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11/15

#10 変わらない日常と、変わらない約束

七瀬優華が未来へ帰ってから、一週間が過ぎた。


柊木颯太の日常は、驚くほどいつも通りだった。


朝、目覚まし時計の音で目を覚ます。


制服に着替え、朝食を食べ、家を出る。


学校へ行けば、上原健がくだらない冗談を言い、清水祥太郎がそれに乗っかり、楠木奏介が呆れたように笑っている。


授業を受けて、昼休みには友人たちと弁当を食べる。


放課後になれば、時々寄り道をしながら家へ帰る。


季節は少しずつ進み、校庭の木々も、いつの間にか違う色を見せ始めていた。


何も変わっていない。


少なくとも、周りから見ればそうだった。


「おーい、颯太。聞いてるか?」


「……聞いてる」


「絶対聞いてなかっただろ!」


昼休み。


健の声に、颯太は我に返った。


「いや、聞いてたって」


「じゃあ、今、俺が何の話してたか言ってみろよ」


「……来週の小テストが嫌だって話?」


「それ、俺が昨日した話!」


「じゃあ、今日も同じ話をしてたんだろ」


「してねえよ!」


健が机を叩き、祥太郎が吹き出す。


「お前ら、毎日よく飽きないな……」


奏介は呆れながらも、口元には笑みを浮かべていた。


颯太も、小さく笑った。


こんな何気ないやり取りが、今では当たり前になっている。


以前の自分は、誰かと一緒にいる時間を、心から楽しむことができなかった。


周りの笑い声を聞けば、自分が笑われているのではないかと考えてしまう。


誰かが自分を見ていれば、何か言われるのではないかと身構えてしまう。


そんなことばかり考えていた。


けれど、今は違う。


友人たちの笑い声を聞いても、必要以上に怯えなくなった。


自分の失敗を笑われても、それが悪意のない冗談だと分かれば、一緒に笑うことができる。


そして、自分も誰かを笑わせることができる。


それは、颯太にとって大きな変化だった。


ただ一つ。


変わった日常の中で、どうしても変わらないものがあった。


「……優華さん」


気がつくと、彼女の名前を心の中で呼んでいる。


何か嬉しいことがあったとき。


少し落ち込んだとき。


誰かに話を聞いてほしいと思ったとき。


以前なら、真っ先に優華の顔が浮かんでいた。


今も、それは変わらない。


けれど、隣に彼女はいない。


いつもの公園に行っても、彼女が座っていたベンチは空いたままだ。


もう一度名前を呼んでも、振り返ってくれる人はいない。


あの日の別れから、颯太は何度もその公園を訪れていた。


何かが起きるわけではないと、分かっている。


それでも、あの場所へ行けば、彼女と過ごした時間を思い出せる気がした。


そして、必ず思い出す。


――五年後、私に会いに来て。


――そのときに、ちゃんと返事をする。


あの約束だけは、今も鮮明に覚えていた。


「……五年後か」


窓の外を眺めながら、颯太は小さくつぶやいた。


まだ先は長い。


けれど、ただ待っているだけの五年間にはしたくなかった。


優華が言ってくれたからだ。


自分自身の人生を大切にしてほしい、と。


だから颯太は、今日も教室へ向かう。


友人たちと笑い、勉強をし、時には悩みながら、自分の時間を生きていく。


五年後、もう一度彼女に会うために。


そして、そのときの自分が胸を張っていられるように。


それから、少しずつ時間が流れた。


颯太は、健たちとの友情を深めていった。


放課後に一緒に勉強することもあれば、休日に街へ出かけることもある。


何か悩みがあれば、以前よりも自然に相談できるようになった。


もちろん、何もかもを話すわけではない。


優華のことだけは、どうしても簡単には話せなかった。


未来から来た女性がいたこと。


彼女が自分の過去を知っていたこと。


そして、五年後にもう一度会う約束をしたこと。


そんな話を、どう説明すればいいのか分からなかったからだ。


けれど、健たちは無理に聞き出そうとはしなかった。


颯太が話したくないことは、話さなくてもいい。


そういう距離感を、自然と築けるようになっていた。


そして、もう一人。


颯太の日常に欠かせない存在になった人物がいた。


遠野真紀。


最初は、ただのクラスメイトだった。


クラス委員として何度か話をしたことがある程度で、特別に親しいわけではなかった。


しかし、半田たちに襲われそうになったとき、真紀が助けてくれたことをきっかけに、二人の距離は少しずつ縮まっていった。


一緒に帰るようになった。


休み時間に話すようになった。


時には、他愛のないことで笑い合うようにもなった。


そして、気づけば――。


「颯太くん、今日、一緒に帰らない?」


「ああ、いいよ」


そんなやり取りが、ごく自然に交わされるようになっていた。


いつしか、二人はお互いに気兼ねなく話せる間柄になっていた。


真紀は、颯太にとって大切な友人になっていた。


いや、今ではもう、親友と呼べる存在だった。


ある日の放課後。


颯太が教室で帰り支度をしていると、真紀が近づいてきた。


「颯太くん。今日、少し時間ある?」


「ん? あるけど、どうした?」


「……ちょっと、話したいことがあって」


いつもと違う。


そう感じた。


真紀は普段、颯太に何かを話すとき、もっと自然な表情をしている。


けれど今日は、どこか緊張しているようだった。


「分かった。どこで話す?」


「学校の裏にある、中庭でもいいかな?」


「うん、いいよ」


二人は教室を出て、中庭へ向かった。


夕方の中庭には、ほとんど人がいなかった。


風が吹き抜け、木々の葉がかすかに揺れている。


真紀はベンチの前で立ち止まった。


「……座ろうか」


「そうだな」


二人で並んで座る。


けれど、真紀はなかなか話し始めなかった。


何度か口を開きかけては、言葉を飲み込んでしまう。


颯太は急かさずに待っていた。


「……颯太くん」


やがて、真紀が小さく呼んだ。


「うん?」


「私ね、颯太くんと仲良くなれて、本当によかったと思ってる」


突然の言葉に、颯太は少し驚いた。


「……どうしたの、急に?」


「ううん。ちゃんと伝えておきたくて」


真紀は、膝の上で両手を握りしめた。


「最初はね、颯太くんって、何を考えているのか分からない人だと思ってた」


「……それ、よく言われる」


「ふふっ、そうなの?」


「ああ。自分でも、あまり人と話さなかったと思うし」


「うん。でも、今は違うよね」


真紀は颯太を見つめた。


「友達と笑ってるところも、困ったときに相談してくれるところも、少しずつ自分の気持ちを話してくれるところも……。私は、そういう颯太くんを知ることができて、嬉しかった」


「……遠野さん」


「それでね」


真紀は、一度深呼吸をした。


そして、颯太の目をまっすぐに見た。


「私、颯太くんのことが好きです」


時間が止まったように感じた。


颯太は、すぐには返事ができなかった。


真紀の頬は赤くなっていた。


けれど、目をそらすことなく、彼を見つめていた。


「クラスメイトとしてじゃなくて、友達としてだけじゃなくて……一人の男の子として、好き」


声は少し震えていた。


「ずっと、好きだったんだ」


颯太は、ゆっくりと息を吸った。


真紀の気持ちは、薄々感じていたのかもしれない。


一緒にいるときの表情。


自分を気にかけてくれる言葉。


時折、恥ずかしそうに目をそらす仕草。


けれど、確信はなかった。


そして何より、真紀のことを大切な友人だと思っていたからこそ、彼女の気持ちを軽く考えたくなかった。


颯太は、真紀の方へ身体を向けた。


「……ありがとう」


真紀は、静かに頷いた。


「うん」


「俺のことを、そんなふうに思ってくれて……本当に嬉しい」


「……うん」


「遠野さんがいてくれたから、俺は助けられたことがたくさんある。今でも感謝してるし、一緒に話してる時間も楽しい」


颯太は言葉を選びながら続けた。


「……でも、ごめん」


真紀の表情が、わずかに揺れた。


「俺には……会いたい人がいるんだ」


その言葉を聞いた瞬間、真紀は小さく息をのんだ。


颯太は、真紀から目をそらさなかった。


「その人とは、今は会えない。でも、いつか必ず会うって約束したんだ」


五年後。


あの約束を、颯太は今も大切にしていた。


「だから、今は……その人のことを忘れて、誰かと付き合うことはできない」


真紀は、しばらく黙っていた。


颯太は、申し訳なさそうに目を伏せた。


「……本当に、ごめん」


「……そっか」


真紀は、小さく笑った。


「ううん。謝らないで」


「でも……」


「颯太くんが、ちゃんと自分の気持ちを話してくれたんだもん。それだけで、十分だよ」


そう言いながらも、真紀の目には少しだけ寂しさが浮かんでいた。


好きな人に告白して、断られる。


覚悟していたつもりだった。


それでも、実際にその言葉を聞くと、胸が痛かった。


できることなら、自分を選んでほしかった。


自分が、颯太の一番近くにいたかった。


けれど、颯太には会いたい人がいる。


その人との約束を、何よりも大切にしている。


真紀は、それを否定したくなかった。


なぜなら、自分もまた、颯太のことを大切に思っているから。


「……ねえ、颯太くん」


「うん?」


「その人のこと、好きなんだね」


颯太は、少しだけ目を見開いた。


そして、静かに頷いた。


「……うん」


「そっか」


真紀は、空を見上げた。


「じゃあ、私が割り込んじゃ駄目だね」


「そんな……」


「大丈夫。私が勝手に好きになったんだから」


真紀は、颯太に向き直った。


「それに、颯太くんが大切にしてるものを、無理に手放してほしいとは思わないよ」


その言葉に、颯太の胸が締めつけられた。


「……遠野さん」


「でも、一つだけお願いしてもいい?」


「……何?」


真紀は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「これからも、親友でいてほしい」


颯太は、驚いたように彼女を見つめた。


「……いいの?」


「もちろん。……って言ったら、ちょっと強がりに聞こえるかな」


真紀は苦笑した。


「正直、今はちょっと悲しいよ。やっぱり、好きな人に振り向いてもらえなかったのは、寂しいから」


「……うん」


「でも、颯太くんと仲良くなれたことまで、なかったことにしたくないんだ」


真紀は、まっすぐに言った。


「颯太くんと友達になれたことは、私にとって大切なことだから」


颯太は、しばらく何も言えなかった。


そして、ゆっくりと頭を下げた。


「……ありがとう」


「ふふっ。だから、謝らなくていいってば」


「いや……そうじゃなくて」


颯太は顔を上げた。


「これからも、親友でいてくれることが嬉しいんだ」


その言葉に、真紀は目を丸くした。


「……本当に?」


「うん。俺も、遠野さんとはこれからも仲良くしたい」


颯太は、少し照れくさそうに笑った。


「……親友として、よろしく」


真紀は、しばらく彼を見つめたあと、笑顔を浮かべた。


「うん。こちらこそ!」


その笑顔には、まだ少しだけ寂しさが残っていた。


それでも、彼女は後悔していなかった。


自分の気持ちを伝えられたから。


そして、颯太が自分に正直に答えてくれたから。


二人の関係は、以前とまったく同じではないかもしれない。


けれど、終わったわけでもなかった。


恋人にはなれなかった。


それでも、大切な友人でいることはできる。


真紀は、そう信じたかった。


それから数日後。


「颯太くん、今日の放課後、暇?」


「悪い。今日は健たちと勉強する約束があるんだ」


「そっか。じゃあ、また今度だね」


「うん。また誘って」


「約束だからね!」


真紀は、いつものように笑った。


告白をしたあとも、二人の関係は続いていた。


もちろん、真紀の気持ちがすぐに消えたわけではない。


颯太が笑うと、やっぱり嬉しい。


近くにいると、胸が少しだけ高鳴ることもある。


ふとした瞬間に、もし自分が選ばれていたら、と考えてしまうこともあった。


けれど、真紀はその気持ちを無理に消そうとはしなかった。


好きだった時間まで否定する必要はない。


そう思えるようになっていた。


そして何より、颯太が少しずつ前へ進んでいることが嬉しかった。


ある日の放課後。


二人は、帰り道の途中にある小さな公園で、ベンチに座っていた。


「そういえば、颯太くん」


「ん?」


「会いたい人って、どんな人なの?」


颯太は、少しだけ驚いた。


「……気になる?」


「そりゃあ、気になるよ。だって、私が振られた理由なんだから」


真紀は冗談めかして言った。


「……ごめん」


「だから、謝らないの!」


真紀が笑う。


颯太も、苦笑した。


少し迷ったあと、彼は口を開いた。


「……優しい人だよ」


「優しい人?」


「うん。俺が何も話せなくても、無理に聞き出そうとしなかった。俺が自分のことを嫌いになっていたときも、否定しないで、ゆっくり話を聞いてくれた」


颯太は、空を見上げた。


「その人がいたから、俺は少しずつ、自分のことを認められるようになったんだと思う」


真紀は黙って聞いていた。


「……すごく、大切な人なんだね」


「……うん」


颯太は、迷いなく答えた。


その声を聞いて、真紀は少しだけ寂しくなった。


けれど同時に、彼の表情がとても穏やかなことにも気づいていた。


その人を思い出す颯太は、悲しそうでありながら、どこか温かい顔をしていた。


まるで、遠くにいる誰かが、今も彼を支えているかのようだった。


「……そっか」


真紀は、微笑んだ。


「じゃあ、私もその人に負けないくらい、颯太くんのことを応援するね」


「え?」


「だって、親友だから」


真紀は、少しだけ胸を張った。


「颯太くんが会いたい人に、ちゃんと会えるといいね」


颯太は、しばらく彼女を見つめた。


「……ありがとう、真紀」


初めて、名前で呼んだ。


真紀は、目を見開いた。


「……えっ?」


「あ……」


颯太も、自分が自然にそう呼んだことに気づき、少しだけ気まずそうに頬をかいた。


「……嫌だった?」


「う、ううん! 全然!」


真紀は慌てて首を横に振った。


「むしろ……嬉しい、けど」


最後の方は、ほとんど聞こえないくらい小さな声になった。


颯太は、照れくさそうに笑った。


「じゃあ、これからは真紀って呼んでもいい?」


「……うん!」


真紀は、満面の笑みを浮かべた。


恋人にはなれなかった。


それでも、親友として、今までより少し近い関係になれた。


それだけで、今日は十分だった。


その夜。


颯太は、自室の机に向かっていた。


机の上には、学校の課題が広がっている。


けれど、ペンを持つ手は止まっていた。


今日、真紀と話したことを思い返していたのだ。


告白されたとき、驚いた。


真紀のことは大切な友人だと思っている。


一緒にいると楽しいし、彼女が笑っていると、自分も嬉しくなる。


けれど、彼女の告白に応えることはできなかった。


自分には、会いたい人がいるから。


「……ごめんな、真紀」


颯太は小さくつぶやいた。


彼女を傷つけたことは、申し訳なかった。


それでも、真紀は親友でいてくれると言った。


自分が大切にしている約束を、応援してくれると言った。


そんな彼女の優しさに、颯太は心から感謝していた。


そして、もう一度、机の上のカレンダーに目を向ける。


五年後。


あの日から、まだそれほど時間は経っていない。


それでも、いつかその日が来ることを、颯太は毎日のように考えていた。


優華は、今、どんな生活を送っているのだろう。


自分のことを覚えているだろうか。


あの約束を、今も大切にしてくれているだろうか。


考え始めれば、きりがなかった。


けれど、颯太は焦らないことにした。


彼女が言ってくれたように、自分の人生を大切に生きる。


友達と笑い、勉強をし、知らなかった世界を知る。


そうやって、自分なりの時間を積み重ねていく。


五年後、彼女に会えたとき。


「あのときから、ちゃんと前に進めました」


そう言える自分でありたかった。


颯太は、机の上のカレンダーに小さく印をつけた。


約束の日まで、あと五年。


「……待っていてください、優華さん」


誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。


窓の外には、星が輝いていた。


同じ夜。


遠く離れた未来の世界で、七瀬優華もまた、夜空を見上げていた。


二十一歳になった彼女は、あの日から少しずつ、自分自身の人生を取り戻そうとしていた。


両親から勧められていた縁談についても、自分の気持ちをきちんと伝えた。


誰かの期待に応えるためだけに、人生を決めるつもりはない。


自分がどう生きたいのか。


誰と一緒にいたいのか。


何を大切にしたいのか。


それを、自分自身で選んでいく。


それが、優華の新しい決意だった。


けれど、夜になると、どうしても思い出してしまう。


五年前の世界で出会った少年のことを。


自分の気持ちをまっすぐに伝えてくれた、あの人のことを。


「……颯太くん」


優華は、そっと名前を呼んだ。


今、彼は何をしているのだろう。


友達と笑っているだろうか。


少しずつ、自分の未来を見つけ始めているだろうか。


それとも、まだ自分のことを覚えていてくれているだろうか。


考えるたびに、胸が温かくなる。


そして、少しだけ寂しくなる。


あの日、颯太から告白されたとき。


本当は、すぐに答えたかった。


自分の気持ちを、伝えたかった。


けれど、約束したのだ。


五年後に、もう一度会うこと。


そのときに、返事をすること。


「……五年後」


優華は、指先をそっと握りしめた。


長いようで、きっと短い時間。


その間に、颯太は大人になっていく。


自分もまた、今の自分にできることを探して生きていく。


そして、五年後。


彼が本当に会いに来てくれたなら。


そのときは、もう何も隠さない。


後悔ではなく、自分の気持ちとして。


誰かに決められた答えではなく、自分で選んだ言葉として。


「……ちゃんと、伝えるから」


優華は、小さく微笑んだ。


「だから……会いに来てね、颯太くん」


夜空の星は、静かに輝いていた。


五年前の世界で交わした約束は、今も二人をつないでいる。


そして、二人がそれぞれの時間を生きる日々は、これからも続いていく。


会えない時間の先に、もう一度、出会うために。

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