#10 変わらない日常と、変わらない約束
七瀬優華が未来へ帰ってから、一週間が過ぎた。
柊木颯太の日常は、驚くほどいつも通りだった。
朝、目覚まし時計の音で目を覚ます。
制服に着替え、朝食を食べ、家を出る。
学校へ行けば、上原健がくだらない冗談を言い、清水祥太郎がそれに乗っかり、楠木奏介が呆れたように笑っている。
授業を受けて、昼休みには友人たちと弁当を食べる。
放課後になれば、時々寄り道をしながら家へ帰る。
季節は少しずつ進み、校庭の木々も、いつの間にか違う色を見せ始めていた。
何も変わっていない。
少なくとも、周りから見ればそうだった。
「おーい、颯太。聞いてるか?」
「……聞いてる」
「絶対聞いてなかっただろ!」
昼休み。
健の声に、颯太は我に返った。
「いや、聞いてたって」
「じゃあ、今、俺が何の話してたか言ってみろよ」
「……来週の小テストが嫌だって話?」
「それ、俺が昨日した話!」
「じゃあ、今日も同じ話をしてたんだろ」
「してねえよ!」
健が机を叩き、祥太郎が吹き出す。
「お前ら、毎日よく飽きないな……」
奏介は呆れながらも、口元には笑みを浮かべていた。
颯太も、小さく笑った。
こんな何気ないやり取りが、今では当たり前になっている。
以前の自分は、誰かと一緒にいる時間を、心から楽しむことができなかった。
周りの笑い声を聞けば、自分が笑われているのではないかと考えてしまう。
誰かが自分を見ていれば、何か言われるのではないかと身構えてしまう。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今は違う。
友人たちの笑い声を聞いても、必要以上に怯えなくなった。
自分の失敗を笑われても、それが悪意のない冗談だと分かれば、一緒に笑うことができる。
そして、自分も誰かを笑わせることができる。
それは、颯太にとって大きな変化だった。
ただ一つ。
変わった日常の中で、どうしても変わらないものがあった。
「……優華さん」
気がつくと、彼女の名前を心の中で呼んでいる。
何か嬉しいことがあったとき。
少し落ち込んだとき。
誰かに話を聞いてほしいと思ったとき。
以前なら、真っ先に優華の顔が浮かんでいた。
今も、それは変わらない。
けれど、隣に彼女はいない。
いつもの公園に行っても、彼女が座っていたベンチは空いたままだ。
もう一度名前を呼んでも、振り返ってくれる人はいない。
あの日の別れから、颯太は何度もその公園を訪れていた。
何かが起きるわけではないと、分かっている。
それでも、あの場所へ行けば、彼女と過ごした時間を思い出せる気がした。
そして、必ず思い出す。
――五年後、私に会いに来て。
――そのときに、ちゃんと返事をする。
あの約束だけは、今も鮮明に覚えていた。
「……五年後か」
窓の外を眺めながら、颯太は小さくつぶやいた。
まだ先は長い。
けれど、ただ待っているだけの五年間にはしたくなかった。
優華が言ってくれたからだ。
自分自身の人生を大切にしてほしい、と。
だから颯太は、今日も教室へ向かう。
友人たちと笑い、勉強をし、時には悩みながら、自分の時間を生きていく。
五年後、もう一度彼女に会うために。
そして、そのときの自分が胸を張っていられるように。
それから、少しずつ時間が流れた。
颯太は、健たちとの友情を深めていった。
放課後に一緒に勉強することもあれば、休日に街へ出かけることもある。
何か悩みがあれば、以前よりも自然に相談できるようになった。
もちろん、何もかもを話すわけではない。
優華のことだけは、どうしても簡単には話せなかった。
未来から来た女性がいたこと。
彼女が自分の過去を知っていたこと。
そして、五年後にもう一度会う約束をしたこと。
そんな話を、どう説明すればいいのか分からなかったからだ。
けれど、健たちは無理に聞き出そうとはしなかった。
颯太が話したくないことは、話さなくてもいい。
そういう距離感を、自然と築けるようになっていた。
そして、もう一人。
颯太の日常に欠かせない存在になった人物がいた。
遠野真紀。
最初は、ただのクラスメイトだった。
クラス委員として何度か話をしたことがある程度で、特別に親しいわけではなかった。
しかし、半田たちに襲われそうになったとき、真紀が助けてくれたことをきっかけに、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
一緒に帰るようになった。
休み時間に話すようになった。
時には、他愛のないことで笑い合うようにもなった。
そして、気づけば――。
「颯太くん、今日、一緒に帰らない?」
「ああ、いいよ」
そんなやり取りが、ごく自然に交わされるようになっていた。
いつしか、二人はお互いに気兼ねなく話せる間柄になっていた。
真紀は、颯太にとって大切な友人になっていた。
いや、今ではもう、親友と呼べる存在だった。
ある日の放課後。
颯太が教室で帰り支度をしていると、真紀が近づいてきた。
「颯太くん。今日、少し時間ある?」
「ん? あるけど、どうした?」
「……ちょっと、話したいことがあって」
いつもと違う。
そう感じた。
真紀は普段、颯太に何かを話すとき、もっと自然な表情をしている。
けれど今日は、どこか緊張しているようだった。
「分かった。どこで話す?」
「学校の裏にある、中庭でもいいかな?」
「うん、いいよ」
二人は教室を出て、中庭へ向かった。
夕方の中庭には、ほとんど人がいなかった。
風が吹き抜け、木々の葉がかすかに揺れている。
真紀はベンチの前で立ち止まった。
「……座ろうか」
「そうだな」
二人で並んで座る。
けれど、真紀はなかなか話し始めなかった。
何度か口を開きかけては、言葉を飲み込んでしまう。
颯太は急かさずに待っていた。
「……颯太くん」
やがて、真紀が小さく呼んだ。
「うん?」
「私ね、颯太くんと仲良くなれて、本当によかったと思ってる」
突然の言葉に、颯太は少し驚いた。
「……どうしたの、急に?」
「ううん。ちゃんと伝えておきたくて」
真紀は、膝の上で両手を握りしめた。
「最初はね、颯太くんって、何を考えているのか分からない人だと思ってた」
「……それ、よく言われる」
「ふふっ、そうなの?」
「ああ。自分でも、あまり人と話さなかったと思うし」
「うん。でも、今は違うよね」
真紀は颯太を見つめた。
「友達と笑ってるところも、困ったときに相談してくれるところも、少しずつ自分の気持ちを話してくれるところも……。私は、そういう颯太くんを知ることができて、嬉しかった」
「……遠野さん」
「それでね」
真紀は、一度深呼吸をした。
そして、颯太の目をまっすぐに見た。
「私、颯太くんのことが好きです」
時間が止まったように感じた。
颯太は、すぐには返事ができなかった。
真紀の頬は赤くなっていた。
けれど、目をそらすことなく、彼を見つめていた。
「クラスメイトとしてじゃなくて、友達としてだけじゃなくて……一人の男の子として、好き」
声は少し震えていた。
「ずっと、好きだったんだ」
颯太は、ゆっくりと息を吸った。
真紀の気持ちは、薄々感じていたのかもしれない。
一緒にいるときの表情。
自分を気にかけてくれる言葉。
時折、恥ずかしそうに目をそらす仕草。
けれど、確信はなかった。
そして何より、真紀のことを大切な友人だと思っていたからこそ、彼女の気持ちを軽く考えたくなかった。
颯太は、真紀の方へ身体を向けた。
「……ありがとう」
真紀は、静かに頷いた。
「うん」
「俺のことを、そんなふうに思ってくれて……本当に嬉しい」
「……うん」
「遠野さんがいてくれたから、俺は助けられたことがたくさんある。今でも感謝してるし、一緒に話してる時間も楽しい」
颯太は言葉を選びながら続けた。
「……でも、ごめん」
真紀の表情が、わずかに揺れた。
「俺には……会いたい人がいるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、真紀は小さく息をのんだ。
颯太は、真紀から目をそらさなかった。
「その人とは、今は会えない。でも、いつか必ず会うって約束したんだ」
五年後。
あの約束を、颯太は今も大切にしていた。
「だから、今は……その人のことを忘れて、誰かと付き合うことはできない」
真紀は、しばらく黙っていた。
颯太は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……本当に、ごめん」
「……そっか」
真紀は、小さく笑った。
「ううん。謝らないで」
「でも……」
「颯太くんが、ちゃんと自分の気持ちを話してくれたんだもん。それだけで、十分だよ」
そう言いながらも、真紀の目には少しだけ寂しさが浮かんでいた。
好きな人に告白して、断られる。
覚悟していたつもりだった。
それでも、実際にその言葉を聞くと、胸が痛かった。
できることなら、自分を選んでほしかった。
自分が、颯太の一番近くにいたかった。
けれど、颯太には会いたい人がいる。
その人との約束を、何よりも大切にしている。
真紀は、それを否定したくなかった。
なぜなら、自分もまた、颯太のことを大切に思っているから。
「……ねえ、颯太くん」
「うん?」
「その人のこと、好きなんだね」
颯太は、少しだけ目を見開いた。
そして、静かに頷いた。
「……うん」
「そっか」
真紀は、空を見上げた。
「じゃあ、私が割り込んじゃ駄目だね」
「そんな……」
「大丈夫。私が勝手に好きになったんだから」
真紀は、颯太に向き直った。
「それに、颯太くんが大切にしてるものを、無理に手放してほしいとは思わないよ」
その言葉に、颯太の胸が締めつけられた。
「……遠野さん」
「でも、一つだけお願いしてもいい?」
「……何?」
真紀は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「これからも、親友でいてほしい」
颯太は、驚いたように彼女を見つめた。
「……いいの?」
「もちろん。……って言ったら、ちょっと強がりに聞こえるかな」
真紀は苦笑した。
「正直、今はちょっと悲しいよ。やっぱり、好きな人に振り向いてもらえなかったのは、寂しいから」
「……うん」
「でも、颯太くんと仲良くなれたことまで、なかったことにしたくないんだ」
真紀は、まっすぐに言った。
「颯太くんと友達になれたことは、私にとって大切なことだから」
颯太は、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとう」
「ふふっ。だから、謝らなくていいってば」
「いや……そうじゃなくて」
颯太は顔を上げた。
「これからも、親友でいてくれることが嬉しいんだ」
その言葉に、真紀は目を丸くした。
「……本当に?」
「うん。俺も、遠野さんとはこれからも仲良くしたい」
颯太は、少し照れくさそうに笑った。
「……親友として、よろしく」
真紀は、しばらく彼を見つめたあと、笑顔を浮かべた。
「うん。こちらこそ!」
その笑顔には、まだ少しだけ寂しさが残っていた。
それでも、彼女は後悔していなかった。
自分の気持ちを伝えられたから。
そして、颯太が自分に正直に答えてくれたから。
二人の関係は、以前とまったく同じではないかもしれない。
けれど、終わったわけでもなかった。
恋人にはなれなかった。
それでも、大切な友人でいることはできる。
真紀は、そう信じたかった。
それから数日後。
「颯太くん、今日の放課後、暇?」
「悪い。今日は健たちと勉強する約束があるんだ」
「そっか。じゃあ、また今度だね」
「うん。また誘って」
「約束だからね!」
真紀は、いつものように笑った。
告白をしたあとも、二人の関係は続いていた。
もちろん、真紀の気持ちがすぐに消えたわけではない。
颯太が笑うと、やっぱり嬉しい。
近くにいると、胸が少しだけ高鳴ることもある。
ふとした瞬間に、もし自分が選ばれていたら、と考えてしまうこともあった。
けれど、真紀はその気持ちを無理に消そうとはしなかった。
好きだった時間まで否定する必要はない。
そう思えるようになっていた。
そして何より、颯太が少しずつ前へ進んでいることが嬉しかった。
ある日の放課後。
二人は、帰り道の途中にある小さな公園で、ベンチに座っていた。
「そういえば、颯太くん」
「ん?」
「会いたい人って、どんな人なの?」
颯太は、少しだけ驚いた。
「……気になる?」
「そりゃあ、気になるよ。だって、私が振られた理由なんだから」
真紀は冗談めかして言った。
「……ごめん」
「だから、謝らないの!」
真紀が笑う。
颯太も、苦笑した。
少し迷ったあと、彼は口を開いた。
「……優しい人だよ」
「優しい人?」
「うん。俺が何も話せなくても、無理に聞き出そうとしなかった。俺が自分のことを嫌いになっていたときも、否定しないで、ゆっくり話を聞いてくれた」
颯太は、空を見上げた。
「その人がいたから、俺は少しずつ、自分のことを認められるようになったんだと思う」
真紀は黙って聞いていた。
「……すごく、大切な人なんだね」
「……うん」
颯太は、迷いなく答えた。
その声を聞いて、真紀は少しだけ寂しくなった。
けれど同時に、彼の表情がとても穏やかなことにも気づいていた。
その人を思い出す颯太は、悲しそうでありながら、どこか温かい顔をしていた。
まるで、遠くにいる誰かが、今も彼を支えているかのようだった。
「……そっか」
真紀は、微笑んだ。
「じゃあ、私もその人に負けないくらい、颯太くんのことを応援するね」
「え?」
「だって、親友だから」
真紀は、少しだけ胸を張った。
「颯太くんが会いたい人に、ちゃんと会えるといいね」
颯太は、しばらく彼女を見つめた。
「……ありがとう、真紀」
初めて、名前で呼んだ。
真紀は、目を見開いた。
「……えっ?」
「あ……」
颯太も、自分が自然にそう呼んだことに気づき、少しだけ気まずそうに頬をかいた。
「……嫌だった?」
「う、ううん! 全然!」
真紀は慌てて首を横に振った。
「むしろ……嬉しい、けど」
最後の方は、ほとんど聞こえないくらい小さな声になった。
颯太は、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、これからは真紀って呼んでもいい?」
「……うん!」
真紀は、満面の笑みを浮かべた。
恋人にはなれなかった。
それでも、親友として、今までより少し近い関係になれた。
それだけで、今日は十分だった。
その夜。
颯太は、自室の机に向かっていた。
机の上には、学校の課題が広がっている。
けれど、ペンを持つ手は止まっていた。
今日、真紀と話したことを思い返していたのだ。
告白されたとき、驚いた。
真紀のことは大切な友人だと思っている。
一緒にいると楽しいし、彼女が笑っていると、自分も嬉しくなる。
けれど、彼女の告白に応えることはできなかった。
自分には、会いたい人がいるから。
「……ごめんな、真紀」
颯太は小さくつぶやいた。
彼女を傷つけたことは、申し訳なかった。
それでも、真紀は親友でいてくれると言った。
自分が大切にしている約束を、応援してくれると言った。
そんな彼女の優しさに、颯太は心から感謝していた。
そして、もう一度、机の上のカレンダーに目を向ける。
五年後。
あの日から、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、いつかその日が来ることを、颯太は毎日のように考えていた。
優華は、今、どんな生活を送っているのだろう。
自分のことを覚えているだろうか。
あの約束を、今も大切にしてくれているだろうか。
考え始めれば、きりがなかった。
けれど、颯太は焦らないことにした。
彼女が言ってくれたように、自分の人生を大切に生きる。
友達と笑い、勉強をし、知らなかった世界を知る。
そうやって、自分なりの時間を積み重ねていく。
五年後、彼女に会えたとき。
「あのときから、ちゃんと前に進めました」
そう言える自分でありたかった。
颯太は、机の上のカレンダーに小さく印をつけた。
約束の日まで、あと五年。
「……待っていてください、優華さん」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。
窓の外には、星が輝いていた。
同じ夜。
遠く離れた未来の世界で、七瀬優華もまた、夜空を見上げていた。
二十一歳になった彼女は、あの日から少しずつ、自分自身の人生を取り戻そうとしていた。
両親から勧められていた縁談についても、自分の気持ちをきちんと伝えた。
誰かの期待に応えるためだけに、人生を決めるつもりはない。
自分がどう生きたいのか。
誰と一緒にいたいのか。
何を大切にしたいのか。
それを、自分自身で選んでいく。
それが、優華の新しい決意だった。
けれど、夜になると、どうしても思い出してしまう。
五年前の世界で出会った少年のことを。
自分の気持ちをまっすぐに伝えてくれた、あの人のことを。
「……颯太くん」
優華は、そっと名前を呼んだ。
今、彼は何をしているのだろう。
友達と笑っているだろうか。
少しずつ、自分の未来を見つけ始めているだろうか。
それとも、まだ自分のことを覚えていてくれているだろうか。
考えるたびに、胸が温かくなる。
そして、少しだけ寂しくなる。
あの日、颯太から告白されたとき。
本当は、すぐに答えたかった。
自分の気持ちを、伝えたかった。
けれど、約束したのだ。
五年後に、もう一度会うこと。
そのときに、返事をすること。
「……五年後」
優華は、指先をそっと握りしめた。
長いようで、きっと短い時間。
その間に、颯太は大人になっていく。
自分もまた、今の自分にできることを探して生きていく。
そして、五年後。
彼が本当に会いに来てくれたなら。
そのときは、もう何も隠さない。
後悔ではなく、自分の気持ちとして。
誰かに決められた答えではなく、自分で選んだ言葉として。
「……ちゃんと、伝えるから」
優華は、小さく微笑んだ。
「だから……会いに来てね、颯太くん」
夜空の星は、静かに輝いていた。
五年前の世界で交わした約束は、今も二人をつないでいる。
そして、二人がそれぞれの時間を生きる日々は、これからも続いていく。
会えない時間の先に、もう一度、出会うために。




