プロローグ
雨が降っていた。
放課後の校舎裏。灰色の空から落ちる雨粒が、地面にできた水たまりを小さく揺らしている。
その片隅で、一人の少年がうずくまっていた。
「おい、聞いてんのかよ」
少年を見下ろしていたのは、半田寛治だった。その隣には五木大輝と、数人の生徒がいる。
「お前ってさ、ほんとつまんねえよな」
「……」
少年――柊木颯太は、何も答えなかった。
答えたところで、状況がよくなるわけではない。
反論すれば、面白がられる。黙っていれば、さらに調子に乗られる。何をしても、彼らの気分次第で結果は変わった。
だから颯太は、ただ耐えていた。
早く終わってほしい。
それだけを考えていた。
少し離れた校舎の陰に、一人の少女が立っていた。
七瀬優華。
颯太と同じ中学校に通う少女だった。
優華は、彼がいじめられていることを知っていた。
何度も見かけた。教室でからかわれているところも、廊下でわざとぶつかられているところも、誰もいない場所で一人になっているところも。
本当は、何かできたのかもしれない。
先生に知らせることだってできた。誰かに相談することだってできた。颯太に声をかけるだけでも、彼の孤独を少しは和らげられたかもしれない。
それなのに。
「……」
優華は動けなかった。
怖かったのだ。
自分が口を出したら、次は自分が標的になるかもしれない。周りから変な目で見られるかもしれない。今ある自分の居場所まで失ってしまうかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
そして、何もしなかった。
「もう行こうぜ。つまんねえし」
寛治たちは笑いながら、その場を去っていった。
雨の中に残された颯太は、ゆっくりと立ち上がる。
制服についた泥を払い、誰にも見られていないことを確かめるように周囲を見回した。
そのとき、優華と目が合いそうになった。
優華は慌てて顔を引っ込めた。
心臓が大きく跳ねた。
見られたくなかった。
自分が何もできなかったことを、颯太に知られたくなかった。
やがて、颯太の足音が遠ざかっていく。
優華は、彼を追いかけなかった。
声もかけなかった。
ただ、雨が降り続ける校舎裏に立ち尽くしていた。
それが、彼女の後悔の始まりだった。
*
それから五年の月日が流れた。
七瀬優華は、二十一歳になっていた。
大学生活を送りながら、彼女は周囲から見れば何不自由なく暮らしていた。
けれど、心の奥には、ずっと消えない記憶があった。
雨の日の校舎裏。
うずくまる少年。
そして、何もできずに立ち尽くしていた自分。
柊木颯太。
あのとき、彼に声をかけていたら。
あのとき、誰かに助けを求めていたら。
あのとき、ほんの少しだけ勇気を出せていたら。
そんな考えが、何度も何度も頭をよぎった。
もちろん、過去をやり直すことなどできない。
時間は戻らない。
一度選ばなかった行動を、あとから選び直すことはできない。
そう思っていた。
――あの日までは。
「優華、少し話があるの」
ある日の夕食後、母親から呼び止められた。
「何?」
「今度、お父さんと一緒に会ってほしい人がいるの」
「会ってほしい人?」
「あなたの将来のことよ。相手の方も、あなたに会いたいとおっしゃっているの」
優華は、その意味をすぐに理解した。
以前から両親が口にしていた、縁談の話。
相手は家同士の付き合いもある男性で、両親は彼との結婚を強く望んでいた。
「……私、結婚するなんて言ってないよ」
「まだ会ってもいないでしょう?」
「会いたいとも思ってない」
母親の表情が曇る。
「優華。あなたのためを思って言っているのよ」
「それ、本当に私のため?」
思わず強い口調になった。
「私の人生なのに、どうして私の気持ちより先に、相手や家のことが決まってるの?」
「そんなつもりじゃ……」
「ごめん。今は話したくない」
優華は自分の部屋へ戻った。
扉を閉め、ベッドの端に腰を下ろす。
胸の中に、行き場のない感情が渦巻いていた。
誰かが決めた未来を、そのまま受け入れる。
自分の気持ちを押し殺して、周囲が望むとおりに生きていく。
そんな人生を、本当に自分は望んでいるのだろうか。
答えは、決まっていた。
「……嫌だ」
小さな声が、部屋に落ちる。
「私は、自分の人生を自分で決めたい」
その言葉を口にした瞬間、不意に颯太の顔が浮かんだ。
あのとき、自分は何もできなかった。
彼がどんな気持ちだったのか、最後まで知ろうともしなかった。
もし、もう一度会えるなら。
もし、もう一度あの日に戻れるなら。
今度こそ、何かを変えたい。
その思いが胸の奥で膨らんだ、そのときだった。
窓の外が、不自然に揺らいだ。
「……え?」
最初は、目の錯覚かと思った。
けれど、違った。
夜の景色の一角が、まるで水面に映った風景のように歪んでいる。
街灯の光が曲がり、建物の輪郭が波打つ。
そこだけ、世界の一部が別の何かに置き換わろうとしているようだった。
優華は窓に近づいた。
「何、あれ……」
ふと、町に伝わる噂を思い出した。
――強く拒絶する気持ちを抱いた人の前に、ときどき空間の歪みが現れる。
昔からある、根拠のない都市伝説。
優華は、そんなものを信じたことなどなかった。
けれど今、目の前で起きている現象は、どう考えても普通ではない。
歪みの奥に、暗い空間が見えた。
その向こう側に何があるのかはわからない。
戻ってこられる保証もない。
それでも、優華の心には一つの思いが浮かんでいた。
もう一度、颯太に会いたい。
今度こそ、何もせずに終わりたくない。
「……行かなきゃ」
誰に言うでもなく、優華はつぶやいた。
そして、歪みへと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、空気が震えた。
視界がぐにゃりと歪み、足元の感覚が消える。
優華は思わず目を閉じた。
――お願い。
――今度こそ、間に合って。
その願いだけを胸に抱きながら、彼女は光の中へと踏み込んだ。
そして、世界から姿を消した。




