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#2 君は何を知っているの?

翌朝。


柊木颯太は、いつもより少し早く目を覚ました。


理由はわかっている。


昨日、公園で起きた出来事が、頭から離れなかったからだ。


何もない空間が歪み、そこから一人の女性が現れた。


七瀬優華と名乗った彼女は、自分の名前を知っていた。


さらに、五年後の世界から来たと言った。


普通に考えれば、信じられる話ではない。


「……夢だったらよかったのに」


ベッドの上で天井を見つめながら、颯太はつぶやいた。


しかし、昨日の出来事はあまりにも鮮明だった。


優華の声も、表情も、彼女が涙を浮かべていたことも、はっきりと覚えている。


特に気になっているのは、彼女が最後に口にした言葉だった。


――今度は、ちゃんと話しかけるから。


まるで、以前にも自分に話しかけようとしたことがあるような言い方だった。


「……いや、考えすぎか」


颯太はベッドから起き上がった。


これ以上考えても答えは出ない。


とりあえず学校へ行こう。


そう決めて身支度を始めたものの、玄関で靴を履いているときも、頭の片隅には彼女のことが残っていた。


*


「おはよー、颯太!」


学校に着くと、昇降口で上原健に声をかけられた。


「おはよう」


「なんだよ、朝から暗い顔して」


「いつもどおりだろ」


「いや、いつもよりひどいぞ。昨日、夜更かしでもした?」


「してない」


「じゃあ、何かあった?」


健が顔をのぞき込んでくる。


颯太は一瞬だけ言葉に詰まった。


昨日の出来事を話すべきだろうか。


自分でも信じられない話を、友人に話したところでどうなる。


おそらく、冗談だと思われる。


あるいは、疲れているのではないかと心配されるかもしれない。


どちらにしても、説明するのは面倒だった。


「別に、何もない」


「ふーん?」


健は疑わしそうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


そこへ、清水祥太郎と楠木奏介がやってきた。


「おはよう。何の話?」


祥太郎が尋ねる。


「颯太が何か隠してるっぽいって話」


「お前、朝から何言ってんだよ」


颯太が呆れると、奏介が小さく笑った。


「まあ、颯太が自分から話す気になったら聞けばいいだろ」


「奏介は大人だねえ」


「健が騒がしいだけだ」


「ひどくない?」


いつものやり取り。


いつもの朝。


そのはずだった。


けれど、教室に入った颯太は、思わず足を止めた。


窓際の席で、担任の高田流星と話していた女子生徒が、こちらを振り返ったからだ。


遠野真紀。


クラス委員長を務める、真面目で面倒見のいい生徒だった。


真紀は颯太たちに気づくと、手元のプリントをまとめた。


「おはよう。ちょうどよかった。高田先生が、昨日配ったプリントを確認したいって」


「おはようございます。プリントなら持ってますよ」


颯太が鞄から取り出す。


真紀はそれを受け取って、先生に渡した。


「ありがとう、柊木」


「いえ」


それだけの会話だった。


颯太が自分の席へ向かおうとしたとき、高田がふと思い出したように声をかけた。


「そういえば柊木。最近、学校の周辺で妙な噂があるらしいぞ」


「噂、ですか?」


「ああ。公園や路地で、空間が歪んで見えたって話だ。まあ、見間違いか何かだろうが」


颯太の足が止まった。


健が首をかしげる。


「空間が歪む? 何それ。ゲームのバグみたいな話?」


「さあな。先生も詳しくは知らん。変な場所に近づいて騒ぎを起こすなよ、という話だ」


「はーい」


健は軽い調子で返事をした。


祥太郎も奏介も、特に気にしている様子はない。


しかし、颯太だけは違った。


昨日、自分が見た光景。


あれは、自分の目の錯覚ではなかったのかもしれない。


「柊木?」


真紀が不思議そうに顔をのぞき込んだ。


「どうかした?」


「……いや、何でもない」


「そう? なんだか、びっくりした顔してたから」


「気のせいだろ」


颯太は自分の席に座った。


頭の中に、また優華の顔が浮かんでいた。


彼女は、本当に五年後から来たのだろうか。


そして、あの歪みは何だったのだろう。


考えれば考えるほど、わからないことが増えていく。


*


昼休み。


颯太は一人で校舎裏の自動販売機へ向かっていた。


教室では健たちが昼食を食べている。


誘われたものの、少し考えたいことがあったため、飲み物を買うついでに外へ出てきたのだ。


財布を取り出し、ボタンを押す。


缶が落ちる音がした。


それを取り出そうとした、そのとき。


「颯太くん」


背後から、聞き覚えのある声がした。


颯太は動きを止めた。


ゆっくりと振り返る。


そこに立っていたのは――


「……七瀬さん?」


昨日の女性だった。


七瀬優華。


淡い色のカーディガンを羽織り、肩に小さなバッグをかけている。


昨日と同じ、どこか不安そうな表情。


けれど、颯太を見つけると、少しだけ安心したように微笑んだ。


「こんにちは」


「……こんにちは、じゃないですよ」


颯太は思わず頭を抱えた。


「何でここにいるんですか?」


「会いに来たの」


「いや、そうじゃなくて。ここ、学校ですよ?」


「うん。知ってる」


「知ってるなら、なおさら何で……」


言いかけて、颯太は気づいた。


彼女は制服を着ていない。


大学生か、社会人か。


少なくとも、この学校の生徒ではないだろう。


それなのに、校舎の中にいる。


「……どうやって入ったんですか?」


「普通に、正門から」


「いや、そういうことじゃなくて」


颯太は周囲を見回した。


幸い、近くに生徒はいない。


しかし、誰かに見られれば、説明が面倒になる。


「とにかく、ここにいたらまずいです。先生に見つかったら――」


「じゃあ、少しだけ外で話せる?」


「……」


優華は、昨日と同じようにまっすぐ颯太を見つめていた。


その瞳には、強い意志が感じられる。


どうやら、簡単に帰ってくれそうにはない。


颯太は深いため息をついた。


「……わかりました。少しだけですよ」


優華の顔がぱっと明るくなった。


「ありがとう!」


「だから、お礼を言われるようなことじゃ……」


言いかけて、颯太は口を閉じた。


このやり取りも、昨日と同じだった。


それが妙に気になった。


*


学校の敷地から少し離れた、静かな歩道。


二人は並んで歩いていた。


「……それで、何を話したいんですか?」


颯太が尋ねると、優華は少し考えた。


「まず、昨日のことを謝りたかったの」


「昨日?」


「急に現れて、びっくりさせちゃったでしょ?」


「それは……まあ」


「ごめんなさい」


優華は立ち止まり、頭を下げた。


颯太は慌てて手を振った。


「いや、別に謝らなくても……。そもそも、どうやって現れたのか、まだ何もわかってないんですけど」


「うん。私にも、わからないことは多いよ」


「五年後から来たっていうのは?」


「本当」


迷いのない返事だった。


颯太は眉間を押さえた。


「……どうしてそんなに自信満々なんですか」


「だって、本当のことだから」


「証拠は?」


「……今は、ない」


「ですよね」


颯太は頭が痛くなってきた。


しかし、優華はふざけているようには見えなかった。


むしろ、何かを必死に伝えようとしているようだった。


「七瀬さん」


「うん?」


「どうして、俺なんですか?」


その質問に、優華の表情が変わった。


昨日も聞いたことだった。


けれど、今度は少しだけ踏み込んでみることにした。


「俺の名前を知ってた。俺に会いたかったって言った。五年後から来た理由も、俺を助けたいからだって」


颯太は彼女を見つめた。


「俺たち、本当に会ったことがあるんですか?」


優華は唇を結んだ。


言いたいことは、たくさんあった。


中学時代のこと。


雨の日の校舎裏。


自分が何もできなかったこと。


そして、その後悔を抱えたまま五年間を過ごしてきたこと。


けれど、今ここで全部を話してしまっていいのだろうか。


颯太は、過去のことを簡単には話さない。


それどころか、誰かに踏み込まれること自体を嫌がっているように見える。


そんな彼に、突然過去の傷を思い出させてしまったら。


せっかく会えたのに、もう二度と話してくれなくなるかもしれない。


「……会ったことは、あるよ」


優華は、ゆっくりと答えた。


「でも、今はまだ、全部は話せない」


「どうして?」


「あなたに、ちゃんと向き合いたいから」


「……意味がわからないんですけど」


「そうだよね。ごめんね」


また謝られた。


颯太は、少しだけ苛立ちを覚えた。


「七瀬さんって、何でも謝るんですね」


優華が顔を上げた。


「え?」


「昨日から、ずっと謝ってる。何か聞けば、今は話せないって言うし。俺に会いに来たって言うわりには、何も説明してくれない」


自分でも、思ったより強い言い方になった。


けれど、ずっと気になっていたことだった。


「……俺は、あなたのことを何も知らないんです。なのに、あなたは俺のことを知ってるみたいな顔をする」


颯太は一度、言葉を切った。


「正直、怖いです」


優華は何も言わなかった。


その言葉が、彼女の胸に深く刺さったのがわかった。


当然だ。


何も知らない人間からすれば、自分は怪しい存在でしかない。


それでも優華は、逃げなかった。


「……うん。そうだよね」


彼女は小さくうなずいた。


「颯太くんがそう思うのは、当たり前だと思う」


「……」


「私が、ちゃんと説明できていないから」


優華は、ゆっくりと息を吸った。


「でも、一つだけ約束する」


「何ですか?」


「あなたが嫌がることを、無理に聞き出したりしない。話したくないことを、無理に話させたりもしない」


彼女の声は、静かだった。


「私は、あなたを助けたい。でも、それは私が勝手に決めていいことじゃないんだよね」


颯太は返事をしなかった。


不思議な人だと思った。


突然現れて、勝手に自分を助けたいと言い出した。


それなのに、こちらが拒絶すると、無理に踏み込んでこない。


何を考えているのか、ますますわからない。


「……七瀬さん」


「うん」


「俺は、助けてもらうような人間じゃないです」


口にした瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。


それは、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だった。


誰かに期待しない。


誰かに頼らない。


自分のことは、自分で何とかする。


そのほうが、余計な傷を負わずに済む。


優華は、すぐには答えなかった。


やがて、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……そう思ってるんだね」


「そうです」


「でも、私はそうは思わないよ」


颯太は顔を上げた。


「どうして?」


「だって、誰かに助けてもらうことと、自分に価値があるかどうかは、別の話だから」


その言葉に、颯太は黙り込んだ。


優華自身も、完璧な答えを持っているわけではなかった。


ただ、あの日の颯太を見ていた自分だからこそ、伝えたいことがあった。


一人で耐え続ける必要なんてなかった。


誰かに助けを求めてもよかった。


そう言ってあげたかった。


あの日、言えなかった言葉を。


「……そろそろ、戻ります」


颯太は視線をそらした。


「午後の授業があるので」


「うん。引き止めてごめんね」


「……また謝ってる」


思わず口にすると、優華はきょとんとした。


そして、少しだけ笑った。


「本当だね」


その笑顔を見て、颯太はなぜか目をそらした。


ほんの一瞬。


彼女の笑顔が、ひどく懐かしいものに感じられたからだ。


もちろん、覚えているはずがない。


初めて会った相手なのだから。


それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。


「じゃあ、またね。颯太くん」


優華が手を振る。


颯太は少し迷ったあと、小さくうなずいた。


「……また」


自分でも意外だった。


もう会いたくないと、昨日は思っていたはずなのに。


*


その日の放課後。


颯太が教室に戻ると、健たちが机を囲んでいた。


「おっ、颯太。どこ行ってたんだよ?」


健が尋ねる。


「ちょっと外に」


「昼休み、けっこう長かったよな。購買?」


「違う」


「じゃあ、自販機?」


「……まあ、そんなところ」


曖昧に答えた颯太に、祥太郎が首をかしげた。


「何かあった?」


「何もないって」


「またそれかよ」


健が笑った。


奏介は、颯太の顔をじっと見ていた。


「……颯太」


「何だよ」


「誰かと会ってた?」


一瞬、颯太の動きが止まった。


「……何で?」


「いや。何となく」


奏介は肩をすくめた。


「昼休みから、ちょっと様子が違う気がしたから」


颯太は、返事に困った。


まさか、五年後から来た女性と会っていたなんて言えるわけがない。


そもそも、自分でも状況を理解できていないのだ。


「……気のせいだろ」


そう答えると、奏介はそれ以上追及しなかった。


「そっか」


健が鞄を持ち上げる。


「まあ、いいや。帰ろうぜ。腹減った」


「昼飯食っただろ」


「放課後は別腹」


「何の理屈だよ」


祥太郎が笑う。


颯太も、わずかに口元を緩めた。


いつもの日常。


変わらない友人たち。


けれど、その帰り道。


颯太は、ふと足を止めた。


校門の向こう。


道路の反対側に、一人の女性が立っていた。


淡い色のカーディガン。


肩にかけた小さなバッグ。


こちらを見つめる、見覚えのある瞳。


七瀬優華だった。


彼女は颯太に気づくと、少しだけ手を振った。


颯太は思わず立ち止まった。


「……颯太? どうした?」


健が振り返る。


「いや……」


颯太は、優華のほうを見た。


健たちが彼女を知っているはずはない。


彼女の名前すら、今は知らないのだから。


「……先に帰っててくれないか」


「え? 何で?」


「ちょっと用事」


健が目を丸くした。


「お前から用事って、珍しいな」


「うるさい。いいから」


「はいはい」


健たちは不思議そうにしながらも、先に歩き始めた。


祥太郎が一度だけ振り返ったが、何も言わなかった。


三人の姿が遠ざかっていく。


颯太は校門の外へ出た。


優華が、少し不安そうに尋ねる。


「……お友達、大丈夫だった?」


「別に。用事があるって言っただけです」


「そっか。よかった」


「……それで、今日は何ですか?」


優華は少し考えてから、答えた。


「明日も、会いに来ていい?」


颯太は思わず目を見開いた。


「……明日も?」


「うん。少しずつでいいから、颯太くんと話したい」


「……何で、そこまで」


尋ねかけて、颯太は言葉を止めた。


優華の顔を見たからだ。


彼女は、ただ自分と話したいと言っている。


何かを要求するわけでもなく、見返りを求めるわけでもない。


ただ、会いたいと。


それだけのことが、どうしてこんなにも不思議に感じられるのだろう。


颯太は小さく息を吐いた。


「……好きにしてください」


昨日と同じ答えだった。


けれど、今日はほんの少しだけ、声が柔らかかった。


優華は、嬉しそうに笑った。


「ありがとう、颯太くん」


その笑顔を見て、颯太はまた、胸の奥に小さな違和感を覚えた。


彼女は、なぜこんなにも自分に会いたがるのだろう。


五年後の世界で、いったい何があったのだろう。


そして――


彼女が本当に助けたいものは、何なのだろう。


その答えを、颯太はまだ知らない。


ただ一つ、確かなことがあった。


昨日までの自分なら、見知らぬ女性と二日続けて会うことなど、絶対にしなかった。


それなのに今、自分は彼女との明日の約束を、拒まなかった。


その小さな変化が何を意味するのか。


颯太には、まだわからなかった。

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