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#1 歪みの向こうから来た少女

六月。


午後の空は、雲の隙間から柔らかな日差しを落としていた。


私立星ヶ丘学園高等部。


昼休みが終わりに近づいた校舎の中では、生徒たちが午後の授業に向けて慌ただしく動いていた。


その中に、一人の少年がいた。


柊木颯太。


高校二年生。


彼は教室の窓際の席で、頬杖をつきながら外を眺めていた。


校庭では、運動部の生徒たちが練習を始めている。


ボールを追いかける声。グラウンドを走る足音。友人同士で笑い合う声。


どれも、颯太にとっては少し遠い世界の出来事だった。


「おーい、颯太」


後ろから声がかかった。


振り返ると、上原健が立っていた。


「何ぼーっとしてんだよ。午後の授業、始まるぞ」


「わかってる」


「わかってるやつの顔じゃねえだろ、それ」


健は呆れたように笑った。


その隣から、清水祥太郎も顔を出す。


「颯太って、休み時間になるとだいたい窓の外見てるよな」


「別に、何も見てない」


「じゃあ、何考えてんの?」


「何も」


「絶対うそじゃん」


祥太郎が笑う。


颯太は小さく息を吐いた。


「お前ら、暇なのか?」


「お前を構うのに忙しい」


「頼んでない」


「冷たいなあ」


健が大げさに胸を押さえる。


そのやり取りに、近くの席から楠木奏介が口を挟んだ。


「まあまあ。颯太がこういうやつなのは、今に始まったことじゃないだろ」


「それはそうだけどさ」


「お前ら、そろそろ席に戻れよ。先生来るぞ」


奏介の言葉に、健と祥太郎はようやく自分たちの席へ戻っていった。


颯太も視線を窓の外から外す。


三人は、颯太にとって数少ない気の置けない友人だった。


彼らは、颯太が中学時代に何を経験したのか、そのすべてを知っているわけではない。


颯太自身が、あまり過去を話したがらなかったからだ。


それでも三人は、必要以上に踏み込まず、かといって完全に放っておくこともしなかった。


その距離感が、颯太にはありがたかった。


人と深く関わることには、今でも抵抗がある。


誰かを信じて、期待して、その結果として傷つく。


そんなことを繰り返すくらいなら、最初から誰にも期待しないほうがいい。


いつしか颯太は、そう考えるようになっていた。


けれど、心のどこかではわかっていた。


このままでは、何も変わらないことも。


「……」


颯太は、もう一度窓の外を見た。


午後の空は、穏やかだった。


少なくとも、その瞬間までは。


*


放課後。


颯太は、いつもの帰り道を歩いていた。


健と祥太郎、奏介はそれぞれ用事があるらしく、今日は一人だった。


住宅街へ続く道から少し外れた場所に、小さな公園がある。


颯太は、なんとなく足を止めた。


公園の向こうには、古い街路樹が並んでいる。


風が吹くたびに葉が揺れ、木漏れ日が地面に落ちていた。


静かな場所だった。


誰にも話しかけられず、誰かに気を遣う必要もない。


颯太は、公園の脇を通り過ぎようとした。


そのとき。


「……ん?」


視界の端で、何かが揺れた。


最初は、空気の揺らぎかと思った。


しかし、足を止めて目を凝らすと、それが単なる見間違いではないことに気づいた。


公園の奥。


街路樹と街路樹の間の空間が、奇妙に歪んでいた。


まるで透明なガラスが熱で溶けているように、景色が波打っている。


地面も、木々も、その向こうにある建物も、歪みの周囲だけ輪郭が曖昧になっていた。


「……何だ、あれ」


颯太は思わず立ち止まった。


見たことのない現象だった。


風のせいではない。


陽炎とも違う。


そもそも、こんな場所にあんなものが現れる理由がわからない。


スマートフォンを取り出そうとした、その瞬間。


歪みが、大きく揺れた。


空気が震える。


耳の奥に、低い音が響いた。


そして――


その向こう側から、人影が現れた。


「……っ!」


颯太は息をのんだ。


人影は、歪みの中からよろめくように出てきた。


二十歳前後に見える女性だった。


淡い色のブラウスに、落ち着いたスカート。肩まで伸びた髪が乱れ、彼女は何かに耐えるように片手を地面についた。


次の瞬間、歪みが縮んだ。


空間の揺らぎは一瞬で小さくなり、やがて何事もなかったかのように消えてしまった。


公園には、いつもの風景だけが残された。


女性は、しばらく動かなかった。


颯太も、声を出せなかった。


目の前で起きたことを理解できない。


人が、何もない空間から出てきた。


そんなことが、現実に起こるはずがない。


「……大丈夫ですか?」


ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。


女性の肩が、小さく跳ねた。


彼女はゆっくりと顔を上げる。


そして、颯太を見た。


その瞬間。


女性の表情が変わった。


驚き。


戸惑い。


そして、長い間押し込めていた感情が、こらえきれずにあふれ出したような表情。


彼女は、まるで目の前の光景が信じられないとでもいうように、颯太を見つめていた。


「……颯太、くん?」


「……え?」


名前を呼ばれた。


初対面のはずなのに。


颯太は警戒するように一歩下がった。


「どうして、俺の名前を……?」


女性は答えなかった。


代わりに、震える唇をゆっくりと開いた。


「……会えた」


「は?」


「本当に……会えたんだ……」


その声は、かすかに震えていた。


彼女の目には、涙が浮かんでいた。


颯太は困惑した。


知らない女性が、突然目の前に現れた。


しかも、自分の名前を知っている。


まるで、ずっと前から自分を知っていたかのような顔をしている。


「ちょっと待ってください。あなた、誰ですか?」


颯太の言葉に、女性ははっとしたように表情を引き締めた。


彼女は袖で目元をぬぐい、ゆっくりと立ち上がった。


「ごめんなさい。急にこんなことになって……」


「いや、そういう問題じゃなくて」


颯太は、先ほどまで歪みがあった場所を振り返った。


何もない。


本当に、何もなかった。


「今、あそこから出てきましたよね?」


「……うん」


「どうやって?」


「それは……」


女性は言葉を詰まらせた。


答えられないのか、それとも答えたくないのか。


颯太には判断できなかった。


「警察、呼んだほうがいいですか?」


「待って!」


女性は思わず声を上げた。


その勢いに、颯太は目を見開く。


彼女はすぐに声を落とした。


「ごめん。でも、お願い。少しだけ話を聞いてほしいの」


「……あなたのこと、何も知らないんですけど」


「そうだよね」


女性は、寂しそうに笑った。


「私も、どう説明したらいいのか……まだ、うまく整理できていないから」


そう言いながら、彼女は颯太を見つめた。


その目には、単なる初対面の相手に向けるものとは違う、複雑な感情が宿っていた。


懐かしさ。


申し訳なさ。


そして、何かを決意した人の強い意志。


颯太は、その視線に落ち着かないものを感じた。


「……名前だけでも教えてください」


しばらくの沈黙のあと、颯太はそう言った。


女性は、小さくうなずいた。


「七瀬優華」


「七瀬……優華さん?」


「うん。七瀬優華です」


彼女は一度だけ目を伏せ、それから、まっすぐに颯太を見た。


「あなたに、どうしても会いたかったの」


その言葉が、公園の静けさの中に落ちた。


颯太は返事ができなかった。


どうして自分なのか。


なぜ彼女は自分の名前を知っているのか。


そして、どうしてあんな場所から現れたのか。


疑問は尽きなかった。


「……俺と、どこかで会ったことがあるんですか?」


優華の表情が、一瞬だけ曇った。


「あるよ」


「いつ?」


「……ずっと前」


颯太は眉をひそめた。


「俺、あなたのこと覚えてないですけど」


「うん。そうだと思う」


優華は、悲しげに微笑んだ。


「覚えていなくても、仕方ないよ」


その言葉の意味がわからなかった。


けれど、これ以上問い詰めるのもためらわれた。


彼女は、嘘をついているようには見えなかった。


少なくとも、颯太にはそう感じられた。


*


二人は、公園のベンチに腰を下ろした。


颯太は、優華と少し距離を空けて座っていた。


彼女が何者なのかは、まだわからない。


それでも、あの奇妙な現象を目の当たりにした以上、簡単に立ち去る気にもなれなかった。


「……七瀬さん」


「優華でいいよ」


「いや、初対面ですし」


「そっか……そうだよね」


優華は、少しだけ残念そうに笑った。


その反応に、颯太はますます困惑した。


まるで、自分が距離を置くことを、彼女が予想していたかのようだった。


「じゃあ、七瀬さん。ひとつ聞いていいですか」


「うん」


「あそこから出てきたのは、何なんですか?」


優華は、公園の奥に目を向けた。


「……空間の歪み、だと思う」


「歪み?」


「うん。詳しいことはわからない。でも、私がいた場所と、ここをつないでいたもの……なのかもしれない」


「いた場所って、どこですか?」


優華は、すぐには答えなかった。


言っても信じてもらえないだろう。


それでも、ここで何もかも隠してしまえば、颯太との距離は縮まらない。


「……五年後の世界」


「……は?」


颯太は、思わず彼女の顔を見た。


「今から五年後。私は、そこから来たの」


沈黙。


数秒が過ぎた。


颯太はゆっくりと立ち上がった。


「……すみません。やっぱり警察に」


「待って! 本当なの!」


「いや、そんなこと言われても……」


「信じられないのはわかってる。でも、嘘じゃない」


優華の声は真剣だった。


彼女自身も、何が起きたのかすべてを理解しているわけではない。


ただ、自分が五年後の世界から、五年前の時間へと移動してきたことだけは確かだった。


そして、この時代に来た理由も。


「私、あなたを助けたいの」


颯太は動きを止めた。


「……助ける?」


「うん」


「俺、別に困ってませんけど」


口から出たのは、いつもの言葉だった。


誰かに心配されることに慣れていない。


ましてや、見知らぬ女性から突然助けたいと言われる理由など、思い当たらなかった。


「あなたには、関係ないことです」


少し冷たい声になった。


優華は、何も言わなかった。


それから、静かにうなずいた。


「……そうだよね。ごめん」


その素直な反応に、颯太はかえって戸惑った。


普通なら、言い返してくるかもしれない。


怒るかもしれない。


それなのに、彼女はただ謝った。


まるで、自分がそう言われても仕方がないと、最初からわかっていたかのように。


優華は立ち上がり、スカートについた埃を払った。


「今日は、いきなりごめんね。混乱させちゃったよね」


「……それは、まあ」


「でも、また会いに来てもいい?」


颯太は答えに迷った。


本音を言えば、もう関わりたくなかった。


五年後から来たという話も、空間の歪みも、何もかもが理解の範囲を超えている。


これ以上、面倒なことに巻き込まれたくない。


そう思う一方で、気になることもあった。


彼女はなぜ、自分の名前を知っていたのか。


なぜ、自分に会いたかったのか。


そして、あのとき彼女が見せた表情は何だったのか。


「……好きにしてください」


結局、そんな曖昧な返事になった。


優華は少し驚き、それから、ほっとしたように微笑んだ。


「ありがとう」


「お礼を言われるようなことじゃないですけど」


「それでも、ありがとう」


彼女はもう一度、颯太を見つめた。


その瞳には、今度こそ何かを変えようという決意があった。


「颯太くん」


「……はい?」


「今度は、ちゃんと話しかけるから」


「……?」


意味がわからなかった。


けれど、聞き返す前に、優華は歩き始めていた。


颯太は、彼女の背中を見送った。


夕方の風が、公園の木々を揺らす。


さっきまで歪みがあった場所には、何の痕跡も残っていない。


まるで、すべてが夢だったかのようだった。


「……何だったんだ、いったい」


颯太は小さくつぶやいた。


しかし、胸の奥には、奇妙な感覚が残っていた。


初めて会ったはずの女性。


それなのに、彼女の涙を見た瞬間、なぜか胸が締めつけられた。


理由はわからない。


ただ、いつもと同じ帰り道が、少しだけ違って見えた。


その日の夕方。


柊木颯太の日常は、静かに変わり始めていた。


そして、七瀬優華もまた、五年前の世界で新しい一歩を踏み出していた。


彼女が抱えてきた後悔は、まだ消えていない。


颯太も、彼女の本当の目的を知らない。


二人の出会いが何を変えるのか。


それは、まだ誰にもわからなかった。

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