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#8 過去に向き合う勇気、少しずつ近づく距離

翌朝。


柊木颯太は、いつもより少し早く教室に着いていた。


窓際の席に鞄を置き、椅子に腰を下ろす。朝の教室にはまだ人が少なく、廊下から聞こえてくる足音や、遠くの教室で交わされる話し声が、いつもよりはっきりと耳に届いた。


昨日のことが、頭から離れなかった。


半田寛治と五木大輝。そして、彼らと一緒にいたかつての同級生たち。


中学時代、何度も自分を傷つけた相手に、初めて自分の言葉をぶつけた。


怖かった。


今でも、あのときのことを思い出すだけで胸が苦しくなる。半田がこちらに向かってきた瞬間、身体は思うように動かなくなった。結局、最後まで一人で立ち向かえたわけではない。


遠野真紀が助けてくれなければ、どうなっていたか分からない。


それでも――。


(……何も言えなかった頃とは、少し違うのかな)


自分の気持ちを言葉にできたこと。


怖いと認めながらも、もう関わらないでほしいと伝えられたこと。


そして、友人たちに過去を打ち明け、助けを求められるようになったこと。


ほんの小さな変化かもしれない。


けれど、颯太にとっては、長い間閉ざしていた扉をようやく少しだけ開けたような出来事だった。


「……よし」


颯太は小さくつぶやき、立ち上がった。


今日こそ、もう一つだけ進んでみよう。


ずっと胸の奥にしまい込んできたことを、今度は学校の先生にも話してみる。


そう決めていた。


一時間目が終わった休み時間。


颯太は職員室の前に立っていた。


目の前の扉を見つめながら、何度も深呼吸をする。


担任の高田流星先生に話す。


ただそれだけのことなのに、指先が少し冷たくなっていた。


先生に話したところで、何が変わるのだろう。


昔のことだからと流されるかもしれない。今さら騒ぎにするなと言われるかもしれない。あるいは、話したことが原因で、また面倒なことになるかもしれない。


そんな考えが頭をよぎる。


それでも、昨日、真紀に言われた言葉を思い出した。


――一人で何とかしようとしなくていいんだよ。


颯太は一度だけ目を閉じ、それから職員室の扉を開けた。


「あの、高田先生はいらっしゃいますか」


近くにいた先生に声をかけると、奥の机で書類を整理していた高田が顔を上げた。


「柊木か。どうした?」


「少し……相談したいことがあって」


颯太の声は、思ったよりも小さかった。


高田はその様子を見て、すぐに手元の書類を置いた。


「分かった。今なら少し時間がある。相談室に行こうか」


「はい」


二人は職員室を出て、隣の小さな相談室へ向かった。


机を挟んで向かい合うと、高田は急かすことなく、颯太が話し始めるのを待ってくれた。


「それで、何があった?」


颯太は膝の上で両手を握った。


「……中学のときのことなんです」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


けれど、もう引き返したくはなかった。


「半田寛治と、五木大輝っていう人たちがいて……。中学のとき、そいつらから、ずっと嫌がらせを受けていました」


高田の表情がわずかに変わった。


「嫌がらせ、というのは?」


「からかわれたり、物を隠されたり……。周りに人がいるところで、笑いものにされたりしました。ほかにも、いろいろありました」


言葉にしていくうちに、当時の光景が頭の中によみがえる。


笑い声。


自分を見ている視線。


何を言っても無駄だと思い込んでいた日々。


「……ずっと、誰にも言えませんでした。言ったら余計にひどくなる気がして。自分が我慢すればいいと思っていました」


一度、言葉が途切れた。


高田は口を挟まず、静かに聞いていた。


「でも、最近になって、そいつらと会うことがあって……。また、いろいろ言われました」


「そうか」


「昨日も会いました。もう関わらないでほしいって伝えたんですけど、向こうが怒って……。殴られそうになりました」


高田の目が鋭くなる。


「殴られそうになった?」


「はい。クラスの遠野さんが通りかかって、止めてくれたので、何もありませんでした。でも……正直、怖かったです」


最後の言葉を口にするのは、少し勇気が必要だった。


怖かったと認めることは、弱さを認めることのように感じていたからだ。


けれど、昨日、真紀にも、そして優華にも、怖いと思うことは恥ずかしいことではないと言われた。


だから、今日はごまかさなかった。


「……今も、また会うんじゃないかって考えると、怖いです」


高田はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「柊木。話してくれてありがとう」


颯太は顔を上げた。


「先生……」


「今まで一人で抱えていたんだな。話すのにも、かなり勇気が必要だったと思う」


その言葉に、颯太の胸が熱くなった。


怒られるわけでも、責められるわけでもなかった。


ただ、自分が話したことを、きちんと受け止めてもらえた。


「昔のことだからといって、君が受けた傷がなくなるわけじゃない。まして、今になって再び接触があって、身の危険を感じたのなら、なおさらだ」


高田は机の上で手を組んだ。


「半田たちが現在どこの高校に通っているのか、分かるか?」


「……はい。確か、隣の県にある高校だったと思います」


「名前は?」


颯太は知っている限りの情報を伝えた。


高田はメモを取りながら、いくつか質問をした。いつ、どこで会ったのか。何を言われたのか。誰か目撃していた人はいるのか。


颯太は覚えている範囲で、できるだけ正確に答えた。


話し終えるころには、休み時間はほとんど終わっていた。


「詳しく確認する必要はあるが、学校としてできることを考える。相手の学校にも、必要な範囲で事実確認を求めるつもりだ」


「……そこまでしてもらえるんですか?」


「当然だ。君が安心して学校生活を送れるようにするのが、私たちの役目だからな」


高田は、はっきりとそう言った。


「それから、今後また何かあったら、すぐに知らせてくれ。一人で対処しようとしなくていい。君の話を聞く人間は、ここにもいる」


颯太は唇を結んだ。


泣きたいわけではなかった。


ただ、今まで誰かに言ってほしかった言葉を、ようやく聞けた気がした。


「……ありがとうございます」


頭を下げたとき、肩に入っていた力が少しだけ抜けた。


相談室を出ると、廊下の向こうからチャイムが聞こえた。


次の授業が始まる。


颯太は教室へ向かいながら、胸の中で小さくつぶやいた。


(……言えたんだ)


誰かに助けを求めることができた。


それだけで、今日は昨日より少しだけ前に進めた気がした。


昼休み。


「颯太、今日なんか疲れてない?」


弁当を広げていた上原健が、向かい側から顔をのぞき込んできた。


「そうか?」


「そうかって、お前。朝からちょっとぼーっとしてるぞ」


「いつもだろ」


「いや、いつもよりだよ」


隣に座っていた清水祥太郎が笑い、楠木奏介も頷いた。


「何かあったなら言えよ。昨日、いろいろあったばっかりだし」


その言葉に、颯太は箸を止めた。


昨日、三人には中学時代のいじめについて話した。だからこそ、彼らは今まで以上に気にかけてくれているのだろう。


少し前の自分なら、心配されることさえ面倒に感じていたかもしれない。


けれど、今は違った。


「……実は、今日、高田先生に話してきた」


「先生に?」


健が目を丸くする。


「ああ。中学のときのことと、最近、半田たちに会ったこと」


「そっか」


祥太郎は真剣な表情で頷いた。


「ちゃんと話せたんだな」


「うん。先生が、相手の学校にも連絡してくれるって」


「それなら、少しは安心できるかもしれないな」


奏介がそう言うと、健も力強く頷いた。


「そうそう。向こうが何かしてきても、今度は大人も知ってるんだからさ」


「……そうだな」


颯太は小さく笑った。


「三人にも、話を聞いてもらったしな。先生にも話せた。……ありがとな」


「お、おい。急にどうしたんだよ」


健が照れくさそうに頭をかく。


「別に、礼を言われるようなことしてねえって」


「そうだよ。友達なんだから、当たり前だろ」


祥太郎の言葉に、颯太は一瞬だけ目を伏せた。


友達。


以前の自分なら、その言葉を素直に受け入れられなかったかもしれない。


誰かと親しくなっても、いつか離れていくのではないか。自分の弱いところを見せれば、嫌われるのではないか。


そんな不安が、いつも心のどこかにあった。


それでも、彼らは変わらず隣にいてくれる。


「……そっか」


颯太は、今度こそ素直に笑った。


「じゃあ、これからもよろしく」


「おう!」


健が勢いよく答え、祥太郎と奏介も笑った。


いつもの昼休み。


けれど颯太にとっては、少しだけ特別な時間だった。


それから数日後。


高田は、学校としての対応を進めていた。


颯太から聞き取った内容を整理し、必要な記録を確認したうえで、半田たちが通う高校へ連絡を入れたのだ。


もちろん、相手の学校に伝えられたのは、確認が必要な事実と、現在の接触によって颯太が不安を感じていることだった。


その後、両校の関係者による連絡や事実確認が進められた。


颯太自身も、必要な範囲で改めて話をすることになった。


電話での確認だけではなく、過去の出来事についても聞かれた。すべてを話すのは簡単ではなかったが、今回は一人きりではない。


高田がそばにいてくれた。


それだけで、何とか最後まで説明することができた。


そして、半田たちの学校でも、彼らへの聞き取りが行われた。


最初、半田たちは自分たちの行為を軽く考えていたらしい。


「昔のことだろ」


「ちょっとからかっただけだ」


そんな言葉で済ませようとした。


けれど、颯太の話だけでなく、当時の状況や最近の接触についても確認が進むにつれ、問題を簡単に片づけることはできなくなっていった。


さらに、半田たちが颯太に再び接触し、威圧するような行動を取っていたことも、学校側にとって見過ごせない問題となった。


数日後。


高田に呼ばれた颯太は、放課後の相談室で、その後の対応について説明を受けた。


「相手の学校から、調査の結果と今後の対応について連絡があった」


「……どうなったんですか?」


颯太は緊張しながら尋ねた。


「半田たちについては、厳しい指導と、今後の接触を防ぐための対応が進められている。それに加えて、保護者も交えた話し合いが行われたそうだ」


高田は、一度言葉を区切った。


「その結果、半田たちの保護者は、彼らを他県へ転居させ、転校させる方針を決めたと聞いている」


「……他県に?」


「ああ。相手の学校からの指示だけで、転居を強制できるわけではない。ただ、今回の問題を重く受け止めた保護者が、今後の生活環境を変える判断をしたそうだ」


颯太は、すぐには言葉を返せなかった。


半田たちが、遠くへ行く。


これから先、あの顔を見なくて済むかもしれない。


通学路で突然出会うことも、街中で声をかけられることも、今までよりずっと少なくなるだろう。


その事実に、安堵が広がった。


けれど同時に、胸の奥には複雑な気持ちもあった。


自分を傷つけた相手が遠くへ行くからといって、過去の出来事がなかったことになるわけではない。


怖かった記憶も、言えなかった言葉も、すぐに消えてくれるわけではない。


それでも。


「……そうですか」


颯太は、ゆっくりと息を吐いた。


「分かりました」


高田は、そんな彼の様子を見ながら続けた。


「これで全部が解決したとは思わない。もし不安が残るなら、いつでも相談してくれ。必要なら、学校として引き続き対応する」


「はい」


「それから、今回のことで君が悪かったと思う必要はない。自分を守るために声を上げたんだ。それは間違ったことではないからな」


颯太は、まっすぐに高田を見た。


「……ありがとうございます、先生」


相談室を出たあと、颯太は窓の外を見つめた。


夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えている。


半田たちは、もうここにはいない。


少なくとも、今までのように突然現れて、自分を脅かすことはなくなるはずだ。


(これで……少しは変わるのかな)


まだ、過去を思い出せば怖い。


けれど、あの頃のように何も言えず、一人で耐えるしかないわけではない。


自分には、話を聞いてくれる人がいる。


一緒にいてくれる友達がいる。


そして――。


「……優華さんにも、話さないとな」


颯太は鞄を持ち直し、いつもの待ち合わせ場所へ向かった。


待ち合わせ場所の小さな公園では、七瀬優華がベンチに座っていた。


夕方の風に髪を揺らしながら、彼女はぼんやりと空を見上げている。


未来から来た彼女にとって、この景色は懐かしいものだった。


五年前、この街で過ごした日々。


そして、颯太を見かけながらも、声をかけられなかったあの日。


今でも思い出すたびに、胸が痛む。


けれど、最近の颯太は少しずつ変わってきていた。


友人たちに過去を話し、真紀に助けられ、自分の言葉で半田たちに向き合った。


それは、優華が何よりも望んでいた変化だった。


(颯太くんは、もう一人じゃない)


そう思うと嬉しい。


同時に、胸の奥に小さな寂しさも生まれていた。


自分がここにいられる時間は、いつまでなのだろう。


自分の後悔が消えたとき、未来へ戻ることになるのかもしれない。


そのとき、颯太はどうするのだろう。


そして、自分は――。


「優華さん」


不意に名前を呼ばれ、優華は顔を上げた。


颯太が、公園の入り口に立っていた。


「颯太くん。お疲れさま」


「……待たせましたか?」


「ううん。今来たところだよ」


優華は微笑んだ。


颯太は彼女の隣に座り、少し迷ったあと、今日の出来事を話し始めた。


「先生に、全部話してきました」


「……そっか」


「半田たちが通っている高校にも、連絡してくれたみたいです。それで……」


颯太は一度、言葉を止めた。


「半田たちは、他県に引っ越して、転校することになったそうです」


優華は目を見開いた。


「そうなんだ……」


「もちろん、学校が無理やり引っ越しさせるわけじゃなくて、保護者の人たちが決めたらしいですけど」


「うん」


「これからは、あいつらと会うことも、たぶん少なくなると思います」


そう言った颯太の表情には、安堵が浮かんでいた。


しかし、それだけではなかった。


長い間、自分を縛りつけていた過去が、ようやく少しずつ遠ざかっていく。


その実感を、どう表現すればいいのか分からないのだろう。


優華は、そっと微笑んだ。


「よかったね、颯太くん」


「……はい」


「もちろん、これで昔のことが全部なくなるわけじゃないと思う。でも、少なくとも、これからの颯太くんが安心して過ごせる時間は増えるかもしれない」


「……そうですね」


颯太は公園の木々を見つめた。


「先生に話すのは、すごく緊張しました。何を言われるんだろうって、ずっと考えてました」


「うん」


「でも、先生はちゃんと聞いてくれました。昔のことだからって、簡単に片づけたりしなかった」


そこで、颯太は少しだけ笑った。


「……話してよかったです」


優華の胸が、温かくなった。


彼は、自分の力で一歩を踏み出している。


自分が彼にしてあげられたことは、ほんのわずかだ。


本当なら、もっと早く。


五年前のあの日に、自分が声をかけていれば。


けれど、今の颯太が前を向こうとしていることを、何よりも大切にしたかった。


「颯太くん」


「はい?」


「よく頑張ったね」


その言葉に、颯太は少し照れたように目をそらした。


「……そんな、大げさですよ」


「大げさじゃないよ。怖かったことを誰かに話すのも、助けてほしいって伝えるのも、簡単なことじゃないから」


「……」


「だから、自分で自分のことを、ちゃんと褒めてあげてね」


颯太はしばらく黙っていた。


それから、小さく頷いた。


「……はい」


夕日が二人の間を柔らかく照らしていた。


しばらく他愛のない話をしたあと、颯太はふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、もう一つ、話したいことがあるんです」


「何?」


「遠野さんのことなんですけど」


その名前を聞いた瞬間、優華の心がわずかに揺れた。


けれど、彼女は表情を変えずに頷いた。


「真紀ちゃん?」


「……知ってるんですか?」


「あ、ごめん。颯太くんから前に聞いた名前を覚えていただけ」


「ああ、そうでしたね」


颯太は納得したように頷いた。


「遠野さん、昨日も助けてくれたじゃないですか。それで、今日も学校で会ったんですけど……」


彼は少し考えながら続けた。


「ちゃんとお礼を言いたくて。あと、今まであまり話したことがなかったから、これからはもう少し話せたらいいなって思って」


優華は、静かに颯太を見つめた。


「うん。いいと思うよ」


「……そうですか?」


「うん。颯太くんが、そうしたいと思ったなら」


優華は笑った。


「無理に仲良くなろうとしなくてもいいし、急いで距離を縮めなくてもいい。少しずつ話していけば、自然と分かってくることもあると思うから」


「……ですね」


颯太は頷いた。


そして、少しだけ表情を明るくした。


「実は、遠野さんと話すの、ちょっと楽しみなんです」


その言葉に、優華の胸が小さく痛んだ。


それでも、彼女は微笑んでいた。


颯太が誰かとつながり、少しずつ人を信じられるようになっていく。


それは、彼がこれから幸せになるために必要なことだ。


自分がそのすべてを支え続けられるとは限らない。


だからこそ、彼の世界が広がっていくことを喜びたかった。


「……そっか」


優華は、できるだけ自然な声で言った。


「じゃあ、今度会ったら、ちゃんとお礼を言わないとね」


「はい」


颯太は笑った。


その笑顔を見つめながら、優華は心の中でつぶやいた。


(颯太くんが、少しずつ笑えるようになってよかった)


そして、もう一つ。


(……いつか私がいなくなっても、颯太くんが一人にならないように)


それは、未来から来た彼女が、まだ誰にも言えない願いだった。


翌日の放課後。


颯太が教室で帰り支度をしていると、後ろから声をかけられた。


「柊木くん」


振り返ると、遠野真紀が立っていた。


「遠野さん?」


「今、帰るところ?」


「うん。そうだけど」


「そっか。じゃあ……少しだけ、一緒に帰らない?」


真紀は、どこか緊張した様子で尋ねた。


颯太は一瞬、驚いた。


今まで、二人が放課後に一緒に帰ることなど、ほとんどなかった。


クラス委員として話しかけられることはあったが、それも連絡事項や提出物についての短いやり取りばかりだった。


けれど、昨日は自分を助けてくれた。


それに、あのときの真紀の言葉は、今でも心に残っている。


「……うん。いいよ」


颯太が答えると、真紀の顔がぱっと明るくなった。


「本当? ありがとう」


「いや、こっちこそ」


二人は並んで教室を出た。


最初は、少しぎこちなかった。


廊下を歩きながら、真紀は何度か話題を探すように口を開きかけては、ためらっていた。


颯太も、何を話せばいいのか分からず、ただ隣を歩いていた。


けれど、昇降口を出たところで、真紀がふと思い出したように言った。


「そういえば、柊木くんって、数学の小テストどうだった?」


「……最悪だった」


「えっ、そうなの?」


「最後の問題、時間が足りなかった。途中まで合ってたと思うんだけど」


「私も最後は焦ったよ。見直しする時間、全然なかったもん」


「遠野さんでも焦るんだな」


「ちょっと、それどういう意味?」


真紀が頬を膨らませる。


「いつも完璧そうだから」


「完璧じゃないよ。私だって失敗するし、苦手なこともあるんだから」


「そうなのか」


「そうなの!」


真紀が少し強い口調で言ったあと、二人は顔を見合わせた。


そして、どちらからともなく笑った。


たったそれだけの会話だった。


けれど、それまでほとんど接点のなかった二人にとっては、大きな一歩だった。


「……なんか、こうやって普通に話すの、初めてかもね」


真紀がぽつりと言った。


「確かに」


颯太も頷く。


「今までは、クラス委員の仕事の話ばっかりだったし」


「うん。だから……ちょっと嬉しい」


真紀は言ってから、慌てたように付け加えた。


「あっ、変な意味じゃなくて! その、柊木くんが前より話してくれるようになったから……」


「分かってるよ」


颯太は穏やかに笑った。


「俺も、遠野さんと話せてよかったと思ってる」


「……本当?」


「うん。昨日も助けてもらったし。改めて、ありがとう」


颯太は足を止め、真紀の方を向いた。


「遠野さんが来てくれなかったら、どうなってたか分からない。あのとき、助けてくれて、本当にありがとう」


真紀は目を見開いた。


「そ、そんな……私は、当たり前のことをしただけだよ」


「それでも、俺にとっては大きかったから」


颯太は真剣な表情で続けた。


「昨日だけじゃない。遠野さんが言ってくれたこと、結構、心に残ってるんだ」


「……私が?」


「一人で何とかしなくていいって。あの言葉、嬉しかった」


真紀は、何も言えなくなった。


本当は、もっと颯太の力になりたい。


できることなら、いつだって彼のそばにいたい。


そんな気持ちを、ずっと胸の奥にしまってきた。


けれど、今はまだ、その気持ちを伝えるつもりはなかった。


ただ、こうして普通に話せるようになったことが嬉しい。


自分の言葉が、少しでも彼の支えになったのなら、それだけで十分だった。


「……そっか」


真紀は照れくさそうに笑った。


「じゃあ、また何かあったら言ってね。私にできることなら、力になるから」


「ありがとう。でも、遠野さんも無理はしないでな」


「えっ?」


「遠野さんだって、自分のことがあるだろ。俺のことばっかり気にしてたら、大変だと思うし」


真紀は、一瞬ぽかんとした。


そして、ふっと笑った。


「……柊木くんって、そういうところあるよね」


「どういうところ?」


「自分が大変なときでも、人のことを気にするところ」


「……そうかな」


「うん。そうだよ」


真紀は空を見上げた。


夕暮れの空には、薄い雲が流れていた。


「でも、私は自分で助けたいと思ってるから。だから、気にしなくていいよ」


颯太は少し驚いたように彼女を見た。


「……そっか。じゃあ、困ったときは相談させてもらうよ」


「うん。いつでも!」


真紀の声が、少し弾んだ。


二人は再び歩き始めた。


途中で、好きな授業の話をしたり、クラスの何気ない出来事を話したりした。


特別なことは何もなかった。


けれど、別れ際、真紀は自然にこう言っていた。


「じゃあ、また明日ね、颯太くん」


呼び慣れない名前だった。


口にしてから、真紀は少しだけ頬を赤くした。


颯太も一瞬驚いたものの、特に気にした様子もなく笑った。


「うん。また明日、遠野さん」


それだけで、真紀の胸は温かくなった。


颯太が歩いていく背中を見送りながら、真紀は小さく息を吐く。


「……よかった」


恋が進展したわけではない。


彼の気持ちが、自分に向いていると分かったわけでもない。


それでも、昨日までより少しだけ近づけた。


クラスメイトから、友達へ。


焦らなくてもいい。


少しずつ、少しずつ。


真紀は、明日も彼に話しかけてみようと思った。


その夜。


颯太は自室のベッドに寝転がり、天井を見つめていた。


今日一日を振り返る。


高田先生に話を聞いてもらったこと。


半田たちが、他県へ移ることになったと知ったこと。


そして、真紀と一緒に帰ったこと。


少し前までは、誰かに過去を知られるのが怖かった。


自分が弱い人間だと思われるのが嫌だった。


けれど、実際に話してみると、すべてが悪い方向へ進んだわけではなかった。


むしろ、自分を理解しようとしてくれる人がいることを知った。


健も、祥太郎も、奏介も。


高田先生も。


そして、真紀も。


(……俺、少しは変われてるのかな)


ふと、優華の顔が浮かんだ。


未来から来たと名乗る、不思議な女性。


自分のことを知っていて、いつも気にかけてくれる人。


彼女と出会ってから、少しずつ変わり始めた。


怖いものは、まだ怖い。


過去の記憶だって、簡単には消えない。


それでも、自分の気持ちを誰かに伝えられるようになった。


それはきっと、意味のある変化なのだろう。


「……明日も、頑張ってみるか」


颯太は小さくつぶやき、目を閉じた。


一方、そのころ。


優華もまた、自分の部屋で窓の外を眺めていた。


未来から来た彼女にとって、この世界で過ごす時間は、いつまでも続くものではない。


颯太が過去と向き合い、少しずつ前へ進んでいくほど、自分がここに来た理由も、いつか終わりを迎えるのかもしれない。


その日が来ることを、優華は望んでいたはずだった。


颯太が救われること。


あの日の自分ができなかったことを、今度こそやり遂げること。


それが叶えば、きっと後悔は少しずつ消えていく。


けれど――。


「……もう少しだけ、一緒にいたいな」


こぼれた言葉は、静かな部屋に溶けていった。


未来へ帰ることが怖いわけではない。


ただ、颯太と過ごす時間が、思っていた以上に大切になっていた。


彼が笑うところを見ると嬉しい。


自分の話を聞いてくれると、心が温かくなる。


そして、彼が誰かとつながっていく姿を見ると、安心する一方で、胸の奥が少しだけ痛む。


この気持ちは、後悔を埋め合わせたいという思いだけなのだろうか。


それとも――。


優華は、自分の胸にそっと手を当てた。


まだ、答えは出せなかった。


ただ一つ、確かなことがある。


颯太が少しずつ前を向き始めた今、この出会いを、もう単なる過去への償いだとは思えなくなっていた。


窓の外には、静かな夜空が広がっていた。


二人の時間は、確かに動き始めている。


それぞれの心に、まだ言葉にならない思いを残しながら。


――そして、二人の距離もまた、少しずつ変わり始めていた。

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