、更に体の動きは鈍くなって行くのを、自分でも感じた。
某の槍で突かれた彼等は、此の様な思いをして居ったのか。
ぼんやりと遠くなる意識の中で、其の様な事を某は思っていた。
「んぐふっ!」
四方八方から、鋭い刃が某の体に突き刺さる。
最早、痛み等感じ無かった。
……義経……某はもう……御主を守る事も……出来ぬ様だ……。秀衡殿と、幸せに生きられよ。時には心を鬼として、兄頼朝様にも刃を向け、秀衡殿との幸せを掴み取るが良い。御主には、其の資格が有ろう。
義経、某の所為で。秀衡殿、某の所為で。御主等は、幸せに暮らす事も出来た筈なのに。
軽い思いで、小さな欲望で、愛しい人の運命を赤黒く染めてしまった。
後悔や自責の念が、最期に某へと降り注ぐ様であった。
今更そう思ったとて、義経の幸せは返らぬ。某の罪は消えぬ。頼朝の傷も、秀衡殿の淋しさも、二度と癒される事は無いのだろう。
此の様な事になるのなら、最初から正義等、夢見るのでは無かった。
戦っている時の誇りさえ、喜びさえ、苦しみさえ、此処迄来れば、何も感じ無かった。
只管に後悔と未練が某を襲う。
もう死んでも悔いは無いと、朽ち果てても良いと、先程迄思って居ったのに。
某の覚悟とは、其の程度であったのか。
義経に出会って、恋して、愛して、たった一度だが、躰を重ねて……。
少しは変われたと思ったのに。少しは成長したと、少しは自分を好きになれたと、思ったのに。
結局、某は平和を生きられぬ乱世の鬼だったのだ。
どうせなら最期は、義経の愛おしい笑顔を見ながら迎えたかった。そうすれば、負の感情も幾らか減った筈で在ろうに。
「……義経、御主は、生きよ」
震える声で言ったとて、決して義経に届かぬ。震える手を伸ばしたとて、決して義経に届かぬ。
其れを思い知らせる様に、晴れ渡る空は黒く染まる。
矢の、雨か……。其れもそうだ。某程の怪物とならば、念には念を入れて、是位せねばならぬよのう。
流石は頼朝様に使える者。雑兵さえも油断はせず、慎重に物事を進めるのだな。
何が何でも、某を殺さんとするか。
義経は、義経はどうなのだろう。彼は未だ無事だろうか。
義経、義経。義経……義経! 義経?
彼の名の其の愛しい音の響きも、忘れてしまった様だ。もう、本当に終わりなのか。
然し某は、其れでも彼と同じ世に留まらんとする様で、彼と過ごした記憶を呼び起こす。薄れてしまって、剥げてしまって、鮮明に見る事等、到底不可能。
其れでも探り当て、義経との記憶に縋る。
出会いに迄遡った所で、某は気が付いた。
義経に出会うより前の、儚く悲しげで愛らしく美しく、何処か恐ろしい少年との記憶に。
彼は、某を見ても、恐れ無かった。
其れ所か、某の方が恐れて居るのだと、理解の出来ぬ事を言いよった。
酷く驚愕した。掛けられた事の無い言葉だった。
某が鍛錬に没頭する理由を、教えられた様な気がした。そうだ、某は恐かったのだ。
そして其れは、今の某も変わっておらぬ事だろう。
恐れていた。恐かった。
大切にして壊してしまう事を、恐れていたのだろう。某の力が、人を傷付け恐れられる物と知りつつも、求めてしまう程に某は恐れていた。恐怖を恐れていた。
恐れられる事を、恐れていた。
其れを初対面にて彼は見抜き、某に告げて去ったのだ。
救ってくれる人を待っている。彼は確か、そうも言っていた。
其の言葉も当時は馬鹿馬鹿しく思ったが、其後義経が現れてくれた。某を救ってくれた、彼の言った通り。
何故其時、某は義経に重なる彼の陰に気が付かなかったのだろう。
某を恐れぬ瞳を向けられたのは、一度目では無かった筈であろう?
嗚呼、二度目で有る事、あんなにも大切で大きな出会い、某はどうして……。
気付くべき所は沢山在った。なのに某は、結局恐れを抱き続けて、欲望に生き続け、気付く事が出来ず。
終わりが訪れてから、後悔として想いを募らせているとは。
頼朝様、だったのだろう。
あの時の美しい少年は、囚われし頃の頼朝様だったのだろう。
もっと前に気付いていたのなら、異なる結末を迎えられたかも知れぬのに。
頼朝様を傷付け続ける事も無かったし、義経の事を戦に巻き込む事すら、無かったのかも知れぬ。
血が尽きても、涙が尽きても、命が尽きても――。
某の心から後悔が尽きる事等、無い様であった。
間違え続けた選択肢の末が、此れだったと言う訳か。
自業自得。笑えるわ。一つ笑えぬのは、某の罪が為に何の罪も無い、優しい大切な人達を傷付けてしまった事。
某が傷付けた罪無き人は、数え切れる程度では無かろう。
生まれ落ちた其の瞬間から、大切な人を傷付けてしまった、某だから。
幼き頃からそうだったでは無いか。
愛されたくて、傷付けた。傷付けてから、後悔した。後悔しても取り返せ無くて、傷付いたから、傷付けた。
ずっと、其の繰り返しだったのだ。
悪循環を抜ける努力さえせず、某は悪戯に人を傷付けていた。
其の事に今更気が付き、又後悔をするのだ。
後悔から生まれる物が何で在るかも、既に頭では理解して居るのに。
何処迄も愚かで浅はかな自分が、悪くて仕方が無くなった。
もういっそ、全てを壊してしまいたい、そう思った。
其処に舞い降りる、美しい少年の影。
「どうしても弁慶は、私との未来を見られなかったの? 義経のところで死ぬことしか、できなかったの?」
其の影に重なるように現れる、某を求めてくれた、頼朝様の淫らな影。
「私との出会いを思い出してくれた、今でも……?」
其れは当に、天使の誘惑であった。




