#11 約束まで、あと三年
三月。
窓から差し込む春の日差しが、教室の床を柔らかく照らしていた。
黒板には、卒業を祝う言葉が大きく書かれている。机の上には、花束や寄せ書き、友達同士で交換した手紙が並び、いつもなら騒がしい教室も、今日ばかりはどこか特別な空気に包まれていた。
今日は、卒業式当日。
柊木颯太にとって、星ヶ丘学園高等部で過ごした三年間の終わりを迎える日だった。
「……いよいよ卒業か」
窓際に立ちながら、颯太は小さく呟いた。
三年前の自分なら、こんな日が来ることを、素直に喜べていただろうか。
中学時代のいじめが原因で、人と距離を置き、自分の気持ちを表に出すことを恐れていた頃。誰かと笑い合うことさえ、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。
けれど、今は違う。
くだらないことで笑い、友達とふざけ合い、時には悩みを打ち明けることもできるようになった。
過去の出来事を、完全に忘れたわけではない。
それでも、あの頃の自分を責めることは、もうなかった。
そして、その変化のきっかけをくれた人がいる。
「……優華さん」
五年前の未来からやってきた、七瀬優華。
自分より年上で、優しくて、少し不思議な女性。
彼女は、かつて自分を助けられなかったことを後悔していた。そして、その後悔と向き合うために、時間の歪みを越えて自分の前に現れた。
あの日、彼女は自分の世界へ帰っていった。
別れ際に交わした約束は、今でも颯太の胸に残っている。
――五年後、また会おう。
あのとき、颯太は自分の気持ちを伝えた。
「優華さん、あなたのことが好きです」
優華はすぐには答えを出さなかった。
代わりに、五年後に会ったとき、きちんと返事をすると約束してくれた。
そして、今日。
あれから二年が過ぎた。
高校を卒業するということは、約束の日まで、残り三年になったということだった。
「……あと三年か」
長いようで、短いようで。
その三年間に、自分がどんな大人になるのかは、まだわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
颯太は、もう一度優華に会いたい。
ただそれだけは、二年前から変わっていなかった。
「おーい、颯太!」
不意に背後から声がした。
振り返ると、上原健が手を振りながら近づいてくる。その隣には、清水祥太郎と楠木奏介もいた。
「何、窓の外なんか眺めちゃって。卒業が寂しいのか?」
健が、からかうように笑う。
「いや、別に」
「嘘つけ。今、絶対に感傷に浸ってただろ」
「お前は卒業式くらい、少しはしんみりできないのか」
「できるぞ。ほら、しんみり」
健はわざとらしく目を伏せ、胸に手を当てた。
「三年間、毎日のように颯太のツッコミを聞いてきました。明日からそれが聞けないと思うと……」
「思うと?」
「めちゃくちゃ寂しいです!」
「絶対思ってないだろ」
颯太が即座に突っ込むと、祥太郎が吹き出した。
「ははっ! 卒業しても、こいつらは変わらないな」
「変わらないのがいいところなんじゃない?」
奏介も穏やかに笑う。
そんな二人の言葉に、颯太は自然と口元を緩めた。
高校生活の最後の日まで、いつもと変わらない友人たち。
それが、たまらなくありがたかった。
「そういえばさ」
健が、ふと思い出したように口を開く。
「卒業したら、みんな進路もバラバラになるんだよな」
「まあな。全員同じ大学に行くわけじゃないし」
祥太郎が答える。
「だからって、会わなくなるわけじゃないだろ。連絡だって取れるし」
奏介の言葉に、健は「そりゃそうだけど」と頬を膨らませた。
「たまには集まろうぜ。卒業してもさ」
「いいんじゃないか」
颯太は頷いた。
「俺も、みんなとはこれからも会いたいし」
「おっ、颯太が素直だ!」
「うるさい」
「いやあ、昔はもっとこう、壁があったというか……」
健が言いかけたところで、祥太郎がその肩を軽く叩いた。
「おい。そういうのは、本人が言わない限り掘り返すなって」
「あ、悪い」
健はすぐに表情を改めた。
けれど、颯太は気にしていなかった。
「別にいいよ。確かに、昔の俺はそうだったし」
そう言えるようになったこと自体が、変化なのだと思う。
過去をなかったことにする必要はない。
ただ、過去に縛られずに生きていけばいい。
それを教えてくれたのは、未来から来たあの人だった。
「……そうだな。これからもよろしく」
颯太が言うと、三人はそれぞれ笑った。
「おう!」
「こちらこそ」
「よろしくな、颯太」
四人の間に、穏やかな空気が流れる。
やがて、教室のあちこちで卒業生たちの声が大きくなっていった。
写真を撮る者。
先生に最後の挨拶をする者。
友達と別れを惜しむ者。
それぞれが、それぞれの三年間を胸に刻んでいる。
颯太もまた、この場所で過ごした日々を振り返っていた。
そして、胸の中でそっと呟く。
――優華さん。
――俺は、ちゃんと前に進んでいます。
――だから、あと三年。
――そのときは、もう一度あなたに会いたいです。
その願いを胸に、颯太は友人たちとの会話を続けた。
このときはまだ、知らなかった。
その約束へと続く道が、思いもよらない形で近づいてきていることを。
* * *
卒業式が終わってから、しばらくして。
颯太たちは校舎の外に出て、正門近くで話をしていた。
校門には、卒業を祝う看板が立てられている。春の風に揺れる木々の枝には、少しずつ新しい芽が見え始めていた。
「じゃあ、次に集まるときは、誰かが幹事な」
健が勝手に話をまとめる。
「言い出したお前がやれよ」
颯太が返す。
「えー、俺? こういうのは持ち回りだろ!」
「言い出しっぺの法則って知ってるか?」
「そんな法律はありません!」
「法律の話じゃない」
祥太郎と奏介が、また笑った。
そのときだった。
「……颯太」
聞き慣れた声が、少し離れたところから聞こえた。
颯太が振り向く。
そこに立っていたのは、遠野真紀だった。
制服姿の真紀は、胸元に卒業証書の入った筒を抱えている。いつもより少し落ち着いた表情をしていたが、颯太と目が合うと、柔らかく微笑んだ。
「真紀? どうした?」
「ちょっと、話したいことがあって」
「俺に?」
「うん。今、少し時間ある?」
颯太は友人たちを振り返った。
「悪い。ちょっと行ってくる」
「おう。ごゆっくりー」
「健、お前は本当に……」
「はいはい、邪魔しませんよ」
健は両手を上げて、わざとらしく後ずさった。
祥太郎は颯太に向かって軽く手を振り、奏介も「またあとでな」と声をかける。
真紀は三人に会釈してから、颯太を校舎の脇へと誘った。
人の往来が少なくなった場所まで歩くと、真紀は足を止めた。
「卒業、おめでとう」
「ありがとう。真紀もな」
「うん。……なんだか、実感が湧かないね」
「そうだな。明日からも普通に学校に来そうな気がする」
「わかる。教室に行けば、みんながいつもどおりいるような気がするよね」
真紀は懐かしむように目を細めた。
颯太と真紀が、今のように気兼ねなく話せるようになってから、かなりの時間が経っていた。
最初は、颯太が一方的に助けられることもあった。
真紀は、彼が困っているときに手を差し伸べてくれた。
颯太が過去のことを打ち明けたときも、真紀は無理に聞き出そうとはしなかった。
そして、真紀自身が颯太に想いを伝えたこともある。
あのとき、颯太は彼女の気持ちに応えることができなかった。
それでも真紀は、颯太のそばにいることを選んでくれた。
恋人にはなれなくても、大切な友達として。
今では、颯太にとって真紀は、何でも話せる親友の一人だった。
「……ねえ、颯太」
「ん?」
真紀は少し迷うように視線を落としたあと、再び顔を上げた。
「前に、私に聞いたことがあったよね」
「前に?」
「七瀬優華さんのこと」
その名前を聞いた瞬間、颯太の表情が変わった。
「……優華さん?」
思いがけない名前だった。
真紀は小さく頷く。
「うん。颯太が、あの人のことを話してくれたとき。どんな人なのか、どうしてそんなに大切なのかって、私が聞いたことがあったでしょ?」
「ああ……あったな」
確かに、話したことがある。
颯太は真紀に、優華のことを少しだけ伝えていた。
優しい人であること。
自分が過去のことで苦しんでいたとき、そばにいてくれたこと。
そして、いつかもう一度会いたい人がいること。
ただし、未来から来たということや、時間の歪みのことまでは話していない。
それは、信じてもらえないと思ったからではなかった。
自分でも説明しきれない出来事を、どこまで話せばいいのかわからなかったのだ。
「実はね……」
真紀は、少し言いづらそうに頬を掻いた。
「私、優華と友達なんだ」
「…………え?」
颯太は、思わず聞き返した。
「今、なんて?」
「だから、七瀬優華。私の友達なの」
「……いや、待ってくれ」
颯太は片手で額を押さえた。
頭の中で、真紀の言葉が何度も繰り返される。
真紀が、優華の友達。
七瀬優華と、遠野真紀が。
「ちょっと待って。……真紀が知ってる優華さんって、あの七瀬優華さん?」
「うん。たぶん、颯太が知っている人と同じ名前だと思う」
「いや、名前はそうなんだけど……」
言葉がうまくまとまらない。
颯太の知っている優華は、五年先の未来からやってきた二十一歳の女性だった。
そして、彼女が帰ってから、もう二年が経っている。
今、颯太が高校を卒業するこの時代に、同じ名前の優華がいるということなのだろうか。
それとも――。
「……真紀」
颯太は、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。
「その優華って、どんな人なんだ?」
真紀は少し考えてから答えた。
「明るくて、優しくて、頑張り屋さん。あと、ちょっと頑固なところもあるかな」
「頑固?」
「うん。一度こうって決めたら、なかなか曲げないの。でも、人の気持ちを大事にする人だよ」
その説明に、颯太の胸がわずかに揺れた。
優華らしい。
そう思ってしまった。
けれど、まだ決めつけるわけにはいかない。
真紀が知っている優華は、自分が知っている優華と同じ人物なのだろうか。
それとも、名前が同じだけの別人なのだろうか。
「……その人とは、いつから友達なんだ?」
「高校に入る前からかな。ずっと頻繁に会っていたわけじゃないけど、連絡を取り合ったり、たまに一緒に出かけたりしてるよ」
「そうなんだ……」
颯太は、しばらく黙り込んだ。
真紀はその様子を見て、少し心配そうに首を傾げた。
「もしかして、何かあった?」
「いや……何かあったっていうか」
どう説明すればいいのだろう。
自分が知っている優華は、未来からやってきた人だ。
彼女が自分の前に現れた理由も、帰っていった理由も、二人で交わした約束も、簡単には説明できない。
けれど、もし真紀が知っている優華が、自分の知っている優華と同じ人なら。
今、この時代にも彼女がいるのなら。
――会えるかもしれない。
その可能性が、颯太の心を大きく揺さぶった。
「……真紀」
「うん?」
「その優華さんに、会わせてもらうことってできるかな」
真紀は一瞬、目を丸くした。
それから、すぐに微笑んだ。
「もちろん。優華も、きっと喜ぶと思う」
「……本当に?」
「うん。でも、ひとつお願いがあるんだ」
「お願い?」
真紀は、少しだけ真剣な表情になった。
「優華に会う前に、私に連絡してほしいの」
「連絡?」
「そう。私から優華に話しておきたいこともあるし、二人が会うなら、ちゃんと私も一緒にいたいから」
その言葉に、颯太は頷いた。
「わかった。会いに行く前には、必ず真紀に連絡する」
「約束だよ?」
「約束する」
真紀は、安心したように笑った。
「じゃあ、私が優華を連れてくるね」
「……ありがとう、真紀」
颯太が頭を下げると、真紀は慌てて手を振った。
「そんな、大げさだよ。友達を紹介するだけなんだから」
「いや、俺にとっては……」
そこまで言いかけて、颯太は言葉を止めた。
自分にとって、優華がどれほど大切な人なのか。
それを真紀に話したことはある。
けれど、今この瞬間の胸の高鳴りまで、うまく伝えられる気がしなかった。
真紀は、そんな颯太の様子を見て、少しだけ寂しそうに目を細めた。
それでも、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「大丈夫。ちゃんと連れてくるから」
「……うん」
「だから、もう少しだけ待っててね」
「わかった」
その言葉を聞いて、颯太は胸の奥が熱くなるのを感じた。
二年前、未来へ帰る優華を見送ったとき。
彼女と再会するまで、五年という時間が必要だった。
長いと思った。
その間に何が起きるのか、どんな自分になっているのか、想像もできなかった。
それでも、約束を信じて待つと決めた。
そして、二年が過ぎた。
残り三年。
そう思っていた。
けれど、今になって、その約束とは別の道から優華へとつながる可能性が現れたのだ。
真紀が知っている優華。
今の時代を生きている、颯太の知らない優華。
もし本当に同じ人なら、彼女は今、何をしているのだろう。
どんな毎日を過ごし、何を考え、どんな未来を思い描いているのだろう。
そして、自分と出会った未来の優華と、今の優華は、どこまで同じなのだろう。
「……楽しみにしてていいんだよな」
颯太が小さく呟くと、真紀は笑った。
「もちろん」
その笑顔には、確かな約束が込められていた。
* * *
真紀と別れたあと、颯太は再び友人たちのもとへ戻った。
「お、戻ってきた。真紀と何話してたんだ?」
健が、さっそく尋ねてくる。
「ちょっとな」
「なんだよ、もったいぶるなって」
「別に、隠すようなことじゃないよ」
颯太はそう言いながら、スマートフォンを取り出した。
画面には、真紀とのメッセージのやり取りが残っている。
これから優華に会う前には、必ず真紀に連絡する。
それが、今交わした約束だった。
「……なあ、みんな」
颯太は顔を上げた。
「もしかしたら、近いうちに会いたい人に会えるかもしれない」
健たちは、少し驚いたように顔を見合わせた。
「会いたい人?」
「うん」
「……前に言ってた人か?」
祥太郎が静かに尋ねた。
颯太は頷いた。
「そう。ずっと会いたいと思ってた人」
奏介が、穏やかに微笑んだ。
「そっか。よかったな」
「まだ会えるって決まったわけじゃないけどな」
「でも、可能性があるんだろ?」
「……ああ」
「なら、よかったじゃん」
健も、いつもの調子で笑った。
「会えたら、ちゃんと伝えろよ。会いたかったって」
その言葉に、颯太は少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……そうだな」
今度こそ、伝えたい。
二年前に伝えた想いも。
もう一度会いたいと願い続けてきたことも。
そして、あの日から今日まで、自分がどんなふうに生きてきたのかも。
いつか優華に、きちんと話したい。
ただし、今の優華は、まだ何も知らない。
颯太との約束も。
未来で二人が出会ったことも。
颯太が、彼女の言葉に救われたことも。
彼女が五年後に返事をすると約束したことも。
それらすべてを知らないまま、今の彼女は、この時代のどこかで日常を過ごしている。
そして颯太もまた、これから会うことになる優華が、未来で出会った彼女とまったく同じ道を歩むとは限らないことを、まだ知らなかった。
時間は、同じように流れているようでいて、少しずつ違う未来をつくっていく。
過去に後悔を抱えていた優華が、颯太と出会ったことで未来を変えたように。
今の優華にも、これから選んでいく未来がある。
その未来の中に、颯太との出会いがあるのかどうかは、まだ誰にもわからない。
* * *
その日の夕方。
颯太は自宅の部屋で、卒業証書を机の上に置いていた。
制服はハンガーに掛けてある。
明日からは、もうこの制服を着て学校へ行くことはない。
少し寂しい気持ちもあった。
けれど、それ以上に、これから始まる新しい生活への期待があった。
そして何より――。
「……優華さん」
颯太は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
そこには、二年前に自分が書いた言葉が残っている。
いつか、優華に伝えたいこと。
忘れたくない約束。
そして、未来へ向かう自分自身への言葉。
颯太はそれを静かに読み返した。
「あと三年……」
そう呟いたとき、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、真紀からメッセージが届いていた。
『今日は話せてよかった。優華には、私から連絡してみるね。また会える日が決まったら知らせるよ』
颯太は、しばらくその文章を見つめた。
それから、ゆっくりと返信を打つ。
『ありがとう。よろしく頼む』
送信ボタンを押す。
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥には、今まで感じたことのない期待が広がっていた。
五年後の約束まで、あと三年。
その約束を大切に抱きしめたまま、颯太は今日という日を終えようとしていた。
しかし、彼の知らない場所では、もうひとつの時間が静かに動き始めていた。
七瀬優華。
今を生きる彼女は、まだ柊木颯太という名前を知らない。
少なくとも、これから自分の人生に深く関わることになる人物としては。
彼女にとって颯太は、まだ出会っていない誰かだった。
未来からやってきた優華が、あの日、颯太に残した約束。
そして、今の優華がこれから歩んでいく日々。
その二つが交わる日は、思っていたよりも近いのかもしれない。
約束まで、あと三年。
颯太が信じて待つ未来と、優華がまだ知らない未来。
二つの時間は、少しずつ、再び近づき始めていた。




