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12/15

#11 約束まで、あと三年

三月。


窓から差し込む春の日差しが、教室の床を柔らかく照らしていた。


黒板には、卒業を祝う言葉が大きく書かれている。机の上には、花束や寄せ書き、友達同士で交換した手紙が並び、いつもなら騒がしい教室も、今日ばかりはどこか特別な空気に包まれていた。


今日は、卒業式当日。


柊木颯太にとって、星ヶ丘学園高等部で過ごした三年間の終わりを迎える日だった。


「……いよいよ卒業か」


窓際に立ちながら、颯太は小さく呟いた。


三年前の自分なら、こんな日が来ることを、素直に喜べていただろうか。


中学時代のいじめが原因で、人と距離を置き、自分の気持ちを表に出すことを恐れていた頃。誰かと笑い合うことさえ、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。


けれど、今は違う。


くだらないことで笑い、友達とふざけ合い、時には悩みを打ち明けることもできるようになった。


過去の出来事を、完全に忘れたわけではない。


それでも、あの頃の自分を責めることは、もうなかった。


そして、その変化のきっかけをくれた人がいる。


「……優華さん」


五年前の未来からやってきた、七瀬優華。


自分より年上で、優しくて、少し不思議な女性。


彼女は、かつて自分を助けられなかったことを後悔していた。そして、その後悔と向き合うために、時間の歪みを越えて自分の前に現れた。


あの日、彼女は自分の世界へ帰っていった。


別れ際に交わした約束は、今でも颯太の胸に残っている。


――五年後、また会おう。


あのとき、颯太は自分の気持ちを伝えた。


「優華さん、あなたのことが好きです」


優華はすぐには答えを出さなかった。


代わりに、五年後に会ったとき、きちんと返事をすると約束してくれた。


そして、今日。


あれから二年が過ぎた。


高校を卒業するということは、約束の日まで、残り三年になったということだった。


「……あと三年か」


長いようで、短いようで。


その三年間に、自分がどんな大人になるのかは、まだわからない。


けれど、ひとつだけ確かなことがあった。


颯太は、もう一度優華に会いたい。


ただそれだけは、二年前から変わっていなかった。


「おーい、颯太!」


不意に背後から声がした。


振り返ると、上原健が手を振りながら近づいてくる。その隣には、清水祥太郎と楠木奏介もいた。


「何、窓の外なんか眺めちゃって。卒業が寂しいのか?」


健が、からかうように笑う。


「いや、別に」


「嘘つけ。今、絶対に感傷に浸ってただろ」


「お前は卒業式くらい、少しはしんみりできないのか」


「できるぞ。ほら、しんみり」


健はわざとらしく目を伏せ、胸に手を当てた。


「三年間、毎日のように颯太のツッコミを聞いてきました。明日からそれが聞けないと思うと……」


「思うと?」


「めちゃくちゃ寂しいです!」


「絶対思ってないだろ」


颯太が即座に突っ込むと、祥太郎が吹き出した。


「ははっ! 卒業しても、こいつらは変わらないな」


「変わらないのがいいところなんじゃない?」


奏介も穏やかに笑う。


そんな二人の言葉に、颯太は自然と口元を緩めた。


高校生活の最後の日まで、いつもと変わらない友人たち。


それが、たまらなくありがたかった。


「そういえばさ」


健が、ふと思い出したように口を開く。


「卒業したら、みんな進路もバラバラになるんだよな」


「まあな。全員同じ大学に行くわけじゃないし」


祥太郎が答える。


「だからって、会わなくなるわけじゃないだろ。連絡だって取れるし」


奏介の言葉に、健は「そりゃそうだけど」と頬を膨らませた。


「たまには集まろうぜ。卒業してもさ」


「いいんじゃないか」


颯太は頷いた。


「俺も、みんなとはこれからも会いたいし」


「おっ、颯太が素直だ!」


「うるさい」


「いやあ、昔はもっとこう、壁があったというか……」


健が言いかけたところで、祥太郎がその肩を軽く叩いた。


「おい。そういうのは、本人が言わない限り掘り返すなって」


「あ、悪い」


健はすぐに表情を改めた。


けれど、颯太は気にしていなかった。


「別にいいよ。確かに、昔の俺はそうだったし」


そう言えるようになったこと自体が、変化なのだと思う。


過去をなかったことにする必要はない。


ただ、過去に縛られずに生きていけばいい。


それを教えてくれたのは、未来から来たあの人だった。


「……そうだな。これからもよろしく」


颯太が言うと、三人はそれぞれ笑った。


「おう!」


「こちらこそ」


「よろしくな、颯太」


四人の間に、穏やかな空気が流れる。


やがて、教室のあちこちで卒業生たちの声が大きくなっていった。


写真を撮る者。


先生に最後の挨拶をする者。


友達と別れを惜しむ者。


それぞれが、それぞれの三年間を胸に刻んでいる。


颯太もまた、この場所で過ごした日々を振り返っていた。


そして、胸の中でそっと呟く。


――優華さん。


――俺は、ちゃんと前に進んでいます。


――だから、あと三年。


――そのときは、もう一度あなたに会いたいです。


その願いを胸に、颯太は友人たちとの会話を続けた。


このときはまだ、知らなかった。


その約束へと続く道が、思いもよらない形で近づいてきていることを。


     * * *


卒業式が終わってから、しばらくして。


颯太たちは校舎の外に出て、正門近くで話をしていた。


校門には、卒業を祝う看板が立てられている。春の風に揺れる木々の枝には、少しずつ新しい芽が見え始めていた。


「じゃあ、次に集まるときは、誰かが幹事な」


健が勝手に話をまとめる。


「言い出したお前がやれよ」


颯太が返す。


「えー、俺? こういうのは持ち回りだろ!」


「言い出しっぺの法則って知ってるか?」


「そんな法律はありません!」


「法律の話じゃない」


祥太郎と奏介が、また笑った。


そのときだった。


「……颯太」


聞き慣れた声が、少し離れたところから聞こえた。


颯太が振り向く。


そこに立っていたのは、遠野真紀だった。


制服姿の真紀は、胸元に卒業証書の入った筒を抱えている。いつもより少し落ち着いた表情をしていたが、颯太と目が合うと、柔らかく微笑んだ。


「真紀? どうした?」


「ちょっと、話したいことがあって」


「俺に?」


「うん。今、少し時間ある?」


颯太は友人たちを振り返った。


「悪い。ちょっと行ってくる」


「おう。ごゆっくりー」


「健、お前は本当に……」


「はいはい、邪魔しませんよ」


健は両手を上げて、わざとらしく後ずさった。


祥太郎は颯太に向かって軽く手を振り、奏介も「またあとでな」と声をかける。


真紀は三人に会釈してから、颯太を校舎の脇へと誘った。


人の往来が少なくなった場所まで歩くと、真紀は足を止めた。


「卒業、おめでとう」


「ありがとう。真紀もな」


「うん。……なんだか、実感が湧かないね」


「そうだな。明日からも普通に学校に来そうな気がする」


「わかる。教室に行けば、みんながいつもどおりいるような気がするよね」


真紀は懐かしむように目を細めた。


颯太と真紀が、今のように気兼ねなく話せるようになってから、かなりの時間が経っていた。


最初は、颯太が一方的に助けられることもあった。


真紀は、彼が困っているときに手を差し伸べてくれた。


颯太が過去のことを打ち明けたときも、真紀は無理に聞き出そうとはしなかった。


そして、真紀自身が颯太に想いを伝えたこともある。


あのとき、颯太は彼女の気持ちに応えることができなかった。


それでも真紀は、颯太のそばにいることを選んでくれた。


恋人にはなれなくても、大切な友達として。


今では、颯太にとって真紀は、何でも話せる親友の一人だった。


「……ねえ、颯太」


「ん?」


真紀は少し迷うように視線を落としたあと、再び顔を上げた。


「前に、私に聞いたことがあったよね」


「前に?」


「七瀬優華さんのこと」


その名前を聞いた瞬間、颯太の表情が変わった。


「……優華さん?」


思いがけない名前だった。


真紀は小さく頷く。


「うん。颯太が、あの人のことを話してくれたとき。どんな人なのか、どうしてそんなに大切なのかって、私が聞いたことがあったでしょ?」


「ああ……あったな」


確かに、話したことがある。


颯太は真紀に、優華のことを少しだけ伝えていた。


優しい人であること。


自分が過去のことで苦しんでいたとき、そばにいてくれたこと。


そして、いつかもう一度会いたい人がいること。


ただし、未来から来たということや、時間の歪みのことまでは話していない。


それは、信じてもらえないと思ったからではなかった。


自分でも説明しきれない出来事を、どこまで話せばいいのかわからなかったのだ。


「実はね……」


真紀は、少し言いづらそうに頬を掻いた。


「私、優華と友達なんだ」


「…………え?」


颯太は、思わず聞き返した。


「今、なんて?」


「だから、七瀬優華。私の友達なの」


「……いや、待ってくれ」


颯太は片手で額を押さえた。


頭の中で、真紀の言葉が何度も繰り返される。


真紀が、優華の友達。


七瀬優華と、遠野真紀が。


「ちょっと待って。……真紀が知ってる優華さんって、あの七瀬優華さん?」


「うん。たぶん、颯太が知っている人と同じ名前だと思う」


「いや、名前はそうなんだけど……」


言葉がうまくまとまらない。


颯太の知っている優華は、五年先の未来からやってきた二十一歳の女性だった。


そして、彼女が帰ってから、もう二年が経っている。


今、颯太が高校を卒業するこの時代に、同じ名前の優華がいるということなのだろうか。


それとも――。


「……真紀」


颯太は、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。


「その優華って、どんな人なんだ?」


真紀は少し考えてから答えた。


「明るくて、優しくて、頑張り屋さん。あと、ちょっと頑固なところもあるかな」


「頑固?」


「うん。一度こうって決めたら、なかなか曲げないの。でも、人の気持ちを大事にする人だよ」


その説明に、颯太の胸がわずかに揺れた。


優華らしい。


そう思ってしまった。


けれど、まだ決めつけるわけにはいかない。


真紀が知っている優華は、自分が知っている優華と同じ人物なのだろうか。


それとも、名前が同じだけの別人なのだろうか。


「……その人とは、いつから友達なんだ?」


「高校に入る前からかな。ずっと頻繁に会っていたわけじゃないけど、連絡を取り合ったり、たまに一緒に出かけたりしてるよ」


「そうなんだ……」


颯太は、しばらく黙り込んだ。


真紀はその様子を見て、少し心配そうに首を傾げた。


「もしかして、何かあった?」


「いや……何かあったっていうか」


どう説明すればいいのだろう。


自分が知っている優華は、未来からやってきた人だ。


彼女が自分の前に現れた理由も、帰っていった理由も、二人で交わした約束も、簡単には説明できない。


けれど、もし真紀が知っている優華が、自分の知っている優華と同じ人なら。


今、この時代にも彼女がいるのなら。


――会えるかもしれない。


その可能性が、颯太の心を大きく揺さぶった。


「……真紀」


「うん?」


「その優華さんに、会わせてもらうことってできるかな」


真紀は一瞬、目を丸くした。


それから、すぐに微笑んだ。


「もちろん。優華も、きっと喜ぶと思う」


「……本当に?」


「うん。でも、ひとつお願いがあるんだ」


「お願い?」


真紀は、少しだけ真剣な表情になった。


「優華に会う前に、私に連絡してほしいの」


「連絡?」


「そう。私から優華に話しておきたいこともあるし、二人が会うなら、ちゃんと私も一緒にいたいから」


その言葉に、颯太は頷いた。


「わかった。会いに行く前には、必ず真紀に連絡する」


「約束だよ?」


「約束する」


真紀は、安心したように笑った。


「じゃあ、私が優華を連れてくるね」


「……ありがとう、真紀」


颯太が頭を下げると、真紀は慌てて手を振った。


「そんな、大げさだよ。友達を紹介するだけなんだから」


「いや、俺にとっては……」


そこまで言いかけて、颯太は言葉を止めた。


自分にとって、優華がどれほど大切な人なのか。


それを真紀に話したことはある。


けれど、今この瞬間の胸の高鳴りまで、うまく伝えられる気がしなかった。


真紀は、そんな颯太の様子を見て、少しだけ寂しそうに目を細めた。


それでも、すぐにいつもの笑顔に戻る。


「大丈夫。ちゃんと連れてくるから」


「……うん」


「だから、もう少しだけ待っててね」


「わかった」


その言葉を聞いて、颯太は胸の奥が熱くなるのを感じた。


二年前、未来へ帰る優華を見送ったとき。


彼女と再会するまで、五年という時間が必要だった。


長いと思った。


その間に何が起きるのか、どんな自分になっているのか、想像もできなかった。


それでも、約束を信じて待つと決めた。


そして、二年が過ぎた。


残り三年。


そう思っていた。


けれど、今になって、その約束とは別の道から優華へとつながる可能性が現れたのだ。


真紀が知っている優華。


今の時代を生きている、颯太の知らない優華。


もし本当に同じ人なら、彼女は今、何をしているのだろう。


どんな毎日を過ごし、何を考え、どんな未来を思い描いているのだろう。


そして、自分と出会った未来の優華と、今の優華は、どこまで同じなのだろう。


「……楽しみにしてていいんだよな」


颯太が小さく呟くと、真紀は笑った。


「もちろん」


その笑顔には、確かな約束が込められていた。


     * * *


真紀と別れたあと、颯太は再び友人たちのもとへ戻った。


「お、戻ってきた。真紀と何話してたんだ?」


健が、さっそく尋ねてくる。


「ちょっとな」


「なんだよ、もったいぶるなって」


「別に、隠すようなことじゃないよ」


颯太はそう言いながら、スマートフォンを取り出した。


画面には、真紀とのメッセージのやり取りが残っている。


これから優華に会う前には、必ず真紀に連絡する。


それが、今交わした約束だった。


「……なあ、みんな」


颯太は顔を上げた。


「もしかしたら、近いうちに会いたい人に会えるかもしれない」


健たちは、少し驚いたように顔を見合わせた。


「会いたい人?」


「うん」


「……前に言ってた人か?」


祥太郎が静かに尋ねた。


颯太は頷いた。


「そう。ずっと会いたいと思ってた人」


奏介が、穏やかに微笑んだ。


「そっか。よかったな」


「まだ会えるって決まったわけじゃないけどな」


「でも、可能性があるんだろ?」


「……ああ」


「なら、よかったじゃん」


健も、いつもの調子で笑った。


「会えたら、ちゃんと伝えろよ。会いたかったって」


その言葉に、颯太は少しだけ目を見開いた。


そして、ゆっくりと頷く。


「……そうだな」


今度こそ、伝えたい。


二年前に伝えた想いも。


もう一度会いたいと願い続けてきたことも。


そして、あの日から今日まで、自分がどんなふうに生きてきたのかも。


いつか優華に、きちんと話したい。


ただし、今の優華は、まだ何も知らない。


颯太との約束も。


未来で二人が出会ったことも。


颯太が、彼女の言葉に救われたことも。


彼女が五年後に返事をすると約束したことも。


それらすべてを知らないまま、今の彼女は、この時代のどこかで日常を過ごしている。


そして颯太もまた、これから会うことになる優華が、未来で出会った彼女とまったく同じ道を歩むとは限らないことを、まだ知らなかった。


時間は、同じように流れているようでいて、少しずつ違う未来をつくっていく。


過去に後悔を抱えていた優華が、颯太と出会ったことで未来を変えたように。


今の優華にも、これから選んでいく未来がある。


その未来の中に、颯太との出会いがあるのかどうかは、まだ誰にもわからない。


     * * *


その日の夕方。


颯太は自宅の部屋で、卒業証書を机の上に置いていた。


制服はハンガーに掛けてある。


明日からは、もうこの制服を着て学校へ行くことはない。


少し寂しい気持ちもあった。


けれど、それ以上に、これから始まる新しい生活への期待があった。


そして何より――。


「……優華さん」


颯太は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。


そこには、二年前に自分が書いた言葉が残っている。


いつか、優華に伝えたいこと。


忘れたくない約束。


そして、未来へ向かう自分自身への言葉。


颯太はそれを静かに読み返した。


「あと三年……」


そう呟いたとき、スマートフォンが震えた。


画面を見ると、真紀からメッセージが届いていた。


『今日は話せてよかった。優華には、私から連絡してみるね。また会える日が決まったら知らせるよ』


颯太は、しばらくその文章を見つめた。


それから、ゆっくりと返信を打つ。


『ありがとう。よろしく頼む』


送信ボタンを押す。


たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥には、今まで感じたことのない期待が広がっていた。


五年後の約束まで、あと三年。


その約束を大切に抱きしめたまま、颯太は今日という日を終えようとしていた。


しかし、彼の知らない場所では、もうひとつの時間が静かに動き始めていた。


七瀬優華。


今を生きる彼女は、まだ柊木颯太という名前を知らない。


少なくとも、これから自分の人生に深く関わることになる人物としては。


彼女にとって颯太は、まだ出会っていない誰かだった。


未来からやってきた優華が、あの日、颯太に残した約束。


そして、今の優華がこれから歩んでいく日々。


その二つが交わる日は、思っていたよりも近いのかもしれない。


約束まで、あと三年。


颯太が信じて待つ未来と、優華がまだ知らない未来。


二つの時間は、少しずつ、再び近づき始めていた。

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