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#6 少しだけ、前を向けた気がした

翌朝。


柊木颯太は、制服のネクタイを締めながら、鏡に映る自分の顔を見つめていた。


いつもと変わらない顔。


寝癖を直して、制服を着て、鞄を持って家を出る。そんな当たり前のことを、今日も繰り返す。


けれど、昨日までの自分とは、ほんの少しだけ違う気がした。


「……話せたんだよな」


鏡に向かって、小さくつぶやく。


昨日、優華に打ち明けた中学時代のこと。


半田寛治と五木大輝にいじめられていたこと。


誰にも助けを求められず、毎日、学校へ行くことが怖くなっていたこと。


そして、卒業してからも、あの頃の恐怖を忘れられずにいたこと。


それらを、自分の口で話した。


今まで、ずっとできなかったことだった。


話したからといって、過去が消えるわけではない。


中学時代の自分が救われるわけでもない。


昨日まで抱えていた恐怖が、すべてなくなるわけでもない。


それでも。


「……少し、楽になったんだよな」


口にしてみると、改めてそう思えた。


優華は、颯太の話を否定しなかった。


無理に励まそうともしなかった。


ただ、最後まで聞いてくれた。


怖かったという気持ちを、情けないことだと決めつけなかった。


そのことが、颯太の心に小さな変化をもたらしていた。


今まで、過去のことは誰にも話すべきではないと思っていた。


知られたら、きっと何かが変わってしまう。


自分を見る目が変わるかもしれない。


同情されるかもしれない。


面倒な人間だと思われるかもしれない。


そう考えると、誰かに話すことが怖かった。


けれど、優華に話しても、彼女は変わらなかった。


話す前と同じように、自分の隣にいてくれた。


それどころか、話したあとには、少しだけ心が軽くなっていた。


「……健たちにも、話せるのかな」


ふと、そんな考えが浮かんだ。


上原健。


清水祥太郎。


楠木奏介。


高校に入ってから知り合い、今では一緒に過ごすことが多くなった友人たち。


彼らは、颯太のことを必要以上に詮索しない。


無理に距離を縮めようとせず、颯太がひとりでいたいときには、そっとしておいてくれる。


それがありがたかった。


けれど同時に、彼らにも隠していることがあるという事実が、ずっと心に引っかかっていた。


友達なのに。


一緒に笑っているのに。


自分のことを、ほとんど話せていない。


中学時代のことを知られたら、今までの関係が変わってしまうのではないか。


そんな不安は、まだ消えていなかった。


それでも今日は、昨日までとは違う考えが浮かんでいた。


――話してみても、いいのかもしれない。


颯太は鏡から目をそらし、鞄を手に取った。


答えはまだ出ていない。


けれど、ほんの少しだけ。


自分から一歩踏み出してみたいと思った。


教室に入ると、健がいつものように声をかけてきた。


「おはよ、颯太」


「……おはよう」


「お、今日は早いな」


「いつもとそんなに変わらないだろ」


「いや、俺より早いのは珍しいって」


健は笑いながら、自分の机に置いていたペットボトルを手に取った。


その向こうでは、祥太郎と奏介が昨日のテレビ番組の話をしている。


「だから、あの展開は絶対に予想できなかったって!」


「いや、伏線はあっただろ。お前が見逃してただけだ」


「どこにあったんだよ!」


「最初の方」


「最初の方ってどこだよ!」


「……朝から元気だな、お前ら」


颯太が思わずつぶやくと、二人が同時に振り向いた。


「おはよう、颯太!」


「おはよう。今の話、颯太はどう思う?」


「知らない。見てないし」


「ほら、奏介! 見てないってさ!」


「お前の説明が下手だからだろ」


「なんで俺が悪いんだよ!」


いつものやり取り。


いつもの朝。


颯太は小さく息を吐き、席に鞄を置いた。


以前なら、こうした会話に加わっても、どこか一歩引いていた。


友人たちが楽しそうに話しているのを見て、自分はこの輪の中にいてもいいのだろうかと、心のどこかで考えていた。


けれど、今は少しだけ違う。


この何気ない時間を、失いたくないと思った。


彼らが自分にとって大切な友人であることを、素直に認められる気がした。


「……なあ」


颯太は、三人に向かって声をかけた。


「ん?」


健が振り返る。


「どうした?」


「いや……その」


言葉が続かなかった。


話そうと決めたはずなのに、いざ口にしようとすると、急に怖くなる。


もし、変な空気になったら。


もし、今までと同じように接してもらえなくなったら。


もし、話したことを後悔したら。


そんな考えが、次々と頭に浮かんだ。


颯太は視線を落とした。


「……いや、何でもない」


「そうか?」


健は少し不思議そうな顔をしたが、深く追及しなかった。


「まあ、何かあったら言えよ」


「……ああ」


その言葉を聞いて、颯太の胸がちくりと痛んだ。


何かあったら言えよ。


健は、以前にも同じことを言ってくれた。


自分が話せるようになるまで、待ってくれていたのかもしれない。


それなのに、自分はずっと、何も話せずにいた。


――やっぱり、怖いな。


颯太は心の中でつぶやいた。


優華には話せた。


でも、健たちにも同じように話せるとは限らない。


彼女が受け止めてくれたからといって、誰もが同じように受け止めてくれるとは限らない。


それでも。


昨日、優華に話したときのことを思い出す。


『颯太くんが話したいと思ったことなら、私は聞きたい』


彼女の声が、心の中によみがえった。


そうだ。


自分は、誰かに聞いてほしいと思ったから、話したのだ。


過去をなかったことにするためではない。


同情してもらうためでもない。


ただ、自分の中に閉じ込めていたものを、少しだけ外に出してみたかった。


そして今、同じ気持ちが、健たちに対しても生まれ始めていた。


颯太は、もう一度顔を上げた。


「……なあ、健」


「ん?」


「今日の昼休み、三人とも時間あるか?」


健は一瞬きょとんとしたあと、祥太郎と奏介を見た。


「俺はあるけど」


「俺も大丈夫」


「特に予定ないぞ」


三人の返事を聞き、颯太は小さくうなずいた。


「……ちょっと、話したいことがあるんだ」


その言葉に、三人の表情が少しだけ真剣になった。


「分かった」


健は、それ以上何も聞かなかった。


「昼休みな」


「……ああ」


颯太は短く答えた。


心臓が、少しだけ速くなっていた。


怖い。


やっぱり、怖い。


けれど、自分から話すと決めた。


ならば、今度こそ逃げたくなかった。


午前中の授業は、なかなか集中できなかった。


ノートを取っていても、頭の中では昼休みのことばかり考えてしまう。


何から話せばいいのだろう。


中学時代にいじめられていたこと。


そのせいで、人と深く関わるのが怖くなったこと。


昨日、帰り道で寛治たちと出会い、身体が動かなくなったこと。


全部を話す必要はない。


優華にも、すべてを一度に話したわけではなかった。


自分が話せるところから、少しずつ話せばいい。


そう分かっていても、簡単にはいかなかった。


チャイムが鳴る。


教師が教室を出ていくと、周囲の生徒たちが一斉に立ち上がった。


昼休みが始まった。


健が、颯太の机の前にやってくる。


「じゃあ、どこで話す?」


「……人が少ないところがいい」


「了解。裏のベンチでいいか?」


「ああ」


健は、祥太郎と奏介に声をかけた。


四人は弁当を持って教室を出た。


渡り廊下を抜け、校舎の端にあるベンチへ向かう。


そこは、颯太が昨日、優華に中学時代のことを話した場所でもあった。


ベンチの周囲には、ほとんど人がいない。


風が吹くたび、近くの木の葉がさらさらと揺れていた。


四人はベンチの周りに腰を下ろした。


健が弁当の包みを開きながら、颯太を見る。


「それで、話したいことって?」


「ああ……」


颯太は膝の上に置いた弁当箱を見つめた。


ここまで来た。


もう、話し始めるしかない。


けれど、最初の一言が出てこなかった。


祥太郎も奏介も、急かさなかった。


普段なら、何かしら冗談を言って場を和ませる二人が、今は静かに待っていた。


そのことが、かえって颯太の心を揺らした。


「……俺さ」


ようやく声が出た。


三人の視線が集まる。


颯太は、ゆっくりと息を吸った。


「中学のとき、いじめられてたんだ」


風の音だけが、しばらく聞こえた。


健の手が止まる。


祥太郎は目を見開き、奏介も驚いたように颯太を見つめていた。


けれど、誰もすぐには口を挟まなかった。


颯太は、その沈黙を受け止めながら、話を続けた。


「半田寛治ってやつと、五木大輝ってやつが中心だった。最初はからかわれるくらいだったんだけど、だんだんひどくなっていって……。持ち物を隠されたり、悪口を言われたり、何をしても笑われたりした」


言葉にするたび、胸の奥が重くなる。


あの頃の教室。


笑い声。


自分に向けられた視線。


思い出したくない光景が、少しずつよみがえってくる。


それでも、颯太は話すのをやめなかった。


「誰かに相談すればよかったんだろうけど、できなかった。言ったら、もっとひどいことになるかもしれないと思ってたし……自分がいじめられてるって認めるのも、嫌だったんだと思う」


祥太郎が、静かに口を開いた。


「……ずっと、一人で抱えてたのか?」


颯太はうなずいた。


「ああ。家族にも話せなかった。学校では何もないふりをしてたし、卒業すれば全部終わると思ってた」


「……そっか」


祥太郎は、それ以上何も言わなかった。


颯太は続けた。


「高校に入ってからは、あいつらと会わなくなった。でも、何かが変わったわけじゃなかった。人と仲良くなるのが怖くなったし、誰かが笑ってるだけで、自分のことを笑ってるんじゃないかって考えることもあった」


健は、黙って聞いていた。


颯太は少しだけ視線をそらした。


「だから、みんなとも、あんまり深く関わらないようにしてたんだと思う。別に、お前らが嫌いだったわけじゃない。ただ……誰かに近づいて、また傷つくのが怖かった」


そこで、言葉が途切れた。


これ以上話すと、声が震えてしまいそうだった。


本当は、まだ怖かった。


三人がどう思っているのか、分からない。


今までどおりに接してくれるのか。


それとも、腫れ物に触るように扱われるのか。


自分の過去を話したことで、何かが変わってしまうのではないか。


颯太は、弁当箱に視線を落とした。


「……ごめん。こんな話、急にされても困るよな」


その瞬間だった。


「何で謝るんだよ」


健の声がした。


颯太が顔を上げると、健は真剣な表情でこちらを見ていた。


「……え?」


「颯太が謝る必要、ないだろ」


健は少しだけ眉を寄せた。


「そんなことがあったなんて、俺たち知らなかった。気づけなかったことはあるかもしれないけど……でも、話してくれたことを迷惑だなんて思わないよ」


颯太は、言葉を失った。


健は続けた。


「それにさ。今まで颯太があんまり自分のことを話さなかった理由、少し分かった気がする」


「……健」


「もちろん、全部分かったなんて言えないけど。でも、そういうことがあったなら、人と距離を置きたくなるのも、簡単に誰かを信じられなくなるのも、無理はないと思う」


健は、少しだけ困ったように笑った。


「俺だったら、同じようにできるか分からないし」


その言葉を聞いた瞬間、颯太の胸の奥が熱くなった。


責められなかった。


面倒だとも言われなかった。


どうして今まで話さなかったんだと、問い詰められることもなかった。


健はただ、自分の話を聞いてくれていた。


祥太郎も、ゆっくりとうなずいた。


「俺も、颯太がそういうことを経験してたなんて知らなかった。いつも落ち着いてるし、あんまり悩みとか見せないからさ。勝手に、そういうのとは無縁なやつなのかと思ってた」


「……そう見えてたのか」


「うん。でも、見えてなかっただけなんだよな」


祥太郎は、少しだけ視線を落とした。


「気づけなくて、ごめん」


「いや、お前が謝ることじゃないだろ」


「そうかもしれないけどさ。友達なのに、何も知らなかったんだなって思って」


その言葉に、颯太は胸が詰まった。


友達なのに。


何も知らなかった。


その言葉は、責めるためのものではなかった。


祥太郎は、自分のことを知ろうとしてくれている。


過去を話したからといって、距離を置くのではなく、むしろ向き合おうとしてくれている。


奏介も、少し考えてから口を開いた。


「……颯太」


「ん?」


「俺、正直に言うと、何て言えばいいのか分からない」


奏介は、いつものような冗談めいた笑顔を浮かべなかった。


「そんな経験をしたことがないから、颯太がどれだけつらかったのか、全部分かるとは言えない。簡単に『気にするな』とか『もう忘れろ』なんて言いたくもない」


颯太は、じっと奏介を見つめた。


「でも、話してくれたことは嬉しいよ」


「……嬉しい?」


「うん。颯太が俺たちを信じて、話してくれたってことだろ?」


奏介は、少しだけ笑った。


「だったら、俺たちもちゃんと聞きたい。これからも、話せることがあったら話してほしい。もちろん、無理にとは言わないけど」


颯太は、三人の顔を順番に見た。


健。


祥太郎。


奏介。


彼らは、いつもと同じ友人たちだった。


声も、表情も、何もかもが、ついさっきまでと変わっていない。


それなのに、颯太には、彼らが少しだけ違って見えた。


自分のことを、もっと知ろうとしてくれている。


自分の過去を聞いても、離れていこうとはしない。


それが、どうしようもなく嬉しかった。


「……ありがとう」


颯太は、かすれた声で言った。


「話してよかった」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少し緩んだ気がした。


ずっと、怖かった。


自分の過去を知られることが。


弱い自分を見せることが。


誰かに助けを求めることが。


けれど、実際に話してみると、何もかもが壊れてしまったわけではなかった。


むしろ、今まで言葉にできなかった気持ちを、ようやく誰かと分かち合えたような気がした。


健が、ふっと笑った。


「まあ、これからもよろしくな、颯太」


「……何だよ、それ」


「いや、改めて言っとこうと思って」


「改めて言うようなことか?」


「いいだろ、別に」


祥太郎も笑った。


「じゃあ、俺も。これからもよろしく」


「俺もよろしく」


奏介まで続ける。


颯太は、思わず苦笑した。


「……お前ら、何なんだよ」


「友達だけど?」


健が即答した。


その言葉に、颯太は何も言えなくなった。


友達。


その言葉が、こんなにも温かく聞こえたのは、いつ以来だろう。


颯太は少しだけうつむき、表情を隠した。


「……ああ」


それだけ返すのが、精いっぱいだった。


四人は、しばらくその場で弁当を食べた。


途中からは、いつものようにくだらない話も始まった。


祥太郎が昨日見た番組の話を蒸し返し、奏介がまた反論する。健は二人のやり取りに笑いながら、颯太にも意見を求めた。


「なあ、颯太はどう思う?」


「……だから、俺は見てないって」


「じゃあ、どっちの説明が分かりやすい?」


「どっちも分かりにくい」


「ひどくない!?」


祥太郎が大げさに肩を落とす。


奏介は得意げに笑った。


「ほら、俺の勝ち」


「何でそうなるんだよ!」


そんなやり取りを聞きながら、颯太は笑っていた。


心の底から、自然に。


過去のことを話したからといって、突然すべてが解決したわけではない。


寛治たちに対する恐怖は、まだ残っている。


大きな声や、誰かの笑い声に、身構えてしまうこともあるだろう。


人を信じることが怖くなる日だって、きっとある。


それでも。


自分の過去を知ったあとも、三人は変わらずにいてくれた。


その事実が、颯太の中に小さな自信を生み始めていた。


誰かに過去を知られたら、必ず関係が壊れるわけではない。


自分が傷ついてきたことを話しても、それだけで弱い人間だと決めつけられるわけではない。


そう思えることが、嬉しかった。


昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


四人は弁当箱を片づけ、教室へ戻る準備を始めた。


そのとき、健が颯太の肩を軽く叩いた。


「颯太」


「ん?」


「話してくれて、ありがとな」


颯太は少し驚いたように健を見た。


健は、照れくさそうに笑っていた。


「これからも、何かあったら言えよ。俺たちで何とかできることなら、一緒に考えるからさ」


「……ああ」


颯太は、ゆっくりとうなずいた。


「そうさせてもらう」


その返事を聞いて、健は満足そうに笑った。


四人は並んで校舎へ戻っていった。


颯太は、三人の後ろ姿を見ながら思った。


――話してよかった。


心から、そう思えた。


そして、同時に気づいた。


自分が一歩を踏み出せたのは、昨日、優華が話を聞いてくれたからだ。


彼女が、怖かったという気持ちを否定しなかったから。


彼女が、無理に忘れろとも、強くなれとも言わなかったから。


だから、自分も誰かに話してみようと思えた。


優華との出会いが、少しずつ自分を変えている。


そのことを、颯太は初めて実感していた。


放課後。


夕暮れの光が、教室の窓から差し込んでいた。


帰り支度を終えた颯太は、机の横にかけていた鞄を手に取った。


健たちは、教室の入口で待っている。


「颯太、帰ろうぜ」


健が声をかけた。


「ああ、今行く」


颯太は教室を出て、三人のもとへ向かった。


廊下を歩きながら、祥太郎が思い出したように言った。


「そういえば、今日の昼の話だけどさ」


颯太の身体が、ほんの少しだけ強張る。


「……うん?」


「颯太が話してくれたこと、俺たちだけで勝手に誰かに話したりしないから」


祥太郎は、いつもの穏やかな口調で続けた。


「颯太が自分で話したいと思うまでは、俺たちの中だけにしておくよ」


「……そうか」


「うん。だから、心配しなくていい」


奏介も隣からうなずいた。


「話す相手も、話すタイミングも、颯太が決めればいい。俺たちが勝手に決めることじゃないからな」


颯太は、しばらく何も言えなかった。


自分の過去を話したことで、何かを強制されるわけではない。


もっと詳しく話せと迫られることもない。


どうするべきかを、勝手に決められることもない。


三人は、自分の気持ちを尊重してくれている。


「……ありがとな」


颯太が言うと、健が笑った。


「だから、礼を言いすぎだって」


「そうか?」


「そうだよ。何かあるたびに『ありがとう』って言ってたら、こっちも照れるだろ」


「お前が照れるとか、似合わないな」


「おい!」


祥太郎と奏介が笑い出す。


颯太も、つられて笑った。


その笑い声は、廊下に出たあとも、しばらく続いていた。


校門を出たところで、颯太は三人と別れた。


「じゃあ、また明日な」


「おう!」


健たちは手を振り、それぞれの帰り道へ向かっていった。


颯太は一人になったあと、ゆっくりと息を吐いた。


これから、どこへ向かうのか。


もう、考える必要はなかった。


足は自然と、公園へ続く道を選んでいた。


昨日、優華と別れた場所。


そして、今日も会う約束をしている場所。


颯太は歩きながら、昼休みのことを思い返した。


三人に話す前は、あんなにも怖かった。


言葉を口にするだけで、心が震えた。


けれど、話してみたら、彼らは最後まで聞いてくれた。


自分の気持ちを否定しなかった。


これからも友達でいると、当たり前のように言ってくれた。


そのことが、何よりも嬉しかった。


「……七瀬さんのおかげ、かな」


小さくつぶやく。


もちろん、勇気を出したのは自分自身だ。


けれど、最初の一歩を踏み出すきっかけをくれたのは、優華だった。


彼女に話していなかったら、今日も何も言えずにいたかもしれない。


ずっと、過去を抱えたまま、誰にも知られないように生きていたかもしれない。


そう考えると、改めて彼女に感謝したくなった。


公園の入口が見えてくる。


そのそばに、優華が立っていた。


颯太に気づくと、彼女は嬉しそうに手を振った。


「颯太くん!」


「……待たせた」


「ううん。今日は少し早めに来たんだ」


「そうか」


颯太は、優華の隣に並んだ。


二人は、昨日と同じように公園の中を歩き始めた。


しばらくは、他愛のない話をした。


学校であったこと。


昼休みに食べた弁当のこと。


健たちが、いつもどおり騒がしかったこと。


そして。


「……今日、友達に話したんだ」


颯太がそう切り出すと、優華は足を止めた。


「友達に?」


「ああ。健たちに、中学時代のことを」


優華は、驚いたように目を見開いた。


「……そっか」


その声が、少しだけ震えていた。


颯太は気づかずに話を続ける。


「昨日、七瀬さんに話しただろ。それで、少しだけ気持ちが楽になったんだ。だから……あいつらにも話してみようと思った」


「うん……」


「最初は、やっぱり怖かった。変なふうに思われるんじゃないかって。でも、三人とも、ちゃんと聞いてくれた」


颯太は、少し照れくさそうに笑った。


「話してくれてありがとうって言われた。これからも友達だって」


優華は、何度もうなずいた。


「……よかったね」


「ああ。本当に、よかった」


颯太は空を見上げた。


夕日が、街の向こうへ沈みかけている。


「今まで、誰かに話したら、何かが変わってしまうと思ってた。でも、実際は……悪いことばかりじゃなかったんだな」


優華は、彼の横顔を見つめた。


「うん」


「まだ、全部が平気になったわけじゃないけどさ。昨日よりは、少しだけ前に進めた気がする」


その言葉を聞いた瞬間、優華の胸が温かくなった。


颯太は、自分から一歩を踏み出した。


誰かに助けてもらうだけではなく、自分の意思で、過去を打ち明けた。


それは、彼にとって大きな一歩だった。


「……颯太くん」


「ん?」


「すごいね」


「……何が?」


「自分から、話してみようって思えたこと」


優華は、柔らかく微笑んだ。


「怖かったんでしょう? それでも、ちゃんと話してみたんだよね」


「……まあ」


颯太は照れくさそうに視線をそらした。


「七瀬さんに話せたから、少しだけ勇気が出たんだと思う」


その言葉に、優華の表情が止まった。


「……私に?」


「ああ」


颯太は、彼女を見た。


「七瀬さんが、俺の話をちゃんと聞いてくれたから。何も否定しなかったし、無理に忘れろとも言わなかった。だから、もしかしたら健たちにも話せるかもしれないって思ったんだ」


優華は、言葉を失った。


自分が、彼の役に立てた。


五年前、何もできなかった自分が。


今、目の前にいる颯太の力になれた。


そう思った瞬間、胸の奥から、さまざまな感情が込み上げてきた。


嬉しさ。


安堵。


そして、消えることのない後悔。


自分がもっと早く、あの日に行動できていたら。


彼は、誰にも話せずに苦しむ時間を、少しでも短くできたのだろうか。


その答えは、分からない。


過去に戻って、やり直すこともできない。


それでも今は、彼のそばにいられる。


彼が少しずつ前を向こうとする姿を、見守ることができる。


優華は、ゆっくりと息を吸った。


「……そっか」


声が震えないように、気をつけながら。


「私、何かできたんだね」


「……うん」


颯太は、少しだけ笑った。


「ありがとう、七瀬さん」


優華は、その言葉を聞いて、目を伏せた。


本当は、ありがとうと言われる資格などないと思っていた。


あの日、何もできなかった自分。


颯太が苦しんでいることを知りながら、助けられなかった自分。


その事実は、今も変わらない。


けれど、今の自分にできることがあるのなら。


この出会いに意味があるのなら。


その意味を、最後まで見届けたい。


「……どういたしまして」


優華は、微笑んだ。


「でもね、颯太くん」


「ん?」


「今日、勇気を出して話したのは、颯太くん自身だよ」


颯太は黙って彼女を見た。


「私が話を聞くことはできても、実際に話すかどうかを決めるのは颯太くんだから。だから、今日のことは、自分でもちゃんと褒めてあげてね」


「……自分を褒める、か」


「うん。怖いのに頑張ったんだから」


颯太は、少し考えたあと、小さく笑った。


「……それは、ちょっと難しいな」


「じゃあ、私が代わりに褒める!」


「何でそうなるんだよ」


「だって、本当にすごいことだもん」


優華は、まっすぐに颯太を見つめた。


「颯太くんは、ちゃんと前に進んでるよ」


その言葉に、颯太の胸が熱くなった。


前に進んでいる。


自分が、そんなふうに言われる日が来るなんて、思ってもいなかった。


今までは、過去にとらわれている自分が嫌だった。


怖がっている自分が嫌だった。


誰かと距離を取ってしまう自分が、情けなかった。


けれど、優華は、それを否定しなかった。


怖くてもいい。


すぐに忘れられなくてもいい。


それでも、一歩を踏み出せたのなら、それは前に進んでいるということなのだと。


颯太は、ゆっくりとうなずいた。


「……そうだな」


そして、少しだけ顔を上げた。


「俺、もう少し頑張ってみるよ」


優華の目が、優しく細められた。


「うん」


二人は、再び歩き出した。


夕暮れの公園を抜け、住宅街へと続く道をゆっくり進んでいく。


颯太の心には、まだ恐怖が残っている。


過去を完全に乗り越えたわけではない。


これから先、再び立ち止まってしまう日もあるかもしれない。


それでも、今は思える。


ひとりで抱え続けなくてもいいのかもしれない、と。


誰かに話してもいいのかもしれない、と。


そして、誰かを信じてみてもいいのかもしれない、と。


隣を歩く優華を見て、颯太は小さく息を吐いた。


「……七瀬さん」


「なに?」


「これからも、いろいろ話していいか?」


優華は、驚いたように彼を見た。


「もちろん!」


その返事は、迷いのないものだった。


「私でよければ、いつでも聞くよ」


「……そっか」


颯太は、ほんの少しだけ笑った。


「じゃあ、また話す」


「うん。待ってるね」


その言葉を聞いて、颯太は前を向いた。


夕日が、二人の影を長く伸ばしている。


昨日よりも、少しだけ近づいた影。


昨日よりも、少しだけ軽くなった心。


そして、昨日よりも、ほんの少しだけ前を向けた自分。


颯太は、まだ知らない。


優華が、この時間にいられる理由を。


彼女が抱えている後悔を。


そして、この出会いがいつか終わりを迎えるかもしれないことを。


ただ今は、隣にいる彼女に感謝していた。


自分が、もう一度誰かを信じてみようと思えたことに。


そして、過去を話す勇気を持てたことに。


――明日も、少しだけ前に進めるだろうか。


そんなことを考えながら、颯太は夕暮れの道を歩いていった。


優華は、その横顔を見つめながら、胸の中でそっとつぶやいた。


――よかったね、颯太くん。


あなたが、自分から一歩を踏み出せて。


今度こそ、その一歩を見守ることができて。


けれど、心の奥底には、まだ消えない言葉があった。


――あの日、助けられなくて、ごめんなさい。


いつか必ず、伝えなければならない言葉。


そして、その言葉を伝えることこそが、自分がこの時間にやってきた理由の一つなのだと、優華は改めて感じていた。


二人の歩く道の先に、夕暮れの光が残っている。


まだ、すべてが変わったわけではない。


けれど、確かに何かが変わり始めていた。


颯太が、誰かに心を開き始めたように。


優華もまた、過去の後悔から逃げずに向き合うための一歩を、少しずつ踏み出そうとしていた。

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