#5 君になら、話せる気がした
翌朝。
柊木颯太は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床を淡く照らしている。机の上には、昨日学校から持ち帰ったプリントが何枚か置かれたままだった。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない部屋。
それなのに、颯太の心は、昨日までとは少しだけ違っていた。
――また、会えるだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまった。
昨日の帰り道。
忘れたつもりでいた過去と、もう二度と顔を合わせたくなかった相手。そして、身体が動かなくなった自分。
何もできなかった。
声すら出せなかった。
あのときの自分は、結局、中学時代と何も変わっていなかったのではないか。
そんな思いが、胸の奥に重く沈んでいた。
けれど、その場に駆け寄ってきてくれた少女がいた。
七瀬優華。
どうして自分のことを知っているのか。どうして、あんなにも必死になって助けてくれたのか。
分からないことばかりだ。
それでも、彼女がそばにいてくれたことが、颯太にとって確かな救いになっていた。
「……何考えてんだ、俺」
颯太は小さくつぶやき、布団から起き上がった。
期待しているのだろうか。
今日も彼女に会えることを。
昨日の続きを話せることを。
自分でも、まだよく分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
昨日、優華に言われた言葉が、今も心に残っている。
『怖くてもいいんだよ。すぐに忘れなくたっていい』
あの言葉を思い出すと、ほんの少しだけ、呼吸が楽になる気がした。
午前中の授業は、いつも以上に長く感じられた。
教師の声が教室に響く。黒板に書かれた文字をノートに写し、時折、教科書のページをめくる。
いつもなら、ただ時間が過ぎるのを待つだけだった。
けれど今日は、時計を見る回数が増えていた。
昼休みになれば、彼女に会えるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎるたび、颯太は自分に言い聞かせた。
別に、会いたいわけじゃない。
昨日のことについて、少し話をするだけだ。
それだけ。
「颯太、さっきから何回時計見てんの?」
隣の席から健が顔をのぞかせた。
「……見てない」
「いや、見てただろ。授業中も二回くらい」
「時間を確認しただけだ」
「それを時計を見るって言うんだよ」
「うるさいな」
いつものように返したつもりだった。
けれど、健はどこか不思議そうに目を細めた。
「なんか今日、そわそわしてない?」
「してない」
「そうか? 昨日も帰り、なんかあったみたいだったし」
その言葉に、颯太の指が止まった。
昨日の帰り道。
寛治たちと出会ったこと。
そして、優華に助けられたこと。
頭の中に光景がよみがえり、胸の奥がわずかに強張る。
「……別に、何もない」
そう答えると、健はそれ以上追及しなかった。
「ま、話したくないならいいけどさ。なんかあったら言えよ」
「……ああ」
短く答えながら、颯太は思った。
健たちは、知らない。
自分が中学時代に何を経験したのか。
どうして人と距離を取るようになったのか。
どうして、誰かに踏み込まれることを避けてきたのか。
友達である彼らにも、話していない。
話す必要がないと思っていた。
いや、本当は――話すのが怖かったのだ。
口にした瞬間、あの頃の自分に戻ってしまいそうで。
自分がどれだけ弱かったのか、改めて突きつけられる気がして。
だから、何も言わずにいた。
誰にも知られないように、過去を心の奥に閉じ込めてきた。
それなのに。
どうして、あの少女には話してみたいと思うのだろう。
颯太自身にも、その理由は分からなかった。
昼休み。
颯太は弁当を持って教室を出た。
友人たちには「ちょっと用事がある」とだけ告げてある。
階段を下り、校舎裏へ続く廊下を歩く。
人通りの少ない渡り廊下を抜けると、校舎の端に小さなベンチが置かれた場所があった。
普段はほとんど誰も来ない。
昨日、優華と話した場所に近いところだった。
「……来てるわけないよな」
つぶやいた、そのときだった。
「颯太くん」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、渡り廊下の向こうに優華が立っていた。
淡い色のカーディガンに、落ち着いた雰囲気のスカート。高校生の制服とは違う、年齢に合った服装だった。
彼女は颯太を見つけると、ほっとしたように微笑んだ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「来てくれたんだね」
「いや、俺は学校にいるんだから、来るも何も……」
「そっか。そうだよね」
優華は小さく笑った。
その笑顔を見て、颯太の肩から少しだけ力が抜けた。
昨日の帰り道から、ずっと心の中に引っかかっていたものがある。
それを話すべきかどうか。
迷っていた。
けれど、優華の顔を見た瞬間、胸の奥にしまっていた言葉が、少しだけ浮かび上がってきた。
「……七瀬さん」
「うん?」
「昨日のことなんだけど」
優華の表情が、静かに変わった。
「昨日の帰り道?」
「ああ」
颯太はベンチに視線を落とした。
「……少し、話してもいいか」
その言葉に、優華は一瞬だけ息をのんだ。
彼が、自分から話そうとしている。
今まで、何度も聞きたいと思った。
あのとき何があったのか。
どうして彼が人との距離を取るようになったのか。
けれど、未来から来た自分には、その答えの一部を知っているという、どうしようもない事情があった。
だからこそ、聞き出すことはできなかった。
颯太が自分の意思で話してくれるまで、待つと決めていた。
「もちろん」
優華は穏やかに答えた。
「話したくなったことだけでいいよ。無理に全部話さなくてもいいから」
「……ありがとう」
二人はベンチに並んで座った。
少しの間、沈黙が流れる。
校舎の向こうから、運動部の掛け声が聞こえてきた。
いつもと変わらない学校の昼休み。
その何気ない音が、今は妙に遠く感じられた。
颯太は膝の上で手を組んだ。
指先に、少し力が入る。
「……俺、中学のとき」
言葉が途切れた。
優華は何も言わず、彼の続きを待った。
「いじめられてたんだ」
その瞬間。
優華の胸の奥に、鋭い痛みが走った。
分かっていた。
知っていた。
けれど、本人の口からその言葉を聞くのは、記憶の中で何度も思い返してきた出来事とはまったく違った。
目の前にいる颯太は、あの頃の少年ではない。
高校生になった今も、あの日のことを抱えて生きている。
優華は、膝の上でそっと手を握った。
「……そっか」
それだけを返す。
本当は、謝りたかった。
ごめんなさい。
あのとき、私は見ていた。
あなたが苦しんでいることを知っていたのに、何もできなかった。
でも、今ここでそれを告げることはできなかった。
彼がようやく開きかけてくれた心を、自分の後悔で塞ぎたくなかった。
颯太は、ゆっくりと話し始めた。
「最初は、ほんの些細なことだったんだと思う」
中学一年生の頃。
教室で忘れ物をしたとき、誰かに笑われた。
授業中に答えを間違えたとき、後ろの席から小さな声でからかわれた。
最初は、それだけだった。
誰にでもあるような、ちょっとした悪ふざけ。
颯太自身も、そう思っていた。
「嫌だなとは思ったけど、最初は我慢してれば終わると思ってた。俺が気にしなければ、相手も飽きるだろうって」
けれど、終わらなかった。
からかいは少しずつエスカレートしていった。
持ち物を隠される。
聞こえるように悪口を言われる。
何かをすれば笑われ、何もしなくても笑われる。
教室に入るだけで、周囲の視線が気になるようになった。
「中心にいたのが、半田寛治ってやつだった」
優華の心臓が、強く跳ねた。
寛治。
その名前は、五年前の記憶と結びついている。
「五木大輝も一緒だった。あいつら、いつも何人かでつるんでてさ。半田が何か言うと、周りも笑うんだ。最初はただ見てるだけだったやつも、だんだん一緒になって……」
颯太は自嘲気味に笑った。
「俺が何か言い返せば、余計に面白がられた。だから、何も言わないようにした。反応しなければ、そのうち飽きると思って」
「……うん」
「でも、何も言わなくても、結局は変わらなかった」
彼の声は淡々としていた。
まるで、遠い昔に起きた、誰か別の人間の話をしているようだった。
けれど、膝の上で握りしめられた手が、わずかに震えていた。
「学校に行くのが嫌になった。朝、目が覚めると、今日は何をされるんだろうって考えるんだ。教室に入ったら、また笑われるんじゃないか。休み時間に何か言われるんじゃないかって」
颯太は一度、言葉を切った。
「……それでも、休めなかった」
優華は彼を見つめた。
「親に心配をかけたくなかったし、学校に行かなくなったら、負けたみたいな気がしてた。だから、普通に学校に行って、普通に授業を受けて、何もないふりをしてた」
「颯太くん……」
「今思えば、誰かに相談すればよかったんだろうな。先生でも、家族でも。でも、あの頃は無理だった」
どうして無理だったのか。
その理由を、颯太はずっと言葉にできずにいた。
相談したところで、信じてもらえないかもしれない。
大げさだと笑われるかもしれない。
それどころか、告げ口したと知られれば、もっとひどいことになるかもしれない。
そんな考えが、頭の中をぐるぐると回っていた。
「それに……誰かに助けてほしいって思ってる自分が、情けなかったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、優華は唇をかみしめた。
違う。
情けなくなんかない。
助けてほしいと思うことは、弱さなんかじゃない。
そう言ってあげたいのに、彼の話を遮ることはできなかった。
「俺、昔から、あんまり人に迷惑をかけたくないって思ってたんだ。だから、何でも自分で何とかしようとしてた。でも、あのときは……どうにもならなかった」
颯太は遠くを見つめた。
「誰も助けてくれないんだって、思った」
その言葉は、静かな声だった。
怒りも、恨みも、ほとんど感じられなかった。
ただ、諦めだけが残っていた。
優華は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
あの日。
中学校の廊下の向こうから、颯太を見ていた自分。
助けてあげたいと思った。
けれど、怖かった。
自分まで標的にされたらどうしよう。
余計に状況を悪くしてしまったらどうしよう。
そんな自分のことばかり考えて、足を動かせなかった。
そして、彼は今もこうして覚えている。
誰も助けてくれなかった、と。
その言葉の中には、きっと自分も含まれている。
当然だった。
自分は、彼を助けなかったのだから。
「……中学を卒業するまで、ずっと?」
優華は、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「いや、ずっと同じように続いたわけじゃない。時期によって、ひどかったり、少し落ち着いたりはした。でも、なくなったわけじゃなかった」
颯太は小さく息を吐いた。
「卒業が近づいた頃、ようやく終わるんだって思った。高校が別になれば、もう会わなくて済む。だから、それまで我慢すればいいって」
「……うん」
「実際、高校に入ってからは、あいつらと会うこともなかった。周りの人間も変わったし、何かされることもなくなった」
そこで、颯太は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「なのに、俺は変われなかった」
優華は、静かに彼の横顔を見た。
「誰かが後ろで笑ってると、自分のことを笑ってるんじゃないかって思う。大きな声が聞こえると、何か言われるんじゃないかって身構える。人と仲良くなっても、どうせいつか離れていくんじゃないかって考える」
颯太は自分の手を見つめた。
「だから、最初から距離を取るようになった。深く関わらなければ、傷つくこともない。誰かに期待しなければ、裏切られることもない。そうやって、自分を守ってきたんだと思う」
「……そっか」
「でも、昨日……」
そこまで話して、颯太の声が止まった。
昨日の帰り道。
寛治たちの顔を見た瞬間、身体が動かなくなった。
頭では分かっていた。
もう中学生ではない。
ここは、あの頃の教室ではない。
目の前にいるのは、過去の自分を苦しめた人間たちだ。
それでも、身体はあの頃の恐怖を思い出してしまった。
「高校生になって、もう何年も経ってるのに。あいつらを見ただけで、何もできなくなった。声も出なかった。逃げることすら、すぐにはできなかった」
颯太は唇を引き結んだ。
「……情けないよな」
「そんなことない」
優華は、思わず口にしていた。
颯太が顔を上げる。
優華は彼を見つめていた。
その瞳には、迷いがなかった。
「情けなくなんかないよ」
「でも、俺は……」
「怖かったんでしょう?」
颯太は言葉を失った。
優華は、ゆっくりと言葉を続けた。
「昔、ひどく傷つけられた相手に突然会ったんだよ。頭ではもう大丈夫だって思っていても、心や身体が、すぐに同じように思えるとは限らない。昨日の颯太くんが動けなかったのは、それだけ怖い思いをしてきたからなんじゃないかな」
「……」
「それに、颯太くんは昨日、ちゃんとここにいる。今まで誰にも話せなかったことを、私に話してくれてる」
優華は少しだけ微笑んだ。
「私は、それを情けないなんて思わないよ」
颯太は、何も答えられなかった。
慰められたことがなかったわけではない。
大丈夫だと、気にするなと、忘れろと言われたことならあった。
けれど、優華の言葉は、それらとは少し違っていた。
彼女は、颯太に無理に前を向かせようとはしなかった。
過去を忘れろとも言わなかった。
ただ、怖かったという気持ちを、そのまま受け止めてくれた。
それが、どうしようもなく心に響いた。
「……七瀬さんはさ」
颯太は、しばらく迷ったあと、口を開いた。
「どうして、そんなに俺のことを分かってくれるんだ?」
優華の笑顔が、ほんのわずかに揺れた。
「どうして、俺が話したいことを無理に聞こうとしないんだ。昨日も、俺が何も言えなくなったとき、ずっと待ってくれた。今日だって……」
颯太は彼女を見た。
「普通、そこまでしてくれないと思う」
優華はすぐには答えなかった。
その問いに答えるためには、自分が何者なのかを話さなければならない。
五年後の世界から来たこと。
中学時代の彼を知っていること。
そして、あのとき助けられなかったこと。
いつかは、すべて話さなければならない。
けれど、今はまだ。
「……颯太くんが、ちゃんと話してくれたからだよ」
優華は、静かに答えた。
「私が何かを分かっているように見えたとしても、颯太くんが何を感じてきたのか、全部分かるわけじゃない。だから、話してくれたことを、ちゃんと聞きたいと思ったの」
「……そっか」
「うん」
颯太は、彼女の言葉を考えるように、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりとつぶやく。
「……ありがとう」
優華の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
違う。
自分こそ、謝らなければならない。
颯太が誰にも言えなかったことを話してくれた今だからこそ、本当は伝えなければならないのかもしれない。
あの日、ごめんなさい。
助けてあげられなくて、ごめんなさい。
ずっと、後悔していた。
でも、言えなかった。
今、颯太がようやく自分に心を開こうとしてくれている。
その瞬間を、自分の罪を告白することで壊してしまうのが怖かった。
それでも、いつかは伝える。
この出会いが終わる前に。
自分の後悔から逃げずに、彼と向き合うために。
優華は小さく息を吸い込んだ。
「……ねえ、颯太くん」
「ん?」
「これからも、少しずつでいいから、話してくれる?」
颯太は目を伏せた。
「……俺なんかの話、聞いても面白くないと思うけど」
「面白いかどうかじゃないよ」
優華は、少しだけ身を乗り出した。
「颯太くんが話したいと思ったことなら、私は聞きたい」
その言葉に、颯太は困ったように眉を寄せた。
「……七瀬さんって、変わってるな」
「えっ、そう?」
「そうだよ。俺みたいな、面倒くさいやつにわざわざ関わろうとするんだから」
「面倒くさいなんて思ってないよ」
「……即答かよ」
思わず、颯太の口元が緩んだ。
ほんの一瞬。
けれど、優華はその変化を見逃さなかった。
颯太が、少しだけ笑っている。
それだけのことが、嬉しかった。
五年前、あの日の彼は、どんな顔をしていたのだろう。
苦しそうに顔を伏せていた。
誰にも助けを求められず、ただ耐えていた。
その姿を見ていながら、自分は何もできなかった。
けれど今は、目の前にいる。
彼の言葉を聞くことができる。
彼が笑う瞬間を、見ることができる。
それが、どれほど大切なことなのか。
優華は、まだうまく言葉にできなかった。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「……そろそろ戻らないと」
颯太が立ち上がる。
「そうだね」
優華も立ち上がり、スカートの裾を軽く整えた。
颯太は一度、校舎の方へ視線を向けたあと、少し迷ってから口を開いた。
「七瀬さん」
「なに?」
「……今日の帰りも、会えるか?」
言ってから、颯太は自分でも驚いた。
自分から、会いたいと言った。
誰かと一緒にいたいと思った。
今までなら、こんなことは考えもしなかったはずなのに。
「うん。もちろん」
優華は、嬉しそうに笑った。
「昨日と同じ場所でいい?」
「ああ」
「じゃあ、待ってるね」
そう言って、彼女は小さく手を振った。
颯太は教室へ戻るために歩き出した。
けれど、数歩進んだところで、ふと足を止める。
「……七瀬さん」
「ん?」
振り返った優華に、颯太は少しだけ視線をそらしながら言った。
「今日、話せてよかった」
優華は目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……私も」
その返事を聞いて、颯太は今度こそ校舎へ戻っていった。
彼の背中が見えなくなるまで、優華はその場に立っていた。
そして、誰もいなくなった渡り廊下で、そっと目を閉じる。
「……颯太くん」
声が、かすかに震えた。
「話してくれて、ありがとう」
彼は、自分の過去を話してくれた。
誰にも言えなかった苦しみを。
誰にも見せたくなかった弱さを。
それを自分に話してくれた。
嬉しかった。
でも、同時に、胸が苦しかった。
彼がどれほどつらい時間を過ごしてきたのか。
自分が何もできなかったあの日から、どれほど長い時間、ひとりで抱えてきたのか。
改めて、思い知らされたから。
優華は、唇をかみしめた。
「……ごめんなさい」
誰にも届かない、小さな声。
「本当に、ごめんなさい……」
その謝罪は、五年前の自分へ向けたものでもあり、目の前にいない颯太へ向けたものでもあった。
けれど、過去は変えられない。
少なくとも、あの日の自分が何もしなかったという事実は消えない。
だからこそ、今度こそ。
今度こそ、彼のそばにいたい。
彼がひとりで抱えてきたものを、すべて自分が背負うことはできないかもしれない。
それでも、彼がもう一度、誰かを信じてみようと思えるように。
自分が、彼の未来を奪わないように。
優華は、そっと目を開けた。
放課後。
夕暮れに染まり始めた空の下、颯太は校門を出た。
いつもなら、寄り道もせずに家へ帰る。
誰とも深く関わらず、余計なことを考えず、静かに一日を終える。
それが、今までの颯太の日常だった。
けれど今日は、校門を出たあと、自然と足が昨日の場所へ向かっていた。
公園へ続く道。
昨日、寛治たちと出会った道でもある。
思い出すと、胸の奥にかすかな緊張が走った。
それでも、颯太は歩みを止めなかった。
やがて、小さな公園が見えてきた。
入口のそばに、優華が立っていた。
夕日を受けた彼女の髪が、柔らかく輝いている。
颯太に気づくと、優華はぱっと顔を明るくした。
「颯太くん!」
その声を聞いた瞬間、颯太の心に、温かなものが広がった。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ少女。
なのに、何かが違って見えた。
「……待たせた?」
「ううん。私も、さっき来たところ」
「そうか」
颯太は、彼女の隣に並んだ。
少しの間、二人は何も話さずに歩いた。
けれど、沈黙は不思議と気まずくなかった。
颯太は、ふと口を開いた。
「……今日、話したことなんだけど」
「うん」
「今まで、誰にも話したことなかったんだ」
優華は黙って聞いていた。
「家族にも、友達にも。話したら、何かが変わるのかもしれないって思ったことはあった。でも、結局、言えなかった」
颯太は夕焼けを見上げた。
「話したところで、過去がなくなるわけじゃない。俺が怖がりになったことも、誰かを信じるのが苦手になったことも、変わらないと思ってたから」
「……うん」
「でも、今日、七瀬さんに話してみて……少しだけ、楽になった気がする」
優華は足を止めた。
颯太も、数歩先で立ち止まり、彼女を振り返った。
「……本当?」
「ああ。何でかは、よく分からないけど」
颯太は、照れくさそうに頭をかいた。
「たぶん、七瀬さんが、俺のことを否定しなかったからだと思う」
優華の目が、わずかに揺れた。
「……否定なんか、するわけないよ」
「うん。だから……ありがとう」
今度は、はっきりとした声だった。
優華は笑おうとした。
けれど、胸の奥からこみ上げる感情が大きすぎて、うまく笑えなかった。
「……どうした?」
颯太が不思議そうに尋ねる。
「ううん。何でもない」
優華は首を横に振った。
そして、今度こそ笑った。
「こちらこそ、ありがとう」
「……何で七瀬さんがお礼を言うんだよ」
「秘密」
「またそれか」
颯太は呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情には、昨日までにはなかった柔らかさがあった。
二人は再び歩き出した。
夕暮れの道を、ゆっくりと。
まだ、すべてを話したわけではない。
颯太は、優華が未来から来た理由を知らない。
優華が、五年前のあの日に何をしていたのかも知らない。
二人の間には、まだ大きな秘密が横たわっている。
それでも、今日、颯太は自分の過去を語った。
そして優華は、その言葉を受け止めた。
ほんの小さな一歩かもしれない。
けれど、それは確かに、昨日までとは違う一歩だった。
帰り道の途中、颯太はふと、隣を歩く優華を見た。
「……七瀬さん」
「なに?」
「明日も、来るのか?」
優華は一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「颯太くんが嫌じゃなければ、来たいな」
颯太は少しだけ視線をそらした。
「……別に、嫌じゃない」
昨日も、同じことを言った気がする。
けれど、今日のその言葉には、昨日とは少し違う気持ちが込められていた。
優華はそれに気づいたのか、何も言わずに微笑んだ。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
その影は、まだ少しだけ離れている。
けれど、昨日よりも、ほんの少し近づいていた。
そして、優華は心の中でそっと誓った。
――今度こそ、あなたをひとりにはしない。
たとえ、この時間にいられる日々が永遠ではなくても。
たとえ、いつか別れが来るのだとしても。
その日が来るまでは、彼の隣にいたい。
颯太が自分の足で未来へ進めるようになるまで。
今度こそ、あの日の後悔から目をそらさずに。
優華は、隣を歩く颯太を見つめた。
そして、心の中で小さくつぶやいた。
――いつか、ちゃんと謝るから。
あの日、助けられなくて、ごめんなさい。
その言葉を伝えられる日が来ることを、願いながら。
二人は、夕暮れの道を歩いていった。




