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#4 忘れたはずの恐怖

六月のある日の放課後。


「じゃあな、颯太!」


「また明日ー!」


校門の前で、上原健と清水祥太郎が手を振った。


「おう。また明日」


颯太は軽く手を上げて答えた。


楠木奏介は、隣でスマートフォンを鞄にしまいながら口を開いた。


「今日は一緒に帰らないのか?」


「ちょっと寄るところがある」


「そうか。じゃあ、またな」


「おう」


三人と別れた颯太は、一人で帰路についた。


最近、放課後になると七瀬優華のことを考える時間が増えていた。


五年後から来たという、不思議な女性。


突然現れて、自分を助けたいと言った。


いまだに信じられないことばかりだが、彼女と話している時間は、不思議と嫌いではなかった。


「……何考えてんだ、俺」


颯太は小さくつぶやいた。


たった数回話しただけの相手だ。


それなのに、気づけば彼女の言葉や表情を思い返している。


「別に、気になるとかじゃ……」


そこまで言って、颯太は口を閉じた。


誰もいない道で何を言い訳しているのだろう。


自分に呆れながら、いつもの帰り道を進んでいく。


その日は、いつもより少しだけ遠回りをするつもりだった。


商店街を抜け、住宅街へと続く道。


夕方の風が吹き、街路樹の葉が揺れている。


穏やかな帰り道だった。


――あの声を聞くまでは。


「……あれ?」


不意に、聞き覚えのある声がした。


「おい、あいつ……」


颯太の足が止まった。


道路の向こう側。


コンビニの前に、数人の男たちが立っていた。


そのうちの一人が、こちらを向く。


そして、にやりと笑った。


「……柊木?」


その瞬間、颯太の身体が硬直した。


半田寛治。


五木大輝。


そして、かつて自分を取り囲んでいた数人の同級生たち。


中学時代、颯太を苦しめた人間たちだった。


*


「うわ、マジかよ!」


寛治が声を上げた。


「柊木じゃん! 久しぶりだなあ!」


大輝も、面白いものを見つけたように笑っている。


「何年ぶりだ? 全然変わってねえな、お前!」


他の男たちも、次々と颯太に気づいた。


「うわ、懐かし!」


「まだこの辺に住んでんの?」


「高校どこだっけ?」


まるで、昔からの友人に再会したかのような口ぶりだった。


けれど、颯太にはわかっていた。


彼らの笑顔の奥にあるものを。


何も変わっていない。


あの頃と同じだ。


相手が嫌がることを楽しみ、困っている姿を見て笑う。


自分たちがどれだけ人を傷つけたのか、考えようともしない。


「……」


颯太は何も答えなかった。


早く立ち去ろう。


そう思った。


彼らと話す必要はない。


もう中学生ではないのだから、昔と同じように振る舞う必要もない。


そう自分に言い聞かせ、颯太は視線をそらした。


「……じゃあ」


小さくつぶやき、彼らの横を通り過ぎようとする。


しかし。


「おいおい、待てよ」


寛治が一歩前に出た。


「せっかく久しぶりに会ったんだから、ちょっとくらい話そうぜ?」


「……話すことなんてない」


颯太は、できるだけ平静な声で答えた。


寛治の笑顔が、わずかに変わる。


「は? 何だよ、その態度」


「別に……」


「お前、昔からそうだったよな。何か聞いても、ろくに返事しねえし」


大輝が横から口を挟んだ。


「いや、こいつの場合、返事できなかったんじゃね?」


「ははっ、確かに!」


笑い声が響く。


颯太の耳には、その声が妙にはっきりと聞こえていた。


周囲の音が、少しずつ遠ざかっていく。


車の走行音。


通行人の話し声。


風に揺れる木々の音。


それらが薄れていき、彼らの声だけが頭の中に残った。


――お前って、ほんとつまんねえよな。


――何か言えよ。


――どうせ何もできねえだろ。


忘れたつもりだった。


もう、あの頃とは違う。


自分は高校生になった。


あの場所から離れた。


もう大丈夫だと、そう思っていた。


なのに。


「……っ」


指先が冷たくなった。


呼吸が浅くなる。


足に力が入らない。


目の前にいるのは、数年ぶりに会った同級生たちのはずだった。


それなのに、颯太の目には、あの雨の日の校舎裏が重なって見えた。


濡れた地面。


自分を見下ろす顔。


逃げ場のない空間。


そして、何もできなかった自分。


「……やめろ」


声にならない声が、喉の奥でかすれた。


「ん? 何か言ったか?」


寛治が顔を近づける。


颯太は反射的に後ずさった。


その動きを見て、大輝が吹き出した。


「おい、何ビビってんだよ!」


「別に、何もしてねえだろ?」


「昔みたいに、ちょっと話してるだけじゃん」


その言葉が、颯太の胸をえぐった。


昔みたいに。


ちょっと話しているだけ。


彼らにとっては、それだけのことなのだ。


自分がどれだけ苦しかったのか。


どれだけ学校へ行くことが怖かったのか。


誰にも気づかれないように、どれだけ必死に平気なふりをしていたのか。


彼らは知らない。


いや、知ろうともしなかった。


「……俺は」


颯太は口を開いた。


けれど、言葉が続かない。


何か言い返さなければ。


そう思うのに、身体が動かなかった。


頭ではわかっている。


今は、あの頃とは違う。


目の前の相手に、従う必要などない。


それなのに、身体が恐怖を覚えていた。


彼らの声を聞くだけで、あの頃の感覚がよみがえってくる。


「……っ、は……」


息がうまく吸えない。


颯太は胸元を握りしめた。


「何だよ、お前。顔色悪くね?」


寛治が不思議そうに言った。


けれど、その声には心配よりも面白がるような響きがあった。


「もしかして、俺らのこと怖いの?」


大輝が笑った。


「まさか、まだ根に持ってんの?」


颯太の視界が揺れた。


頭の中で、いくつもの記憶が重なっていく。


笑い声。


冷たい視線。


逃げられなかった放課後。


誰にも助けを求められなかった自分。


もう終わったはずの過去が、目の前に戻ってきていた。


「……やめろ」


今度は、かすかに声が出た。


「……頼むから」


その言葉に、寛治たちは一瞬だけ黙った。


しかし、すぐに笑い声が上がった。


「おい、聞いたか? 頼むから、だってよ!」


「昔と変わってねえなあ!」


颯太は、唇をかみしめた。


何もできない。


何も言えない。


高校生になっても、自分はまだ、あの頃から抜け出せていないのだろうか。


その事実が、何よりも苦しかった。


*


その頃。


優華は、少し離れた商店街の入り口にいた。


今日は颯太に会いに行くつもりだった。


毎日会いに行くのは、彼にとって迷惑かもしれない。


そう思いながらも、どうしても気になってしまう。


颯太が、少しずつでも心を開いてくれているように感じたからだ。


もちろん、焦ってはいけない。


彼のペースを大切にしなければならない。


そう自分に言い聞かせていた。


そのときだった。


通りの向こうから、聞き覚えのない笑い声が聞こえてきた。


何気なく視線を向けた優華は、足を止めた。


数人の男たちに囲まれている、一人の少年。


見覚えのある後ろ姿。


少し猫背で、肩に力が入っている。


その姿を見た瞬間、優華の胸が大きく締めつけられた。


「……颯太くん?」


声が震えた。


彼は、何も言い返していなかった。


ただ、うつむき、身体をこわばらせていた。


男たちが笑う。


その声を聞くたびに、颯太の肩が小さく揺れる。


優華には、その光景が何を意味するのか、すぐにわかった。


そして、男たちの顔を見た。


半田寛治。


五木大輝。


忘れるはずがなかった。


中学時代、颯太を苦しめていた人たち。


あの日、校舎裏で彼を取り囲んでいた人たち。


そして、自分が何もできずに見ていた人たち。


「……そんな」


優華の足が震えた。


五年が経っても、何も変わっていない。


少なくとも、今この瞬間、颯太は再び彼らの前で苦しんでいる。


そして、自分はまた、少し離れた場所に立っている。


あの日と同じように。


声をかけるべきだ。


今すぐ、颯太のところへ行くべきだ。


頭ではわかっていた。


なのに、一瞬だけ身体が動かなかった。


恐怖が、過去の記憶を呼び起こす。


もし自分が割って入ったら。


もし彼らに気づかれたら。


もし、また何もできなかったら。


そんな考えが浮かんだ。


しかし。


優華は、強く拳を握りしめた。


――違う。


――もう、あの日とは違う。


あのときの自分は、何もできなかった。


でも、今は違う。


今度こそ、逃げたくない。


「……颯太くん!」


優華は走り出した。


*


「おい、柊木。聞いてんのか?」


寛治が颯太の肩に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。


「やめてください!」


鋭い声が響いた。


寛治の動きが止まる。


大輝たちも、一斉に声のしたほうを振り返った。


颯太は、かすむ視界の中で顔を上げた。


息を切らしながら、一人の女性が駆け寄ってくる。


「……七瀬、さん?」


優華だった。


彼女は颯太の前に立ち、寛治たちと向き合った。


心臓が激しく鳴っていた。


怖くないわけではない。


声を上げることだって、簡単ではなかった。


それでも、優華はその場から動かなかった。


「何なんだよ、あんた」


寛治が眉をひそめた。


「俺ら、こいつと話してるだけなんだけど?」


「話してるだけなら、どうして颯太くんがこんなに苦しそうなんですか?」


優華の声は震えていた。


それでも、言葉を止めなかった。


「嫌がってるのがわからないんですか?」


「はあ? 別に、そんな大げさな……」


「大げさじゃありません!」


優華は、思わず声を強めた。


一瞬、周囲が静まり返る。


優華自身も驚いていた。


こんなふうに、誰かに強く言い返したことは、ほとんどなかった。


けれど、颯太が苦しんでいる姿を見て、もう黙っていることはできなかった。


「……行こうぜ」


大輝が、面倒そうに言った。


「何か、変な女まで出てきたし」


寛治は不満そうに優華を見たあと、颯太へ視線を戻した。


「柊木。今日はこの辺にしといてやるよ」


その言葉に、優華の表情がこわばった。


まるで、自分たちが悪いことをしているとは思っていないようだった。


「またな」


寛治たちは笑いながら、その場を去っていった。


最後まで、謝罪の言葉はなかった。


彼らの姿が見えなくなるまで、優華はその場に立っていた。


そして、ゆっくりと振り返った。


「……颯太くん?」


颯太は、道端に立ち尽くしていた。


顔色は悪く、呼吸もまだ落ち着いていない。


「大丈夫?」


優華が近づこうとすると、颯太はびくりと肩を震わせた。


その反応に、優華は足を止めた。


「……ごめんね。急に近づいて」


颯太は何も答えなかった。


ただ、うつむいていた。


拳は強く握りしめられ、指先が震えている。


優華は、胸が苦しくなった。


彼は今、どんな気持ちなのだろう。


怖かったのだろうか。


悔しかったのだろうか。


それとも、自分が何もできなかったことを責めているのだろうか。


本当の気持ちは、颯太にしかわからない。


だから、優華は無理に尋ねなかった。


ただ、少し離れた場所に立ち、静かに声をかけた。


「……颯太くん。ここにいるよ」


颯太の肩が、わずかに揺れた。


「今は、何も話さなくていいから」


優華は、ゆっくりと言葉を続けた。


「落ち着くまで、ここにいるからね」


*


どれくらい時間が経ったのだろう。


夕方の風が、二人の間を吹き抜けた。


颯太の呼吸は、少しずつ落ち着いてきていた。


けれど、顔を上げることはできなかった。


見られたくなかった。


こんな自分を。


高校生にもなって、昔の同級生を前に何もできなかった自分を。


「……情けない」


ぽつりと、声が漏れた。


優華は顔を上げた。


「え?」


「……何も、できなかった」


颯太は、うつむいたまま言った。


「もう何年も前のことなのに。あいつらの顔を見ただけで、何も言えなくなった」


声がかすれる。


「逃げればよかったのに。それすら、ちゃんとできなかった」


颯太は、唇をかみしめた。


「……俺、何も変わってないんだな」


その言葉を聞いた瞬間、優華は胸が締めつけられた。


違う。


そうじゃない。


颯太が弱いわけではない。


過去に傷つけられた記憶が、今も彼を苦しめているだけなのだ。


それなのに、彼は自分を責めている。


まるで、傷ついたことまで自分の責任だと思っているかのように。


「……颯太くん」


優華は、静かに声をかけた。


「変わってないなんて、言わないで」


颯太が、ゆっくりと顔を上げた。


目元は赤く、表情には戸惑いが浮かんでいた。


「……何でですか」


「え?」


「俺、何もできなかったんですよ」


颯太の声が、少し強くなった。


「もう終わったことだって、何度も思った。あいつらのことなんて、忘れればいいって。もう関係ないって」


彼は一度、息を吸った。


「なのに、今日も……」


言葉が途切れる。


「……怖かった」


その一言を口にするまでに、颯太は長い時間を必要とした。


優華は、何も言わずに聞いていた。


颯太は視線を落とした。


「……あいつらの声を聞いた瞬間、中学のときに戻ったみたいになった。頭では、もう違うってわかってるのに……身体が、動かなかった」


彼の声は震えていた。


「……こんなの、誰にも知られたくなかった」


その言葉に、優華は息をのんだ。


颯太は、ずっと一人で抱えてきたのだ。


過去の記憶も。


人と関わることへの恐怖も。


何事もなかったように振る舞いながら、心の奥では、あの日の自分を責め続けていたのかもしれない。


優華は、ゆっくりと口を開いた。


「……怖かったんだね」


颯太は答えなかった。


「ずっと、怖かったんだね」


優華の声が、かすかに震えた。


「……うん」


ようやく返ってきた声は、とても小さかった。


優華は、その一言を聞いて、目を伏せた。


あの日。


颯太は、誰にも助けを求められなかった。


そして、自分も彼に声をかけられなかった。


もし、あのとき。


もし、自分が少しでも勇気を出せていたら。


彼は、ここまで一人で苦しまずに済んだのだろうか。


そんな思いが、再び胸を締めつけた。


けれど、今は自分の後悔を語るときではない。


颯太の前で、自分の気持ちを押しつけてはいけない。


優華は、涙をこらえながら微笑んだ。


「……話してくれて、ありがとう」


「……何で、お礼なんか」


「颯太くんが、今の気持ちを話してくれたから」


彼女は、ゆっくりと続けた。


「怖いって思うことも、苦しいって思うことも、悪いことじゃないよ」


颯太は黙っていた。


「無理に平気なふりをしなくてもいいんだよ。すぐに忘れられなくてもいい。今日、うまく言い返せなかったからって、颯太くんが弱い人になるわけじゃないから」


その言葉を聞いて、颯太の表情がわずかに揺れた。


誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。


今までは、忘れればいいと思っていた。


気にしなければいい。


いつまでも引きずるな。


そうやって、自分の気持ちに蓋をしてきた。


けれど、優華は違った。


忘れなくてもいい。


すぐに変われなくてもいい。


そう言ってくれた。


「……七瀬さんは」


颯太は、ゆっくりと口を開いた。


「どうして、そんなことが言えるんですか?」


優華の心臓が、大きく跳ねた。


また、聞かれた。


どうして自分のことを知っているのか。


なぜ、こんなにも自分に関わろうとするのか。


颯太は、優華の目を見つめていた。


「……やっぱり、俺のことを知ってるんですよね?」


優華は、すぐには答えられなかった。


ここで話すべきなのだろうか。


あの日、自分が何もできなかったことを。


颯太が苦しんでいる姿を見ながら、ただ立ち尽くしていたことを。


でも、今それを話したら、彼はどう思うだろう。


自分を恨むかもしれない。


もう会いたくないと言われるかもしれない。


それでも、いつかは話さなければならない。


優華は、静かに息を吸った。


「……うん」


颯太の表情が変わった。


「知ってるよ。颯太くんのこと」


優華は、逃げずに答えた。


「でも、今はまだ、全部は話せない」


「……」


「いつか、ちゃんと話すから。そのときは、私の話を聞いてほしい」


颯太はしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「……わかりました」


優華は驚いたように顔を上げた。


「え?」


「今は、話せないんでしょう?」


「……うん」


「なら、無理には聞きません」


颯太は視線をそらした。


「ただ、いつかは話してください」


優華は、何度もうなずいた。


「うん。約束する」


その約束が、いつか二人を大きく揺さぶることになる。


けれど、今の二人はまだ、そのことを知らなかった。


*


帰り道。


二人は、ゆっくりと歩いていた。


先ほどの出来事があったせいか、会話は少なかった。


優華は、何度も颯太の顔を見そうになった。


本当に大丈夫だろうか。


無理をしていないだろうか。


何か声をかけたほうがいいのだろうか。


けれど、心配しすぎることも、彼を追い詰めてしまうかもしれない。


そう思い、優華は口を閉じた。


一方、颯太も考え込んでいた。


今日の出来事は、想像以上にこたえていた。


寛治たちの顔を見た瞬間、あの頃の恐怖が一気によみがえった。


もう終わったことだと思っていた。


けれど、過去は簡単には消えない。


忘れたつもりでも、何かのきっかけで戻ってくる。


それが、悔しかった。


「……七瀬さん」


颯太が口を開いた。


「うん?」


「今日は、ありがとうございました」


優華は目を見開いた。


「……え?」


「助けてくれたことです」


颯太は、少し気まずそうに視線をそらした。


「一人だったら、たぶん……もっと、ひどいことになってたと思うから」


優華の胸が熱くなった。


「……ううん」


彼女は、ゆっくりと首を振った。


「私は、颯太くんが嫌がってるのを見て、放っておけなかっただけだよ」


それは、本心だった。


けれど、本当は、それだけではない。


ずっと前から、そうしたかった。


あの日にできなかったことを、今度こそしたかった。


「……それでも、ありがとうございます」


颯太は、もう一度言った。


優華は、笑顔を浮かべた。


「どういたしまして」


しばらく歩いたあと、颯太はふと尋ねた。


「……明日も、来るんですか?」


優華は、少し驚いた。


それから、ゆっくりと笑った。


「颯太くんが嫌じゃなければ」


颯太は少しだけ考えた。


そして、小さく答えた。


「……嫌じゃないです」


優華は、思わず立ち止まった。


「本当?」


「何でそんなに驚くんですか」


「だって……」


嬉しかった。


ほんの少しだけでも、颯太が自分を受け入れてくれたことが。


「……ありがとう」


「また、お礼ですか」


「うん。何度でも言いたいから」


颯太は困ったように笑った。


その表情を見て、優華は胸の奥が温かくなるのを感じた。


けれど、同時に、痛みもあった。


自分が五年前に何もしなかったことは、決して消えない。


今、颯太のそばにいるからといって、あの日の自分が許されるわけではない。


それでも。


これから先、彼が一人で苦しむ時間を、少しでも減らせるのなら。


今度こそ、そばにいたい。


そう思った。


*


その夜。


颯太は自分の部屋で、机に向かっていた。


けれど、開いたままの教科書の文字は、ほとんど頭に入ってこなかった。


目を閉じると、今日の出来事がよみがえる。


寛治の笑顔。


大輝の声。


動かなくなった自分の身体。


そして、そこに割って入ってきた優華の姿。


「……七瀬さん」


颯太は、スマートフォンを手に取った。


彼女の連絡先は知らない。


当然だ。


まだ、出会って数日しか経っていないのだから。


それでも、今日のことを思い返すたびに、彼女の言葉が頭に浮かんだ。


――怖いって思うことも、苦しいって思うことも、悪いことじゃないよ。


颯太は、スマートフォンを机に置いた。


「……俺、どうしたいんだろうな」


誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。


今まで、誰かと深く関わらないようにしてきた。


そのほうが楽だったから。


けれど、優華と出会ってから、少しずつ何かが変わっている気がした。


自分の気持ちを、ほんの少しだけ話してみようと思えた。


誰かに助けられることを、完全には拒まなくなった。


それが良いことなのか、まだわからない。


ただ、彼女と話していると、ずっと押し込めてきた気持ちが、少しずつ表に出てくる。


それが怖くもあり、どこか安心するようでもあった。


颯太は窓の外を見た。


夜空には、雲が広がっていた。


「……明日、か」


明日も、優華は来るのだろう。


そう思うと、胸の奥に小さな感情が生まれた。


会いたい、という気持ちに似ていた。


颯太は、その感情に気づかないふりをして、教科書に視線を戻した。


*


同じ頃。


優華もまた、自分の部屋で一人、窓の外を見つめていた。


今日、颯太が苦しんでいる姿を見たとき、胸が張り裂けそうだった。


あの日と同じだった。


自分が何もできず、ただ立ち尽くしていた、あの日。


けれど、今回は違った。


声を上げた。


颯太の前に立った。


彼が苦しんでいるとき、そばにいることができた。


それだけで、過去が変わるわけではない。


それでも、一歩だけ前へ進めた気がした。


「……颯太くん」


優華は、小さくつぶやいた。


今度こそ、逃げない。


今度こそ、見ているだけでは終わらせない。


彼が自分を必要としなくなったとしても。


いつか、自分のことを知って、距離を置くことになったとしても。


それでも、今は。


彼のそばにいたい。


優華は、そっと目を閉じた。


胸の奥に、まだ言えない言葉が残っていた。


――あの日、助けられなくて、ごめんなさい。


その言葉を口にできる日は、まだ来ていなかった。

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