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#7 守りたいもの、変わり始めた心

放課後。


最後の授業が終わり、教室には帰り支度をする生徒たちの声が響いていた。


「颯太、今日一緒に帰る?」


鞄を肩にかけながら、上原健が尋ねた。


「悪い。今日はちょっと寄るところがある」


「また用事?」


「まあな」


「最近、付き合い悪いなあ。さては、何か隠してるだろ?」


健がにやにやしながら顔を近づけてくる。


「隠してない」


「ほんとかよ?」


「本当だって」


「じゃあ、何の用事?」


「……それを聞く必要あるか?」


「ある!」


「ないだろ」


いつものやり取りに、清水祥太郎と楠木奏介も笑い出した。


「まあまあ、健。颯太にもいろいろあるんだろ」


祥太郎がそう言うと、奏介もうなずいた。


「昨日、話してくれたばかりだしな。あんまり詮索するなよ」


「分かってるって。ちょっと気になっただけだよ」


健は両手を上げて、降参のポーズを取った。


「じゃあ、また明日な、颯太」


「ああ。また明日」


三人に手を振り、颯太は教室を出た。


廊下を歩きながら、ふと窓の外に目を向ける。


空は、少しずつ茜色に染まり始めていた。


最近、放課後になると、自然と足が向かう場所がある。


公園へ続く道。


そこには、いつも自分を待っていてくれる少女がいる。


七瀬優華。


五年後の未来から来たという、不思議な少女。


彼女と出会ってから、まだそれほど時間は経っていない。


それなのに、颯太の日常は少しずつ変わり始めていた。


中学時代のことを、初めて誰かに打ち明けた。


そして昨日は、健たちにも話すことができた。


過去を話しても、友人たちは離れていかなかった。


むしろ、今まで以上に自分のことを気にかけてくれるようになった。


そのことが、颯太には嬉しかった。


もちろん、過去が消えたわけではない。


今でも、大きな声が聞こえると身構えてしまうことがある。


誰かの笑い声に、自分が笑われているのではないかと不安になることもある。


それでも、以前よりは少しだけ、前を向けるようになった気がしていた。


「……今日も、話せるかな」


小さくつぶやき、颯太は校門を出た。


その足取りは、以前よりもほんの少し軽かった。


公園へ向かうには、商店街を抜けて住宅街の道を歩く必要がある。


夕方の商店街には、買い物をする人々や、部活動を終えた学生たちの姿があった。


自転車が通り過ぎ、店先からは夕食の準備をするような音が聞こえてくる。


ありふれた日常の風景。


颯太は、その中を一人で歩いていた。


ふと、前方から聞き覚えのある笑い声が聞こえた。


「だからよ、あのときの先生の顔、マジで笑えたよな!」


「ははっ、確かに!」


その声を聞いた瞬間、颯太の足が止まった。


胸の奥が、冷たくなる。


まさか。


そう思いながら、ゆっくりと顔を上げる。


道の向こう側。


数人の男子生徒が、道をふさぐように歩いていた。


その中心にいる人物を見た瞬間、颯太の身体がこわばった。


半田寛治。


そして、その隣には五木大輝。


中学時代、自分をいじめていた人間たちだった。


「……っ」


息が、一瞬だけ詰まった。


頭の中に、嫌な記憶がよみがえる。


教室で響いた笑い声。


隠された持ち物。


聞こえるように言われた悪口。


何をしても、何もしていなくても、笑われ続けた日々。


そして、誰にも助けを求められなかった自分。


足が、動かなくなりそうになる。


心臓が、嫌な音を立てていた。


――また、あの頃に戻るのか。


そんな考えが、頭をよぎる。


けれど、そのときだった。


昨日、優華に言われた言葉が、心の中によみがえった。


『怖くてもいいんだよ。すぐに忘れなくたっていい』


続いて、昼休みに健たちへ過去を打ち明けたときのことが浮かんだ。


『颯太が謝る必要、ないだろ』


『これからもよろしくな』


自分の話を聞いてくれた友人たち。


自分の気持ちを否定しなかった優華。


彼らの顔を思い出すと、張りつめていた心が、ほんの少しだけ緩んだ。


怖い。


今だって、怖い。


できることなら、このまま引き返してしまいたい。


それでも――。


颯太は、ゆっくりと息を吸った。


大丈夫だと、自分に言い聞かせる。


もう、中学生の頃とは違う。


自分は今、あの教室にいるわけではない。


何もかもを我慢しなければならない理由なんて、ないのだ。


颯太は、震えそうになる手を握りしめた。


そして、再び歩き始めた。


「……ん?」


最初に颯太に気づいたのは、大輝だった。


「おい、寛治。あれ……」


寛治が顔を上げる。


その視線が、颯太を捉えた。


「……あれ、柊木じゃね?」


颯太は立ち止まらなかった。


ただ、まっすぐ前を見て歩いた。


すると、寛治たちが道の真ん中へと移動し、颯太の進路をふさいだ。


「おいおい、無視かよ」


寛治が笑いながら声をかける。


「久しぶりじゃん。元気してた?」


颯太は、ゆっくりと顔を上げた。


目の前にいる寛治は、中学時代と変わらない笑みを浮かべていた。


人を小馬鹿にするような、こちらの反応を楽しむような笑顔。


以前なら、その顔を見ただけで、何も言えなくなっていたかもしれない。


けれど、今日は違った。


颯太は一度、息を吸ってから口を開いた。


「……久しぶりだな」


寛治の笑みが、わずかに止まった。


「は?」


「久しぶりだなって言ったんだよ」


颯太は、自分でも驚くほど落ち着いた声で繰り返した。


心臓は速く打っている。


膝にも、少し力が入りにくい。


それでも、言葉は出てきた。


寛治は、意外そうに颯太を見たあと、すぐにいつもの笑みを取り戻した。


「へえ。何だよ、今日はずいぶん普通にしゃべるじゃん」


「……何か用か?」


「別に? ただ、懐かしい顔を見つけたから声かけただけだろ」


「そうか。じゃあ、俺は帰る」


颯太は横を通り抜けようとした。


しかし、寛治が一歩前に出て、再び行く手をふさいだ。


「待てよ。せっかく会ったんだから、もうちょっと話そうぜ」


「話すことなんてない」


「冷たくね? 昔はもっと面白い反応してくれたじゃん」


その言葉に、颯太の胸がざわついた。


昔。


その一言が、あの頃の自分を引きずり出そうとする。


けれど、颯太は視線をそらさなかった。


「……俺は、あの頃の話をしたくない」


「ははっ、何だよ、それ。まだ根に持ってんの?」


大輝が横から口を挟んだ。


「お前、昔からそうだったもんな。ちょっとからかっただけで、すぐ暗い顔してさ」


「……からかっただけ?」


颯太は思わず聞き返した。


自分の声が、少しだけ震えている。


「持ち物を隠したり、悪口を言ったりしてたのも、全部ただのからかいだったって言うのか?」


二人の表情が変わった。


周囲にいた仲間たちも、面白がるように颯太を見た。


「何だよ、急に」


寛治が笑った。


「そんな昔のこと、いちいち覚えてんのかよ」


その笑い声を聞いた瞬間、颯太の心臓が強く跳ねた。


やっぱり、変わっていない。


自分がどれほど苦しんだのか、彼らは考えようともしない。


それどころか、今も昔と同じように、自分の気持ちを笑い飛ばそうとしている。


颯太の手が、強く握りしめられた。


怖い。


逃げたい。


そう思う気持ちは、確かにあった。


けれど、それと同時に、別の感情も湧き上がっていた。


悔しさ。


あの頃、自分は何も言えなかった。


何をされても我慢し、誰にも助けを求められなかった。


けれど、今は違う。


すべてを忘れたわけではない。


恐怖がなくなったわけでもない。


それでも、もう自分の気持ちを押し殺したくなかった。


「……俺にとっては、昔のことじゃない」


颯太は、はっきりと言った。


「今でも、思い出すことがある。お前らに会うと、あの頃のことを思い出すんだ」


寛治は、しばらく黙っていた。


やがて、鼻で笑った。


「だから何だよ?」


その言葉に、颯太の胸が痛んだ。


「俺たちのせいだって言いたいわけ?」


「……そうだ」


颯太は答えた。


自分でも、驚いていた。


以前なら、絶対に言えなかった言葉だった。


「俺は、お前らに傷つけられた。学校に行くのも嫌だったし、誰かと話すのも怖くなった。高校に入ってからも、ずっと引きずってた」


一つずつ、言葉にする。


過去を、なかったことにはしない。


自分が何を感じていたのか。


何がつらかったのか。


それを、もうごまかしたくなかった。


「……だから、もう俺に関わらないでくれ」


最後の言葉を口にしたとき、颯太の喉が小さく震えた。


けれど、言えた。


自分の意思を、自分の言葉で伝えられた。


それだけで、ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。


しかし、寛治は納得した様子を見せなかった。


「……お前、何様のつもりだよ」


声から、笑いが消えていた。


「昔からそうやって黙ってるだけだったくせに。急に偉そうなこと言いやがって」


「……」


「誰かに何か吹き込まれたのか? それとも、友達でもできて強くなったつもりか?」


颯太の心が揺れた。


友達。


健たちの顔が浮かぶ。


そして、優華の笑顔も。


確かに、彼らと出会ってから、自分は少しずつ変わってきた。


けれど、それは彼らに守られているからだけではない。


自分自身が、変わりたいと思い始めたからだ。


颯太は、寛治を見つめた。


「……強くなったかどうかは、分からない」


声は、まだ少し震えていた。


「でも、もう黙っていたくないんだ」


寛治の眉がぴくりと動いた。


「……あ?」


「怖いのは、今だって変わらない。お前らに会うと、今でも身体がこわばる」


颯太は、自分の手を見た。


握りしめた指先が、わずかに震えている。


「それでも、俺が何をされたのか、どう感じたのか。それをお前らに笑われたくない」


一瞬、周囲の音が遠くなったように感じた。


颯太は、深く息を吸った。


「……俺は、もう昔みたいに何も言わずに我慢するつもりはない」


その言葉を聞いた寛治の表情が、険しくなった。


「てめえ……!」


寛治が一歩、颯太に近づいた。


颯太の身体が反射的にこわばる。


頭の中に、かつての恐怖が一気によみがえった。


それでも、颯太はその場から逃げなかった。


寛治は、苛立った様子で颯太の胸元に手を伸ばしかけた。


「調子に乗ってんじゃねえぞ!」


颯太は息をのんだ。


殴られる。


そう思った瞬間、視界が狭くなった。


身体が、動かない。


頭では、逃げなければと思っている。


やめろと言わなければと思っている。


それなのに、足がすくんでしまう。


昨日と同じだ。


また、何もできなくなるのか。


――違う。


心のどこかで、颯太は必死に思った。


もう、昔の自分に戻りたくない。


怖くてもいい。


震えていてもいい。


それでも――。


「やめてください!」


そのとき、鋭い声が響いた。


寛治の動きが止まる。


颯太も、はっと顔を上げた。


道の向こう側から、一人の女子生徒が駆け寄ってくる。


長い髪を揺らし、鞄を肩にかけたまま、彼女は颯太と寛治の間に割って入った。


「何をしているんですか!」


遠野真紀。


颯太のクラスの委員長だった。


真紀は、学校では誰に対しても公平で、責任感の強い生徒として知られていた。


提出物の期限を守らない生徒にはきちんと注意する。


困っているクラスメイトがいれば、自然に声をかける。


教師からの信頼も厚く、クラス委員長という役目を、いつも真面目にこなしていた。


けれど、そんな彼女にも、誰にも言っていない秘密があった。


それは――柊木颯太のことが好きだということ。


初めて彼を意識したのは、入学して間もない頃だった。


ある日の放課後、教室に忘れ物を取りに戻った真紀は、廊下で一人の生徒が落としたプリントを拾っている姿を見かけた。


それが颯太だった。


彼は周りに誰もいないことを確認すると、床に散らばったプリントを一枚ずつ拾い、持ち主の机の上にそっと置いていた。


誰かに褒められるわけでもない。


感謝されるわけでもない。


ただ、当たり前のことをするように。


その姿が、なぜか心に残った。


それから、真紀は少しずつ颯太を目で追うようになった。


授業中、教師の質問に簡潔に答える姿。


健たちのくだらない会話に、呆れながらも付き合っている姿。


普段はあまり自分から話しかけないのに、誰かが困っていると、さりげなく手を貸す姿。


颯太は、自分のことをあまり話さない。


いつも落ち着いていて、どこか人との間に距離を置いている。


だからこそ、真紀は時々、彼が何を考えているのか分からなくなる。


もっと話してみたい。


自分のことを知ってほしい。


けれど、委員長という立場もあって、特別扱いをするわけにもいかなかった。


そんな日々の中で、真紀は颯太の小さな変化に気づいていた。


最近、彼は以前よりも少しだけ、表情を柔らかくすることが増えた。


休み時間に窓の外を眺めているときも、どこか考え込むような顔をしている。


放課後になると、急いで帰っていくこともあった。


何かあったのだろうか。


誰か、特別な人ができたのだろうか。


そう考えるたび、胸の奥が少しだけざわついた。


それでも、真紀には彼に尋ねる勇気がなかった。


だから今日も、偶然を装うように、少し遠回りをして帰っていた。


そして、見つけたのだ。


道の向こうで、複数の男子に囲まれている颯太の姿を。


そのうちの一人が、彼に手を伸ばしているところを。


真紀は、考えるより先に走り出していた。


「何をしているんですか!」


颯太の前に立った真紀は、寛治たちをまっすぐ見据えた。


「嫌がっている相手に、無理に絡むのはやめてください!」


寛治は、突然現れた女子生徒に面食らったようだった。


「……何だよ、お前」


「私は、彼の同級生です」


真紀は一歩も引かなかった。


「今、殴ろうとしましたよね?」


「は? 別に、そんなつもりじゃねえし」


「じゃあ、どういうつもりだったんですか?」


真紀の声は、少しも揺れていなかった。


寛治が言葉に詰まる。


大輝が横から口を挟んだ。


「おいおい、勘違いすんなよ。俺たちは昔の知り合いと話してただけだって」


「話していただけなら、どうして彼はこんなに緊張しているんですか?」


真紀は、背後にいる颯太をちらりと見た。


彼の手は、強く握りしめられていた。


顔色も、普段より悪い。


それでも、彼は逃げずにその場に立っていた。


真紀は、胸の奥が痛くなった。


颯太は、いつも落ち着いている。


どんなときでも冷静で、簡単には感情を表に出さない。


だからこそ、今の彼の様子が、ただ事ではないことはすぐに分かった。


「……柊木くん、大丈夫?」


振り返り、そっと尋ねる。


颯太は、すぐには答えられなかった。


目の前にいる寛治たちから、視線を外すことができない。


身体はまだ震えていた。


それでも、真紀の声は、はっきりと聞こえていた。


「……遠野?」


ようやく出た声は、かすれていた。


「うん。私だよ」


真紀は、できるだけ穏やかに微笑んだ。


「大丈夫。私もここにいるから」


その言葉に、颯太の目がわずかに揺れた。


昨日は、優華が助けてくれた。


そして今日は、真紀が駆けつけてくれた。


誰かが、自分のために声を上げてくれている。


その事実が、颯太の心に少しずつ染み込んでいった。


寛治は、舌打ちをした。


「……チッ。何なんだよ、マジで」


「もう行こうぜ、寛治」


大輝が小声で促す。


「こんなところで騒いでても、面倒なだけだろ」


寛治は、颯太と真紀をにらみつけた。


「……覚えてろよ」


その言葉に、真紀がすぐに反応した。


「それも、脅しですか?」


「……うるせえな!」


寛治は吐き捨てるように言い、仲間たちとともに歩き去っていった。


彼らの姿が角を曲がって見えなくなるまで、真紀はその場を動かなかった。


やがて、周囲が静かになったことを確認すると、ゆっくりと振り返った。


「……柊木くん」


颯太は、まだ少しうつむいていた。


「……悪い」


「え?」


「巻き込んで、ごめん」


その言葉を聞いた瞬間、真紀は眉を寄せた。


「どうして謝るの?」


「いや……」


「柊木くんは、何も悪いことをしていないでしょう?」


颯太は、返事ができなかった。


真紀は少しだけ声を和らげた。


「それに、私は自分から助けに入ったんだから。巻き込まれたなんて思ってないよ」


「……でも」


「でも、じゃないの」


真紀は、いつもの委員長らしい口調で言った。


けれど、その瞳には心配の色が浮かんでいた。


「それより、本当に大丈夫? どこか痛いところはない?」


「……大丈夫。殴られてないから」


「そう……よかった」


真紀は、ようやく安堵の息を吐いた。


その様子を見て、颯太は不思議に思った。


どうして、そこまで心配してくれるのだろう。


クラスメイトだから。


委員長だから。


きっと、それだけではないのかもしれない。


けれど、今の颯太には、彼女の気持ちを考える余裕はなかった。


「……遠野、ありがとう」


颯太がそう言うと、真紀は少しだけ頬を赤くした。


「い、いいの。そんなに改まらなくても」


「いや、本当に助かった」


「……そ、そう?」


「うん」


颯太は、ゆっくりとうなずいた。


「ありがとう」


二度目のお礼に、真紀は視線をそらした。


「……どういたしまして」


心臓が、いつもより速く打っている。


好きな人から、まっすぐに感謝された。


たったそれだけのことなのに、胸の奥が温かくなる。


けれど、真紀はすぐに気持ちを切り替えた。


今は、自分の気持ちを喜んでいる場合ではない。


颯太は、まだ落ち着いていない。


そのことが、何よりも気がかりだった。


「……柊木くん」


「ん?」


「もしよかったら、少し休んでいかない? まだ顔色がよくないから」


「……そんなにひどいか?」


「うん。少しだけね」


颯太は、自分の顔に手を当てた。


自分では、もう大丈夫だと思っていた。


けれど、身体はまだ緊張しているようだった。


「……分かった」


二人は、近くの小さな公園へ向かった。


公園のベンチに座ると、颯太はゆっくりと息を吐いた。


先ほどまで強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていく。


真紀は、少し距離を空けて隣に座った。


無理に話しかけることはしなかった。


ただ、彼が落ち着くのを待っていた。


しばらくして、颯太が口を開いた。


「……さっきのこと、誰にも言わないでくれるか?」


真紀は、彼の顔を見た。


「……うん。柊木くんが望まないなら、勝手に誰かに話したりしないよ」


「ありがとう」


「でも……」


真紀は、少しだけ迷ってから続けた。


「もし、また同じようなことがあったら、一人で何とかしようとしないでね」


颯太は、黙って聞いていた。


「今日みたいに、誰かに相談していいんだから。先生でも、友達でも……私でも」


最後の言葉を口にしたとき、真紀の頬が少し赤くなった。


「……私、委員長だから。クラスの人が困っていたら、力になりたいと思ってるの」


少しだけ、言い訳のようになってしまった。


本当は、それだけではない。


颯太だからこそ、放っておけなかった。


彼がつらそうな顔をしているのを見たとき、胸が締めつけられた。


何もできないまま、彼が傷ついていく姿を見たくなかった。


でも、その気持ちを伝えることはできなかった。


颯太は、しばらく黙っていた。


やがて、小さくうなずいた。


「……そうだな」


真紀は、少し驚いた。


以前の颯太なら、きっと「大丈夫」と言って話を終わらせていたはずだ。


けれど、今日は違った。


「実は……最近、友達にも少し話せるようになったんだ」


「友達に?」


「ああ。中学時代のことを」


真紀は目を見開いた。


「……そうだったんだ」


「今まで、誰にも話せなかったんだけどな。話してみたら、思ってたより……悪くなかった」


颯太は、少しだけ笑った。


「だから、これからは、何かあったら相談するようにしてみるよ」


その言葉を聞いて、真紀は心から嬉しくなった。


彼は、変わり始めている。


無理に明るく振る舞っているわけでも、急に別人になったわけでもない。


ただ、ほんの少しずつ、自分の気持ちを誰かに伝えようとしている。


「……うん。それがいいと思う」


真紀は笑顔でうなずいた。


「私も、できることがあったら力になるから」


「……ありがとう、遠野」


颯太は、まっすぐに彼女を見た。


「今日、来てくれて本当に助かった」


真紀は、また頬が熱くなるのを感じた。


「そ、そんなに何度もお礼を言わなくてもいいよ」


「そうか?」


「そう!」


思わず声が大きくなってしまい、真紀は慌てて口元を押さえた。


颯太は、少し驚いたあと、ふっと笑った。


「……遠野って、たまに慌てるよな」


「えっ?」


「委員長のときは、いつも落ち着いてるのに」


「そ、それは……!」


真紀は言葉に詰まった。


好きな人の前では、いつもどおりに振る舞えない。


そんなことを、口にできるはずもなかった。


「……とにかく! もう暗くなってきたし、そろそろ帰ろう?」


「……そうだな」


二人はベンチから立ち上がった。


公園の出口まで歩き、そこで立ち止まる。


「じゃあ、また明日ね、柊木くん」


「ああ。また明日、遠野」


颯太は軽く頭を下げ、帰り道へと歩き出した。


真紀は、その背中を見送った。


そして、彼の姿が遠ざかっていくと、そっと胸に手を当てた。


「……よかった」


今日、彼を助けることができた。


それが、何よりも嬉しかった。


けれど同時に、真紀は気づいていた。


颯太の心には、まだ自分の知らない何かがある。


最近、少しずつ変わり始めた彼の表情。


放課後になると、どこかへ向かっていく様子。


そして、今日の出来事を語るときに見せた、ほんの少しの迷い。


彼には、自分の知らない誰かがいるのだろうか。


そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


それでも、真紀は小さく首を振った。


今は、そんなことを気にするよりも。


彼が少しでも安心して過ごせるように、そばで支えてあげたい。


それが、今の自分にできることなのだから。


「……頑張ってね、柊木くん」


誰にも聞こえない声でつぶやき、真紀は帰路についた。


一方、颯太は公園を離れ、優華との待ち合わせ場所へ向かっていた。


予定より、かなり遅くなってしまった。


優華は、もう帰ってしまっただろうか。


そんなことを考えながら歩いていると、見慣れた姿が目に入った。


「……颯太くん!」


優華が、こちらに向かって手を振っていた。


颯太は、ほっと息を吐いた。


「……悪い、遅くなった」


「ううん。大丈夫だよ。何かあった?」


優華は、颯太の顔を見て、すぐに表情を変えた。


「……颯太くん?」


「……え?」


「何か、あったんでしょう?」


颯太は少しだけ目をそらした。


優華は、心配そうに彼を見つめた。


「顔色がよくないよ。大丈夫?」


その声を聞いた瞬間、颯太は今日の出来事を思い出した。


寛治たちに出会ったこと。


以前なら何も言えなかった相手に、自分の気持ちを伝えたこと。


そして、殴られそうになった瞬間に、真紀が助けに入ってくれたこと。


颯太は、ゆっくりと息を吸った。


「……また、あいつらに会ったんだ」


優華の表情が、ぴたりと止まった。


「……え?」


「半田と五木。今日の帰り道で」


優華の胸が、強く締めつけられた。


また、あの二人が。


颯太を苦しめた人間たちが、彼の前に現れた。


「……大丈夫だった?」


優華は、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。


颯太は、少し考えてから答えた。


「……怖かったよ」


優華は黙って彼を見つめた。


「やっぱり、あいつらを見ると、昔のことを思い出す。身体も固まるし、何も考えられなくなりそうになる」


颯太は、自分の手を見つめた。


「今日も、殴られそうになったときは、本当に怖かった」


「……っ」


優華は、思わず手を握りしめた。


けれど、颯太はそこで言葉を止めなかった。


「でも……今日は、前とは少し違った」


「……違った?」


「ああ」


颯太は、小さくうなずいた。


「俺、あいつらに言ったんだ。自分がどれだけ傷ついたのか。もう関わらないでほしいって」


優華は、驚いたように目を見開いた。


「颯太くんが……?」


「うん。途中で怖くなったし、最後は殴られそうになったけど……それでも、言えたんだ」


颯太は、少しだけ笑った。


「それに、遠野が通りかかって、助けてくれた」


「遠野さん……?」


「クラスの委員長。遠野真紀っていうんだ」


優華は、その名前を心の中で繰り返した。


颯太のクラスメイト。


彼を助けてくれた女の子。


その存在に、ほんの少しだけ胸がざわついた。


けれど、それ以上に嬉しかった。


自分以外にも、颯太のことを気にかけてくれる人がいる。


彼が苦しいとき、そばに立ってくれる人がいる。


それは、優華にとって大切なことだった。


「……そっか」


優華は、穏やかに微笑んだ。


「助けてもらえて、よかったね」


「ああ。本当に」


颯太は、ゆっくりとうなずいた。


「……でも、まだ怖いんだ」


その声は、少しだけ弱々しかった。


「今日、あいつらに言い返せたからって、急に平気になるわけじゃない。次に会ったら、また何も言えなくなるかもしれない」


優華は、静かに聞いていた。


「それでも……前みたいに、全部自分の中に閉じ込めるのは、もうやめたいと思った」


颯太は、顔を上げた。


「怖くても、誰かに相談してみる。自分が嫌だと思ったことは、嫌だって言えるようになりたい」


優華は、ゆっくりとうなずいた。


「……うん」


「すぐには無理かもしれないけどさ」


「うん。すぐじゃなくてもいいんだよ」


優華は、優しく笑った。


「少しずつでいい。今日できたことを、明日も全部できなきゃいけないわけじゃないから」


颯太は、その言葉を静かに受け止めた。


今日、寛治たちに言い返せた。


健たちに過去を話せた。


真紀に助けてもらった。


どれも、昨日までの自分なら、簡単にはできなかったことだ。


でも、これから先も、同じようにできるとは限らない。


また怖くなってしまう日もあるだろう。


誰かに助けを求めることができない日もあるかもしれない。


それでもいい。


何度立ち止まっても、また少しずつ歩き出せばいい。


颯太は、そう思えるようになっていた。


「……七瀬さん」


「なに?」


「俺、少しずつだけど、変われてるのかな」


その問いに、優華は一瞬、言葉を失った。


そして、ゆっくりと微笑んだ。


「うん。変わってるよ」


颯太は、じっと彼女を見つめた。


「でもね、颯太くん」


優華は、穏やかな声で続けた。


「変わるって、怖くなくなることだけじゃないと思うんだ」


「……どういうこと?」


「怖いままでも、自分の気持ちを伝えてみること。誰かに頼ってみること。自分が傷ついたって、ちゃんと認めること」


優華は、颯太の目を見た。


「今日の颯太くんは、それができたんでしょう?」


颯太は、少し考えてからうなずいた。


「……そうだな」


「だったら、ちゃんと変わってるよ」


優華の言葉に、颯太は小さく笑った。


「……ありがとう」


「ふふ。またお礼?」


「何回言っても足りないくらいだからな」


その言葉に、優華は思わず目を見開いた。


そして、少しだけ頬を赤くした。


「……そ、そんなこと言われると、照れるよ」


「……え?」


颯太は、きょとんとした。


優華は慌てて顔をそらした。


「な、何でもない!」


「……変なやつ」


颯太は苦笑した。


その表情を見て、優華も笑った。


夕暮れの空の下、二人の間に穏やかな時間が流れた。


けれど、優華の心には、まだ消えない不安があった。


今日、颯太は変わろうとしていた。


自分の過去と向き合い、少しずつ前へ進もうとしていた。


その姿は、何よりも嬉しい。


しかし同時に、優華は考えずにはいられなかった。


自分がこの時間にいられるのは、いつまでなのだろう。


颯太が前へ進み、自分の後悔が解けたとき。


自分は、元の時間へ戻ってしまうのかもしれない。


そうなれば、颯太が変わっていく姿を、これ以上見守ることはできない。


それでも。


彼が自分の足で歩き始めていることが、嬉しかった。


自分がいなくなったあとも、彼には友達がいる。


健も、祥太郎も、奏介もいる。


そして、今日、彼を助けた真紀もいる。


彼の未来は、少しずつ変わり始めているのかもしれない。


優華は、そっと颯太を見つめた。


「……颯太くん」


「ん?」


「これからも、何かあったら話してね」


「ああ」


颯太は、迷いなくうなずいた。


「七瀬さんにも、ちゃんと話すよ」


その返事に、優華は嬉しそうに微笑んだ。


「……約束だよ」


「分かった。約束する」


二人は、夕暮れの道を並んで歩き始めた。


颯太の中に残る恐怖は、まだ消えていない。


優華の中にある後悔も、まだ終わっていない。


そして、真紀の恋心も、まだ本人にさえ伝えられていない。


それぞれの心が、少しずつ動き始めていた。


過去に縛られていた少年は、誰かに助けを求めることを覚え始めた。


未来から来た少女は、かつてできなかったことを、今度こそやり遂げようとしている。


そして、少年に片思いをしている少女は、彼の苦しみを知ったことで、さらに彼を大切に思うようになっていた。


まだ誰も知らない。


この出会いが、これから先、どんな未来へつながっていくのか。


ただ一つだけ、確かなことがあった。


颯太はもう、過去に背を向けるだけではなかった。


怖くても、震えていても。


自分の気持ちを、自分の言葉で伝えようとしていた。


そして、その小さな勇気が、少しずつ彼の世界を変え始めていた。


――その変化を、優華は隣で見守り続けていた。

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