#9 さよならの前に、伝えたい言葉
半田たちが他県へ引っ越してから、数週間が過ぎた。
柊木颯太の日常は、少しずつ変わり始めていた。
朝、学校へ向かうとき。廊下を歩いているとき。放課後、友人たちと帰るとき。
以前なら、見知らぬ誰かの笑い声が聞こえるだけで、身体が強張ることがあった。背後から声をかけられれば、また何か言われるのではないかと身構えてしまうこともあった。
けれど、今は違う。
もちろん、何もかもが平気になったわけではない。
突然、昔の記憶がよみがえることもある。似たような声を聞いて、心臓が速くなることもある。
それでも、颯太は以前のように自分を責めなくなっていた。
怖いと思ったら、深呼吸をする。
不安になったら、友人に話す。
一人では難しいことなら、先生に相談する。
自分の気持ちを無理に押し殺す必要はないのだと、少しずつ理解できるようになっていた。
そして、何より大きかったのは――過去の自分を、許せるようになってきたことだった。
中学時代、いじめられていた自分。
何も言い返せず、ただ耐えるしかなかった自分。
助けを求めることさえできなかった自分。
以前の颯太は、そんな自分を情けないと思っていた。
どうして言い返せなかったのか。
どうして逃げることしかできなかったのか。
どうして、もっと強くなれなかったのか。
何度も、何度も、自分自身を責めてきた。
けれど、今なら分かる。
あの頃の自分は、必死に耐えていたのだ。
誰にも相談できないまま、それでも毎日を過ごしていた。
それは、決して恥ずかしいことではなかった。
「……もう、いいんだよな」
放課後の教室で、颯太は窓の外を見つめながら、小さくつぶやいた。
「昔の俺も……あれで、精いっぱいだったんだよな」
誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
ずっと心の奥に閉じ込めてきた自分自身に、ようやく伝えられた言葉だった。
その瞬間、胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「柊木くん?」
背後から声がした。
振り返ると、遠野真紀が教室の入口に立っていた。
「……遠野さん。どうしたの?」
「委員会の仕事が終わったから、帰ろうと思って。柊木くん、まだ帰ってなかったんだね」
「ちょっと考え事」
「そっか」
真紀は隣まで歩いてくると、窓の外に目を向けた。
「何を考えてたの?」
颯太は少し迷ったあと、正直に答えた。
「昔のこと」
真紀の表情が、わずかに心配そうになる。
けれど、颯太は穏やかに続けた。
「でも、嫌なことを思い出してたわけじゃないよ。……いや、嫌なことではあるんだけどさ」
「うん?」
「昔の俺も、あのときはあれで精いっぱいだったんだなって。そう思えたんだ」
真紀は驚いたように颯太を見つめた。
それから、優しく微笑んだ。
「……そっか」
「うん」
「それって、すごく大切なことだと思う」
「そうかな」
「うん。だって、自分のことを責め続けるのって、すごく苦しいでしょ?」
颯太は小さく頷いた。
「だから、これからは少しずつ、自分にも優しくしてあげてね」
「……ありがとう、遠野さん」
「どういたしまして」
真紀は照れくさそうに笑った。
最近、二人は以前よりも自然に話せるようになっていた。
授業のこと、クラスのこと、休日に何をしたか。
そんな何気ない話をする機会も増えた。
まだ、何でも話せるほど親しいわけではない。
けれど、少なくとも今の颯太にとって、真紀は安心して話せる友人の一人になっていた。
「帰ろうか」
「うん」
二人は並んで教室を出た。
夕日に照らされた廊下を歩きながら、颯太は思った。
過去は変えられない。
あの日、傷ついたことも、苦しかったことも、なかったことにはならない。
けれど、過去を抱えたままでも、人は前へ進める。
自分は、ようやくそれを信じられるようになっていた。
その日の夕方。
いつもの小さな公園で、七瀬優華は一人、ベンチに座っていた。
最近の颯太は、本当によく笑うようになった。
友人たちと話すときの表情も、真紀と一緒にいるときの様子も、以前とは少し違っている。
無理に明るく振る舞っているのではない。
誰かに心配をかけないように、自分の気持ちを隠しているのでもない。
少しずつ、本当の意味で日常を楽しめるようになっていた。
優華は、その変化をずっと見守ってきた。
颯太が初めて自分の過去を話してくれた日のこと。
半田たちに、自分の気持ちを伝えた日のこと。
先生や友人たちに助けを求められるようになったこと。
そして、今日。
颯太が、自分自身を責めるのをやめようとしていること。
そのすべてが、優華にとって何より嬉しかった。
「……よかった」
小さくつぶやき、優華は空を見上げた。
五年前のあの日。
中学生だった自分は、颯太が傷つけられているのを見ていた。
助けたいと思った。
声をかけたいと思った。
それなのに、何もできなかった。
怖かったから。
自分が何かを言えば、今度は自分が標的になるかもしれないと思ったから。
その場から逃げることを選んでしまった。
そして、時間が過ぎても、その後悔は消えなかった。
颯太がどうなったのか。
今でも、あの出来事に苦しんでいるのではないか。
自分が声をかけていれば、何かが変わっていたのではないか。
そんな思いを抱えたまま、優華は大人になった。
二十一歳になっても、あの日のことだけは忘れられなかった。
そんなとき、未来の自分の前に現れたのが、あの不思議な空間の歪みだった。
そして、優華は五年前の世界へやってきた。
颯太に会うために。
今度こそ、彼の力になるために。
その願いは、ようやく叶おうとしていた。
「……私、ちゃんとできたのかな」
誰もいない公園で、優華は自分の手を見つめた。
過去の自分ができなかったことを、今の自分は少しだけやり遂げられた。
颯太はもう、一人で苦しんでいるわけではない。
自分を傷つけた過去と向き合い、支えてくれる人たちとつながり、自分自身を受け入れ始めている。
それは、優華がずっと願っていたことだった。
胸の奥にあった後悔が、静かにほどけていく。
「……颯太くん」
優華は、そっと名前を呼んだ。
「もう、大丈夫だね」
その言葉を口にした瞬間だった。
視界の端で、空気が揺らいだ。
「……え?」
公園の向こう側。
木々の間に、薄い光が浮かんでいた。
それは、優華がこの世界へ来たときに見たものと、よく似ていた。
空間そのものが、ゆっくりと歪んでいく。
淡い光が集まり、輪郭を形作っていく。
優華の表情から、笑みが消えた。
「……そんな」
分かっていた。
いつか、この日が来ることは。
自分の未練がなくなれば、ここに留まる理由もなくなる。
この世界に来たのは、過去をやり直すためではない。
あの日の自分ができなかったことに向き合い、颯太を支え、後悔に決着をつけるためだった。
そして今、その願いが叶おうとしている。
つまり――。
「……帰らなきゃ、いけないんだ」
優華は震える声でつぶやいた。
光は、少しずつ強くなっていた。
まるで、彼女を迎えに来たかのように。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「優華さん!」
振り返ると、颯太が公園の入口に立っていた。
いつものように待ち合わせ場所へ来たのだろう。
けれど、彼はすぐに優華の表情と、向こう側で揺らぐ光に気づいた。
「……何ですか、あれ」
優華は答えられなかった。
颯太は彼女に近づき、光を見つめた。
「優華さん?」
もう一度名前を呼ばれ、優華はようやく顔を上げた。
その目には、今にもあふれそうな涙が浮かんでいた。
「……颯太くん」
「どうしたんですか。何かあったんですか?」
優華は、笑おうとした。
いつも通りに。
何でもないことのように。
けれど、うまくいかなかった。
「……ごめんね」
「え?」
「私……もう、帰らなきゃいけないみたい」
颯太は、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「帰るって……どこに?」
優華は、ゆっくりと光の方を振り返った。
「五年後の世界。……私が、本来いるはずの場所」
「……っ」
颯太の表情が強張った。
未来から来たという話は、最初に聞いていた。
いつか帰る日が来る可能性があることも、頭では分かっていた。
それでも、こんなに突然、そのときが来るとは思っていなかった。
「待ってください。どうして急に……」
「私の未練が、なくなったんだと思う」
優華は、少しだけ笑った。
「颯太くんが、自分の過去と向き合えるようになったから。もう、自分を責めなくてもいいって思えるようになったから……」
「それは……」
「私がずっと、願っていたことなの」
優華の声が震えた。
「颯太くんが、昔の自分を許せるようになってほしかった。自分のことを、弱い人間だって思わないでほしかった。誰かに助けを求めてもいいんだって、知ってほしかった」
一つ一つ、言葉を紡ぐ。
「そして……いつか、ちゃんと笑えるようになってほしかった」
優華は、颯太を見つめた。
「それが、今、叶ったんだよ」
颯太は何も言えなかった。
優華が自分のことをずっと気にかけてくれていた理由。
彼女が、何度も自分を励ましてくれた理由。
そのすべてが、今、終わろうとしている。
「……でも」
颯太は、唇を噛んだ。
「俺は……まだ、優華さんに聞いてないことがある」
優華の瞳が揺れた。
「どうして俺のことを、あんなに知っていたのか。どうして、そこまで助けようとしてくれたのか。……優華さんが、何を抱えてここに来たのか」
ずっと、気になっていた。
彼女が自分に向ける優しさの奥に、何かがあることは分かっていた。
それでも、無理に聞き出そうとはしなかった。
いつか話してくれると信じていたから。
優華は、ゆっくりと息を吸った。
「……本当は、全部話したかった」
「……」
「颯太くんが、もう少し前に進めるようになったら。ちゃんと自分の言葉で話せるようになったら、伝えようって思ってた」
優華は、目元を拭った。
「でも……ごめんね。時間が、なくなっちゃった」
「優華さん……」
「それでも、今はこれだけ言わせて」
優華は、颯太の目をまっすぐに見つめた。
「颯太くんが、幸せになってくれて、本当によかった」
その言葉に、颯太の胸が強く締めつけられた。
行かないでほしい。
まだ一緒にいたい。
聞きたいことも、話したいことも、たくさんある。
それなのに、目の前の優華は、泣きそうな顔で笑っていた。
彼女がこの世界に来た理由を、颯太はまだ知らない。
けれど、彼女が自分のために、どれほど心を砕いてくれたのかは分かっていた。
そして今、颯太は気づいた。
自分にとって、優華がどれほど大切な存在になっていたのかを。
「……優華さん」
颯太は、彼女の前に立った。
「俺、ずっと考えていたことがあるんです」
優華は、涙をこらえながら頷いた。
「……うん」
「最初は、何者なのか分からなくて。急に現れて、未来から来たなんて言われて……正直、何が何だか分かりませんでした」
「……うん」
「でも、優華さんは、俺が困っているときにそばにいてくれた。無理に何かを聞き出そうとしないで、俺が話せるようになるまで待ってくれた」
颯太は、言葉を探しながら続けた。
「俺が怖いって言っても、情けないなんて言わなかった。昔のことを話しても、俺が悪いなんて言わなかった」
優華は、静かに聞いていた。
「……優華さんがいたから、俺は少しずつ変われたんだと思います」
「颯太くん……」
「もちろん、健たちや先生、遠野さんにも助けてもらいました。みんながいてくれたから、ここまで来られたんです」
颯太は、少しだけ笑った。
「でも、最初に俺のそばにいてくれたのは、優華さんでした」
胸の奥から、思いがあふれてくる。
今まで、うまく言葉にできなかった気持ち。
彼女が笑うと嬉しかった。
彼女が自分の話を聞いてくれると、安心できた。
明日も会えると思うと、少しだけ楽しみになった。
それが、いつからだったのかは分からない。
ただ、彼女がいなくなるかもしれないと知った今、はっきりと分かった。
この気持ちは、もう感謝だけではない。
「……俺」
颯太は、強く拳を握った。
怖かった。
自分の気持ちを口にすることが。
それを伝えたあと、何が起きるのか分からないことが。
けれど、過去の自分とは違う。
怖くても、伝えたいことがあるのなら、自分の言葉で伝えればいい。
結果がどうなるかは、相手が決めることだ。
それでも、言わなかったことを後悔したくない。
「優華さん」
颯太は、まっすぐに彼女を見つめた。
「俺……あなたのことが好きです」
優華の目が大きく見開かれた。
颯太は、もう一度、はっきりと告げた。
「好きです。優華さんのことが」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった不安が、少しだけほどけた気がした。
怖くなかったわけではない。
むしろ、今までで一番緊張していた。
それでも、言えた。
自分の気持ちを、自分の言葉で。
優華は、唇を震わせながら颯太を見つめていた。
「……どうして」
かすれた声が、こぼれた。
「どうして、今……そんなことを言うの……?」
「今しか、言えないかもしれないからです」
颯太は、正直に答えた。
「本当は、もっと早く気づいていたのかもしれません。でも、優華さんがいつか帰ることなんて、ちゃんと考えたことがなかった」
「……」
「俺は、これからも優華さんに会いたいです。話したいことも、まだたくさんあります。……だから、いなくなってほしくない」
颯太の声が震えた。
「でも、優華さんが帰らなきゃいけないことも、分かっています」
彼は、涙をこらえながら続けた。
「だから、最後に伝えたかったんです。俺が、優華さんを好きだってことを」
優華は、顔を伏せた。
涙が一粒、頬を伝った。
ずっと、言えなかった。
颯太を助けられなかった後悔。
あの日、何もできなかった自分への怒り。
未来で、自分の人生を誰かに決められそうになったときの苦しさ。
そして、この世界で颯太と過ごすうちに芽生えてしまった、後悔だけでは説明できない気持ち。
本当は、気づいていたのかもしれない。
颯太が笑うと嬉しかった。
彼が自分を頼ってくれると、胸が温かくなった。
もう少しだけ一緒にいたいと、何度も思った。
けれど、自分は未来から来た人間だ。
彼の人生に、いつまでも関わり続けられるわけではない。
そう思って、気持ちに蓋をしていた。
それなのに。
「……颯太くん」
優華は顔を上げた。
涙で潤んだ瞳のまま、彼を見つめる。
「ありがとう」
その声は、かすかに震えていた。
「私のことを、好きだって言ってくれて……本当に、ありがとう」
颯太は、彼女の言葉を黙って受け止めた。
優華は、少しだけ笑った。
「……でも、ごめんね。今は、返事ができない」
「……はい」
「私、未来に帰らなきゃいけないから」
分かっていた。
その返事を聞くために告白したわけではない。
ただ、自分の気持ちを伝えたかった。
それでも、優華の言葉に、颯太の胸は痛んだ。
優華は、そんな彼の気持ちを察するように、そっと微笑んだ。
「だから……一つ、約束してほしいことがあるの」
「約束……?」
「うん」
優華は、光の方を振り返った。
歪みは、先ほどよりもはっきりとした形になっていた。
もう、時間がない。
それでも、最後に伝えなければならないことがあった。
「颯太くん。五年後……私に会いに来て」
颯太は息をのんだ。
「……五年後?」
「そう。今から五年後。私が二十一歳になっている世界で」
優華は、まっすぐに彼を見つめた。
「そのときに、もう一度、今の言葉を聞かせてほしい」
「……」
「あなたが五年後も、同じ気持ちでいてくれるなら……そのとき、ちゃんと返事をする」
颯太は、言葉を失った。
五年後。
優華が本来生きている時間。
自分が、この世界で成長していく時間。
その先に、もう一度会える可能性がある。
「……本当に、会えるんですか?」
颯太が尋ねると、優華は小さく頷いた。
「うん。今度は、ちゃんと……同じ時間を生きる私として、颯太くんと会いたい」
「……」
「だから、それまでに、たくさんのことを経験してほしい。友達と笑って、いろんな場所へ行って、やりたいことを見つけて……颯太くん自身の人生を、大切にしてほしい」
優華は、微笑んだ。
「私のことだけを考えて、五年間を過ごしてほしいわけじゃないの。颯太くんが、自分の人生をちゃんと生きてくれたら嬉しい」
颯太は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
そして、力強く言った。
「五年後、必ず会いに行きます」
優華の瞳が揺れた。
「……うん」
「そのときに、もう一度、好きだって伝えます」
「……うん」
「だから、待っていてください」
優華は、もう一度頷いた。
「……待ってる」
その言葉を聞いた瞬間、颯太は少しだけ笑うことができた。
寂しくないわけではない。
今すぐにでも、彼女に行かないでほしいと言いたかった。
けれど、彼女は自分の時間へ帰るのだ。
それは、彼女が本来生きるべき人生へ戻るということでもある。
だったら、自分にできることは一つしかない。
彼女が戻った世界で、もう一度会えるように。
自分自身の人生を歩き続けること。
そして、五年後に、胸を張って彼女に会いに行くこと。
「……優華さん」
「なあに?」
「今まで、本当にありがとうございました」
颯太は、深く頭を下げた。
「俺を助けてくれて、ありがとうございました。俺の話を聞いてくれて、ありがとうございました。……あなたに会えて、本当によかったです」
優華は、両手で口元を押さえた。
「……私こそ」
声が、震えた。
「私こそ、颯太くんに会えてよかった」
その言葉を最後に、二人はしばらく黙っていた。
言いたいことは、まだたくさんあった。
一緒に過ごした時間は、決して長くない。
けれど、その一つ一つが、二人にとってかけがえのないものになっていた。
やがて、優華の身体の輪郭が、淡い光に包まれ始めた。
「……もう、時間だね」
優華がつぶやく。
颯太は、思わず一歩前に出た。
「優華さん……!」
「大丈夫」
優華は、泣きそうな顔で笑った。
「約束したでしょ? 五年後、また会おうって」
「……はい」
「だから、ちゃんと元気でいてね」
「優華さんも……!」
颯太は言葉を詰まらせた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
どうか元気で。
どうか幸せで。
どうか、自分の人生を歩んでほしい。
伝えたい思いが、胸の中にあふれていた。
けれど、最後に口にできたのは、たった一言だった。
「……また、会いましょう」
優華は、涙をこらえながら頷いた。
「うん。またね、颯太くん」
その瞬間、光が二人の間を満たした。
優華の姿が、少しずつ薄れていく。
颯太は、彼女を見つめ続けた。
忘れない。
彼女の声も、笑顔も、自分に向けてくれた言葉も。
五年後、必ず会いに行く。
その約束を胸に刻みながら、颯太は彼女の姿を目に焼きつけた。
そして――。
「……さようなら」
優華の声が、かすかに聞こえた。
光が消えた。
公園には、夕暮れの静けさだけが残っていた。
そこに、もう優華の姿はなかった。
「……優華さん?」
颯太は、彼女が立っていた場所を見つめた。
返事はない。
「……優華さん」
もう一度呼んでも、何も起こらなかった。
颯太は、ゆっくりと目を閉じた。
胸が痛かった。
涙がこぼれそうだった。
それでも、彼は顔を上げた。
「……五年後」
小さくつぶやく。
「絶対、会いに行きます」
それは、優華に向けた約束であり、自分自身に向けた誓いでもあった。
彼女がいなくなった世界で、これからも生きていく。
悲しみを抱えたままでも、前へ進む。
そして、いつか。
もう一度、彼女に会うために。
五年後。
七瀬優華、二十一歳。
彼女は、自分がいた世界へ戻ってきていた。
見慣れた街。
見慣れた建物。
そして、自分の手。
あの不思議な空間の歪みを越えて、優華は元の時間軸へ帰ってきたのだった。
「……戻って、きたんだ」
声に出してみても、現実感がなかった。
ほんの少し前まで、優華は五年前の世界にいた。
高校生の颯太と出会い、彼の苦しみを知り、彼が前へ進んでいく姿を見守っていた。
そして、最後に告白された。
――あなたのことが好きです。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
優華は、ゆっくりと顔を伏せた。
「……っ」
唇を噛み、必死にこらえる。
泣いてはいけない。
そう思っていた。
颯太の前では、最後まで笑っていたかった。
彼に心配をかけたくなかった。
五年後にまた会うという約束を、希望として残したかった。
だから、涙をこらえた。
寂しくても。
離れたくなくても。
本当は、自分だって――。
「……颯太くん」
名前を呼んだ途端、こらえていたものが崩れた。
「……うっ、く……」
優華の頬を、涙が伝った。
一度あふれた涙は、もう止められなかった。
「……なんで、こんなに……」
声が震える。
「……なんで、こんなに寂しいの……」
自分でも分かっていた。
颯太が大切だった。
初めて会ったときから、彼のことを放っておけなかった。
助けられなかった後悔があったから。
彼に幸せになってほしかったから。
それは、間違いなく本当だった。
けれど、一緒に過ごすうちに、それだけではなくなっていた。
颯太が笑うと嬉しかった。
彼が自分を頼ってくれると、心が温かくなった。
彼が少しずつ変わっていく姿を見るたびに、もっとそばにいたいと思った。
そして最後に、彼は言ってくれた。
好きだと。
優華は、胸元をぎゅっと握りしめた。
「……私も……」
言葉が途切れた。
その先を、口にすることができなかった。
返事は、五年後にすると約束した。
今はまだ、彼の言葉に答えることはできない。
それでも、自分の気持ちまでなかったことにする必要はないはずだった。
「……会いたいよ」
涙が、次々と頬を伝った。
「……颯太くんに、会いたい……」
今すぐにでも、あの公園へ戻りたかった。
彼の顔を見たかった。
もう一度、声を聞きたかった。
けれど、もう戻れない。
優華は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
泣きながら、何度も彼の名前を呼んだ。
未来へ戻るまで、決して見せまいと決めていた涙。
笑顔の裏に隠していた寂しさ。
そして、まだ返事をしていない告白への思い。
そのすべてが、静かな夜の中であふれ出していた。
やがて、優華はゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた頬を拭い、深く息を吸う。
「……五年後」
あの約束を、もう一度思い出す。
五年後、颯太が会いに来てくれる。
彼はきっと、自分の人生を歩いている。
友達と笑い、いろいろなことを経験し、自分の未来を選んでいる。
そして、もしもそのときも同じ気持ちでいてくれたなら。
今度こそ、きちんと答えよう。
誰かに決められた未来ではなく、自分自身で選んだ答えを。
「……待ってるから」
優華は、涙の残る顔で小さく笑った。
「五年後、絶対に……会いに来てね」
窓の外には、星が瞬いていた。
五年前の世界で、颯太が見上げている空と、同じ空。
離れていても、二人は同じ時間を生きていく。
それぞれの場所で、約束の日を目指して。
そして、五年後。
もう一度出会うその日まで――。
二人の物語は、終わらない。




