第二十九話 死神の行進と、聖者の再臨
第二十八話!
楽しんで!
【一:崩壊の序曲】
広場に響いたのは、乾いた咳ではなかった。それは、肺の組織が裏返り、内臓が内側から崩壊していくような、生々しく、そして悍ましい吐血の音だった。
「熱が……身体が、焼ける、ようだっ……! 助けて、誰か、誰か助けてくれ……!」
昨日僕が警告したはずの商人が、噴水の縁を血に染まった手で掴みながら、激しく身悶えし、崩れ落ちた。
周囲にいた群衆が「おい、大丈夫か!」「今助けるぞ!」と、無防備な善意で駆け寄ろうとする。僕は二歳児の未発達な喉を、千切れんばかりに振り絞り、地鳴りのような咆哮でそれを制した。
「触るな! 離れろ! 死にたいのか!」
その怒号の凄まじい迫力に、広場の時間が一瞬で止まった。人々が呆然と立ち尽くす中、僕は零から贈られたレンズを単眼鏡のように構え、倒れた男の細部を『観測』した。
レンズの向こう側に見える景色は、地獄そのものだった。
男の顔面は、すでに毒々しい赤みを帯びた丘疹
――膿を孕み、中心が窪んだ特有の水疱によって、原形を留めないほど
埋め尽くされている。
医学者としての僕の眼は、その皮膚の下で『天然痘ウイルス(Variola virus)』が爆発的に増殖し、細胞という細胞を食い破り、毛細血管を破壊し尽くしている様を克明に捉えていた。
(始まった……。目に見えない死神の行進が。)
男の口から溢れ出した体液が、石畳の隙間に染み込んでいく。その一滴、一分子の中には、数億、数兆のウイルスが潜み、新たな宿主を求めて飢えている。人々は怯え、神の名を呼びながら十字を切り、そしてパニックになって逃げ惑う。その足取り一つ一つが、自らの衣類に、手足に、死の胞子を付着させていく連鎖。
「いいかい、みんな! 今すぐ家に帰って、戸を閉めるんだ! この男に触れた奴は今すぐ服を焼け! さもないと、この街の全員が同じ姿になって死ぬぞ!」
僕の必死の警告は、混乱する人々の耳には「不吉な赤ん坊が吐いた呪い」としてしか響かなかった。人々は僕を避け、倒れた男を避けて散っていく。その背中を、見えない死神が追いかけていくのが、僕にははっきりと見えた。
【二:傲慢なる聖域】
僕は泥だらけの、二歳の小さな身体を引きずり、街の中央にそびえる教会の巨大な鉄扉を叩き続けた。この世界の教会は、神の奇跡を説く一方で、街の行政とわずかな医療知識を独占している。ここを動かさなければ、パンデミック(大流行)は止められない。
「開けろ! 天然痘だ! 今すぐ街を封鎖し、感染者を隔離しろ! 井戸の利用を制限し、汚染された死体はすべて焼却するんだ!」
重苦しい音を立てて開いた扉の向こうから、慈悲深い笑みを浮かべた司祭が現れた。彼は跪き、慈しむような手つきで僕の頬に手を伸ばそうとしたが、僕はその手を冷たく跳ね除けた。
「坊や、そんな物騒なことを言うものではない。病は神の御心。祈りが足りぬ者に下される『神罰』に過ぎないのだよ。さあ、おうちにお帰り。」
「これは『罰』じゃない! 増殖し、連鎖する物理的な『バグ』なんだ! 祈りや懺悔でウイルスは殺せない。医学的な隔離と、適切な処置が必要なんだ! 司祭、あんたが今、僕に触れようとしたその手こそが、次の犠牲者を産むんだぞ!」
「……悪魔の囁きか。不吉な子供め。その瞳、どうやら魔に魅入られているようだ。」
司祭の目が冷たく細まった次の瞬間、衛兵の荒っぽい手によって、僕は冷たい石畳に放り出された。
――いつもこうだ、歴史上の化学や医学では当たり前な展開。真実を言うもの
はあざ笑われ、個人の言うことを信じ続ける、そして何年後かになり真実
が解き明かされる。
知識があっても、この非力な身体では、言葉に重みが宿らない。けれど今はそんなことをしている暇はない。
前世で「佐伯誠」として積み上げた権威、世界中から請われたその技術も、この中世レベルの世界では一銭の価値もなかった。
夕暮れ時、街に鐘が鳴り響く。それは救いの鐘ではなく、弔いの鐘だった。一人、また一人と、広場で、路地裏で倒れる者が増えていく。街は、虚しい祈りの声と、死を待つ者の重苦しい呻きに支配され始めた。死臭が夕闇に混じり、僕は絶望的な無力感に包まれながら、教会の塔を見上げた。
【三:禁忌の調合】
僕は一人、スラムの片隅にある打ち捨てられた廃屋に陣取った。
誰も僕の言葉を信じないなら、僕が僕の身体を使って、科学が神を凌駕することを証明するしかない。
僕は、昼間のうちに目星をつけておいた『牛痘』に感染した乳搾りの農民を、なかば脅すようにして廃屋に連れ込んだ。農民の腕には、天然痘に似ているが、人間には極めて軽く済むはずの牛の病の痕があった。
「おじさん、動かないで。……これは、僕たちが生き残るための、唯一の『鍵』なんだ。」
零の【再構築】は使えない。僕にあるのは、前世で培った『医学』という名の、気の遠くなるような泥臭いプロセスだけだ。
僕は震える手で錆びたナイフを握り、農民の腕にある牛痘の水疱を切り裂いた。ドロリとした、鼻を突く獣の臭いのする膿。一歳の小さな指先。数ミクロンの狂いが、致命的な雑菌汚染を招く。僕は零のレンズを「顕微鏡」として使い、採取した膿から不純物を徹底的に取り除いていく。
不純な蛋白質を除去し、特定の温度で安定させ、濃度の調整を繰り返す。一秒、一秒、外から聞こえる悲鳴と、崩落する社会の音が、僕の集中力を削ろうとする。だが、僕は止まらない。二歳の小さな手は、石を握りすぎて血が滲んでいたが、その痛みすらも思考の燃料に変えた。
一時間、二時間……。
瓶の中に、人類最古のワクチン――『種痘』が完成していく。それは、神の罰を打ち破るための、科学という名の反逆の証だった。
【四:決意の刻印と暗黒の夜】
「……零。見ていてくれ。僕の医学が、このバグだらけの神罰を、根底からデバッグしてやる」
僕は完成した薄濁りの液体を、自分の細い、真っ白な腕に見つめた。
まずは、自分を最初の被験者にする。一歳児の未発達な免疫系に、わざと『牛痘』という弱毒化されたウイルスを刻み込む。それは、現代医学の常識からすれば、あまりに乱暴で、成功率の低い賭けだった。
ナイフの先を腕に突き立て、十字に傷をつける。そこへ、精製した液体を刷り込んでいく。
『う、あぁ…………っ!!』
直後、猛烈な悪寒が僕の小さな身体を襲った。
視界がぐるぐると回り、身体中の関節が、まるで万力で締め上げられるような悲鳴を上げる。一歳児のキャパシティを超える高熱が、脳を焼こうとする。
僕はそのまま、暗闇の中で泥のように深い眠りに落ちた。
三日後。
街は、地獄と化していた。
教会が閉ざされた扉の向こうで祈りを捧げる間にも、街路には遺体が積み上がり、生気のない人々が絶望の淵を彷徨っている。もはや、死神の足音は誰の耳にも届くほどに近かった。
その廃屋の扉が、内側からゆっくりと開いた。
【五:聖者の再臨】
現れたのは、一人の少年だった。
頬は痩せこけ、肌は病的な白さを帯びているが、その瞳にはかつてないほどの鋭い光が宿っている。
「……終わったよ、零。僕の身体の中に、最強の『盾』が構築された。」
僕は自らの腕に残った、種痘の痕――小さなカサブタを撫でた。三日間の高熱を乗り越え、僕の免疫系は天然痘という名の死神に対する
『暗号(抗体)』を手に入れたのだ。
僕は街の中心へと歩き出した。
すでに街は死の沈黙に包まれ、人々は家の中で震えていた。僕は広場で、今まさに息絶えようとしている一人の少女を見つけた。彼女の親は、死を恐れて娘を捨て、遠くで泣いている。
「触るな……坊や……死神が、移る……。」
周囲の僅かな生き残りが僕を止めようとするが、僕は迷わず少女の傍らに膝をついた。
「大丈夫。死神なんて、ただのプログラム(バグ)だ。僕が今から、君の身体に『修正パッチ』を当てるよ。」
僕は持っていた種痘を、少女の腕に刻み込んだ。
人々は「狂気だ」と騒ぎ、「赤ん坊が奇跡を起こすはずがない」と嘲笑した。だが、一日後。死の淵にいた少女の熱が下がり、その瞳に生気が戻った時、広場の空気は一変した。
「……治った……? 神様、奇跡だ……! この子が、奇跡を起こしたんだ!」
跪く人々。だが、僕はそれを冷たく見下ろした。
「奇跡じゃない。これは『医学』という名の、ただの技術だ。……さあ、生き残りたい奴は並べ。死神をデバッグする時間だ」
二歳の医学者、佐伯誠。
彼が街を救い、そして零を取り戻すための『最強の軍団』を作り上げる伝説が、ここから始まる。
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