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#3 君の知らない僕の過去

翌日の放課後。


柊木颯太は、校門を出たところで足を止めた。


昨日と同じ場所。


道路の反対側に、七瀬優華が立っていた。


淡いベージュのカーディガンに、落ち着いた色のスカート。肩には小さなバッグをかけている。


彼女は颯太を見つけると、ぱっと表情を明るくした。


「颯太くん!」


「……本当に来たんですね」


「うん。昨日、会いに来ていいって言ってくれたから」


「いや、あれは……」


断ったわけではない。


だからといって、毎日会いに来るとは思っていなかった。


颯太は言いかけた言葉を飲み込み、ため息をついた。


「……まあ、いいですけど」


「よかった」


優華は安心したように笑った。


その笑顔を見ると、颯太はなぜか調子が狂う。


昨日から、ずっとそうだった。


何を尋ねても、彼女は真剣に答えようとする。けれど、肝心なことになると口を閉ざしてしまう。


不思議な女性だ。


それなのに、嫌いにはなれなかった。


「それで、今日はどうするんですか?」


「もしよかったら、一緒に帰らない?」


「……一緒に?」


「うん。颯太くんの帰り道を、少しだけ歩いてみたいなって」


「俺の帰り道を?」


「だめかな?」


優華が不安そうに首を傾げる。


颯太は少し考えた。


見知らぬ女性と一緒に帰る。


普通なら断るところだ。


しかし、昨日も彼女と話したことで、少しだけわかったことがある。


優華は、自分を無理やりどこかへ連れていこうとするわけではない。


こちらが嫌だと言えば、きっと引き下がる。


ならば、少し話すくらいなら問題ないだろう。


「……別に、いいですけど」


「本当?」


「ただし、変なことはしないでくださいよ」


「変なこと?」


「突然、また空間から出てきたりとか」


優華は一瞬きょとんとしたあと、くすっと笑った。


「それは私にもできないよ」


「ならいいです」


「ふふっ。わかった」


二人は並んで歩き始めた。


*


学校から少し離れた商店街は、夕方の買い物客で賑わっていた。


店先から漂う焼きたてのパンの香り。


自転車で通り過ぎる学生たち。


夕飯の買い物をする人々の声。


どこにでもある、ごく普通の町の風景だった。


優華は、その景色を眺めながら歩いていた。


「……どうしたんですか?」


颯太が尋ねる。


「え?」


「さっきから、ずっと周りを見てるから」


「ああ……うん」


優華は、少し照れたように笑った。


「懐かしいなって思って」


「懐かしい?」


「うん。この辺り、昔とあまり変わってないんだね」


言ってから、優華ははっとした。


また、余計なことを口にしてしまった。


颯太が不思議そうにこちらを見ている。


「……昔って、いつのことですか?」


「えっと……」


優華は言葉を探した。


五年後の世界でも、この町は存在している。


けれど、彼女が懐かしく感じているのは、それだけではなかった。


この町を歩いていた頃の颯太のことを、ずっと考えていたからだ。


彼がどんな道を通って帰っていたのか。


学校では、どんな顔をしていたのか。


一人でいるとき、何を考えていたのか。


当時の優華は、遠くから眺めることしかできなかった。


だから今、こうして隣を歩いていることが、信じられないほど不思議だった。


「……昔、よくこの辺りに来てたんだ」


優華は、嘘にならない範囲で答えた。


「そうなんですか」


颯太は、それ以上追及しなかった。


けれど、少し歩いたところで、優華が足を止めた。


「あ、あのお店!」


彼女が指さしたのは、小さな洋菓子店だった。


ガラス越しに、色とりどりのケーキが並んでいる。


「ここ、まだあったんだ……」


「知ってるんですか?」


「うん。昔、ここのケーキを食べたことがあって」


優華は懐かしそうに店を見つめた。


「すごくおいしかったんだよ」


「へえ」


「颯太くんは、甘いもの好き?」


「普通です」


「普通って?」


「好きでも嫌いでもないです」


「じゃあ、好きってことだね」


「どういう理屈ですか」


優華が楽しそうに笑う。


颯太は呆れたように肩をすくめた。


「……七瀬さんって、意外と強引ですよね」


「そうかな?」


「そうですよ」


「じゃあ、これから気をつけるね」


そう言いながら、優華はまだ笑っていた。


颯太は、その横顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


彼女と話していると、いつもの自分とは違う反応をしてしまう。


それが不思議だった。


*


商店街を抜けたところに、小さな公園があった。


二人はそこのベンチに腰を下ろした。


夕日は、建物の向こうへ沈みかけていた。


「……そういえば」


颯太が口を開いた。


「七瀬さんは、今、何をしてる人なんですか?」


「私?」


「はい。昨日からずっと気になってたんですけど」


優華は少し考えてから答えた。


「大学に通ってるよ」


「大学生なんですね」


「うん」


「じゃあ、二十歳くらいですか?」


「二十一歳」


颯太は、なるほどとうなずいた。


年齢を聞いて、少し納得した。


落ち着いた話し方や、服装からして、高校生ではないだろうと思っていた。


「……五年後から来たって話が本当なら、今の俺より五歳上ってことですよね」


「そうだね」


「やっぱり、まだ信じられないですけど」


「うん。無理に信じなくてもいいよ」


優華は、穏やかな声で言った。


「いつか、信じてもらえるようにするから」


その言葉には、不思議な説得力があった。


颯太は、少しだけ視線を落とした。


「……七瀬さんは、大学で何を勉強してるんですか?」


「いろいろだよ。将来のことも考えながら、勉強してる」


「将来……」


颯太は、その言葉を小さく繰り返した。


自分は、将来について深く考えたことがあっただろうか。


進学するか、就職するか。


どんな仕事をしたいか。


どんな大人になりたいか。


周りの生徒たちが当たり前のように話していることが、自分にはどこか遠いものに感じられていた。


未来に期待することが、怖かったのかもしれない。


期待すれば、失ったときに傷つく。


何かを望めば、それが叶わなかったときに苦しくなる。


だから、最初から何も望まない。


そうすれば、少なくとも失望することはない。


「……颯太くんは?」


優華の声に、颯太は顔を上げた。


「何がですか?」


「将来。何かやりたいこと、ある?」


「……別に」


「そっか」


優華は、それ以上尋ねなかった。


颯太は少しだけ驚いた。


普通なら、もっと聞かれると思ったからだ。


「……聞かないんですか?」


「え?」


「将来のこと。何かやりたいことはないのか、とか」


優華は、少し考えた。


「話したくないなら、無理に聞かないよ」


「……」


「でも、もし話したくなったら、聞かせてほしいな」


その言葉を聞いて、颯太は視線をそらした。


不思議だった。


彼女は、自分のことを知っているような口ぶりをする。


なのに、無理に踏み込んでこない。


まるで、自分が何を嫌がるのか、何を恐れているのか、わかっているかのようだった。


「……七瀬さん」


「うん?」


「俺のこと、どこまで知ってるんですか?」


優華の表情が、わずかに揺れた。


また、その質問だ。


彼女は、すぐに答えられなかった。


颯太は、静かに続けた。


「俺の名前も、学校も、知ってた。昨日、俺を助けたいって言った。今日も、まるで前から俺のことを知ってるみたいに話してる」


颯太は優華を見つめた。


「……俺、あなたに何かしたんですか?」


「え……?」


「何か、あなたに迷惑をかけたとか。俺が知らないところで、何かあったとか」


優華は、首を横に振った。


「違うよ」


「じゃあ、どうして……」


「颯太くんは、何もしてない」


優華の声は、少し震えていた。


「悪いのは……私だから」


「……え?」


優華は、はっとして口元を押さえた。


言うつもりはなかった。


まだ、話すべきではないと思っていた。


けれど、颯太の問いかけに、思わず本音がこぼれてしまった。


「……ごめん。今のは忘れて」


「いや、忘れろって言われても」


「お願い」


優華は、困ったように微笑んだ。


「もう少しだけ、時間をちょうだい」


颯太は、彼女の顔を見つめた。


その表情には、昨日と同じ、あの悲しげな色が浮かんでいた。


何かを後悔している人の顔。


自分には、そう見えた。


「……わかりました」


颯太は、静かに答えた。


「でも、いつかはちゃんと説明してください」


優華は、目を見開いた。


そして、ゆっくりとうなずいた。


「うん。約束する」


その言葉を聞いて、颯太は少しだけ安心した。


*


その頃。


星ヶ丘学園高等部の教室では、健たちが帰り支度をしていた。


「なあ、今日も颯太、先に帰ったな」


健が鞄を肩にかける。


「最近、何か用事が多いよね」


祥太郎が言った。


「まあ、いつも一人で帰ってるし、別にいいんじゃないか?」


奏介はそう答えたが、少しだけ考えるような顔をしていた。


「……でも、昨日も今日も、何か様子が違う気はするな」


「だろ?」


健が待ってましたとばかりに身を乗り出す。


「絶対、何かあるって!」


「お前は、そういう話が好きなだけだろ」


「違うって!」


祥太郎が笑った。


「でも、颯太が自分から話してくれるなら、聞いてみたいよね」


「そうだな」


奏介は窓の外を見た。


校門の向こうを歩く生徒たち。


その中に、颯太の姿はなかった。


「……あいつが話したくなるまで、待つか」


三人は、それぞれ鞄を持ち、教室を出ていった。


彼らはまだ知らない。


颯太の前に、時間を越えてやってきた女性が現れたことを。


そして、その女性が颯太の過去に深く関わっていることを。


*


日が暮れ始めた頃。


公園を出た二人は、住宅街へ続く道を歩いていた。


「今日は、ありがとう」


優華が言った。


「何がですか?」


「一緒に歩いてくれて」


「……別に、たいしたことじゃないですよ」


「それでも、嬉しかったから」


優華は、少しだけ頬を緩めた。


颯太は、返事に困った。


こういうとき、何と答えればいいのかわからない。


「……また明日も来るんですか?」


気づけば、そんなことを尋ねていた。


優華は驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに笑った。


「来てもいいの?」


「いや、俺は別に……」


「じゃあ、行くね」


「……話を聞いてました?」


「聞いてたよ」


優華は楽しそうに笑った。


「颯太くんが、はっきり嫌だって言わなかったから」


「……本当に強引ですね」


「ごめんね」


「だから、謝らなくていいですって」


二人の間に、小さな笑いが生まれた。


その瞬間、颯太はふと思った。


この人と話していると、いつもの自分よりも、少しだけ自然に言葉が出てくる。


気を遣いすぎることもなく、無理に笑うこともない。


それが、少しだけ心地よかった。


もちろん、まだ彼女を信じたわけではない。


五年後から来たという話も、空間の歪みも、理解できないことばかりだ。


それでも。


もう一度会ってもいい。


そう思っている自分がいた。


「……じゃあ、また」


颯太が言った。


優華は、少し驚いたあと、ゆっくりと笑った。


「うん。またね、颯太くん」


二人は、それぞれの帰り道へと歩き出した。


優華は何度も振り返りそうになったが、今度はこらえた。


焦ってはいけない。


今度こそ、颯太自身の気持ちを大切にしたい。


彼が自分の力で前に進めるように。


そして、いつか自分のことを知ったとき、彼が自分を責めずに済むように。


優華は胸の中で、静かに誓った。


――今度こそ、逃げない。


――今度こそ、あなたのそばにいる。


その決意の奥には、まだ誰にも話せない、五年前の後悔が眠っていた。


そして颯太もまた、帰り道で考えていた。


七瀬優華。


五年後から来たという、不思議な女性。


彼女は、自分に何かを伝えようとしている。


けれど、それを口にすることができない。


「……いったい、何なんだよ」


小さくつぶやきながら、颯太は空を見上げた。


夕暮れの空には、薄い雲が広がっていた。


その向こうに、昨日の歪みがあったような気がした。


もちろん、何も見えない。


それでも、颯太の心には、一つの疑問が残っていた。


七瀬優華は、なぜ自分に会いに来たのか。


その答えを知る日は、まだ少し先だった。

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