第9話 胸のあたりがもやっとした
数日が経ち、四月が終わろうとしていた。
鮎川は持ち前の明るさで、クラスにもすっかり馴染んでいた。最初こそ「目が見えない転校生」という物珍しさで注目を集めていたが、今はもう「クラスのみんな」の一員だ。
特に仲良くなったのが、白石凛だった。
凛はクラスの中でも独特な存在感を持つ女子だ。ショートヘアにすっと通った鼻筋。切れ長の目。クールで、言葉数が少なくて、必要最低限のことしか喋らない。教室の隅で一人で文庫本を読んでいることが多い。
美人だが近寄りがたい――というのが、クラスメイト共通の評価だった。
そんな凛と鮎川が仲良くなった経緯を、オレはたまたま目撃していた。
ある日の昼休み、鮎川がいつものように教室内を白杖で歩いていたとき、凛の机にぶつかりそうになった。
凛は無言で机を引いて道を空けた。通り過ぎた鮎川が振り返って声をかける。
「ありがとう。えっと……誰?」
「白石」
「白石さん。ありがとう、助かった」
「別に。そこ、机が出っぱってただけ」
素っ気ない返事。誰かがフォローするかと思ったが、凛は次の言葉を続けた。
「目が見えないからって特別扱いする気はないから。普通にぶつかりそうだったから避けただけ」
空気が凍った――ように、周囲には見えたらしい。
近くにいた女子が「ちょっと、凛ちゃん……」と小声で注意しかけた。
でも。
「うん、普通にしてくれたほうが嬉しい!」
鮎川がぱっと笑顔を見せた。
何の曇りもない、まっすぐな笑顔。凛の言葉を冷たいとも、失礼とも感じていない。本心からそう思っている笑顔だった。
「わたし、気を遣われるより普通にしてもらえるほうがいいの。だって、目が見えないのはわたしの一部であって、わたしの全部じゃないから。白石さん、そうやって普通に接してくれるの、すごく嬉しい」
凛はほんの少しだけ目を見開いた。
それから、初めて見る表情を浮かべた。驚きと、それから――わずかな照れ。
「……変な子」
「えへへ、よく言われる」
「褒めてない」
「褒めてるんだよ。変って言われるの、わたし好きなんだ。変わってるってことは、普通じゃないってことでしょ? 普通じゃないって、面白いじゃん」
凛は数秒間、鮎川を見つめていた。
それから、ほんのわずかに口角を上げた。笑った――と言えるかどうかギリギリの、微かな表情の変化。でも、あの凛が。
あの無表情の白石凛が、笑った。
「……あんた、本当に変な子」
「ありがとう!」
「だから褒めてないって」
それ以来、凛と鮎川は急速に距離を縮めた。
意外な組み合わせだった。明るくて社交的な鮎川と、クールで孤高の凛。正反対の二人なのに、不思議と隣にいると嚙み合っている。
特に二人を結びつけたのは、本だった。
凛は重度の文学少女で、古今東西の小説を読み漁っている。そしてその守備範囲にはシェイクスピアも含まれていた。
「白石さん、シェイクスピア読むの?」
「凛でいい。呼びにくいし。……まあ、一通りは読んでる」
「えー、すごい! じゃあ凛ちゃん、一番好きな作品は?」
「『テンペスト』。最後の戯曲。……あんたは?」
「わたしは『空騒ぎ』! ベネディックとベアトリスの掛け合いが最高なの!」
「ああ、あの二人はいい。素直じゃないところが」
「そう! お互い好きなのに、意地張って認めないの。もう、さっさと好きって言えばいいのに!」
「……うるさいね、あんた」
「えへへ」
二人がシェイクスピアの話で盛り上がっているのを、オレは少し離れた席から眺めていた。
鮎川が楽しそうに話して、凛がぼそっと返して、鮎川がまた笑う。
オレはその輪に入れない。シェイクスピアの知識がゼロだからだ。『空騒ぎ』も『テンペスト』も、タイトルすら聞いたことがない。ベネディックとベアトリスって誰だよ。
別に、入りたいわけじゃない。
入りたいわけじゃない、けど。
鮎川が凛と楽しそうに話しているのを見ると、ほんの少しだけ――本当にほんの少しだけ――胸のあたりがもやっとする。
何だこの感覚。気のせいだ。たぶんお昼に食べた鮭弁当のせいだ。鮭が傷んでいたのかもしれない。
……鮭は関係ない。わかってる。でも、他に説明がつかない。
その日の放課後。
教室で帰り支度をしていると、見慣れない男子が鮎川の席に向かって歩いてくるのが目に入った。
見慣れない、というのは正確じゃない。同じクラスだ。ただ、オレとは普段まったく接点がない。
御堂蓮。
背が高い。オレより五センチは上だろう。髪型はさらっとした黒髪で、顔立ちは――まあ、認めたくないが、整っている。端正な顔立ちに、涼しげな目元。いわゆるイケメンというやつだ。成績は学年上位で、運動もできる。サッカー部ではレギュラーで、試合になると女子の応援団がつくらしい。
要するに、オレとは真逆のスペックを持った男だ。
しかもこいつ、性格まで良い。クラスの誰に対しても公平で、偉ぶらないし、マウントも取らない。嫌味がないイケメンほど厄介なものはない。嫌いになる理由がないからだ。
「鮎川さん」
蓮は柔らかい声で話しかけた。紳士的な、丁寧な声だ。
「あ、えっと……誰?」
「御堂蓮。同じクラスだよ。自己紹介、遅くなってごめん」
「ああ、御堂くん。声で覚えた。この前、英語の時間にすごくきれいな発音で教科書読んでた人だよね」
「え、わかるの?」
「うん。声って一人一人全然違うから。御堂くんの声は低くて響きがあって、すぐわかったよ」
「それは光栄だな」
蓮は穏やかに笑って――笑顔も整っている、くそ――続けた。
「鮎川さん、もしよかったら、学校のことで何か困ったことがあればいつでも言って。教室の中の配置とか、特別教室への行き方とか、わからないことがあったら案内するから」
「ありがとう。御堂くんは優しいね」
「いや、当然のことだよ。クラスメイトなんだから」
当然のこと。クラスメイトなんだから。
正論だ。何一つ間違っていない。
蓮はさらに続けた。
「実は、学校のバリアフリーの状況を調べて、簡単なマップを作ってみたんだ。点字プリンターで印刷すれば使えると思って。よかったら後で渡すよ」
バリアフリーマップ。自主的に。頼まれてもいないのに。
……こういうところだ。こういうところが、御堂蓮という人間の恐ろしさだ。善意に一点の曇りもない。計算もない。ただ純粋に、困っている人のためにできることをする。
鮎川が「え、すごい! ありがとう!」と声を弾ませた。その声のトーンは、オレに景色を教えてもらったときと同じくらい嬉しそうだった。
――同じくらい。
いや、なんでオレはそんな比較をしているんだ。
蓮は善意の塊みたいな人間で、困っている人を放っておけないタイプ。それは前から知っていた。悪い奴じゃない。むしろいい奴だ。
なのに――。
なのに何だ、この感覚は。
胸のもやもやが、さっきの凛のときよりも少しだけ濃い気がする。
蓮と鮎川が笑顔で会話しているのを見ていると、腹の底あたりがじわじわと重くなる。
何なんだ、これ。昼の弁当が消化不良を起こしているのか。
……弁当のせいにするのは無理がある。二回目だ。




