第10話 大切なものは、目には見えない
「湊」
翔太が背後からぬっと現れた。
「……驚かすな」
「お前、さっきからずっと御堂のこと見てたぞ。顔、ちょっと怖かったけど」
「見てない。あっちの方向をぼんやり見てただけだ」
「あっちの方向って、思いっきり鮎川さんと御堂がいる方向じゃん」
「偶然だ」
「偶然ね。はいはい」
翔太がにやにやしている。こいつ、こういうとき本当に鬱陶しい。
「なあ湊。お前さ、鮎川さんのこと気になってるだろ」
直球。ど真ん中ストレート。
オレは一瞬だけ言葉に詰まった。
一瞬だけ。でもそれで十分だった。翔太の目が獲物を見つけた猫みたいに光る。
「気になってない。困ってる奴を放っておけないだけだ」
「出たよ、鈍感系主人公みたいな常套句。『放っておけない』って、それが気になってるってことなんだよ」
「違う」
「じゃあ聞くけど、御堂が鮎川さんと喋ってるの見て、何も感じなかった?」
「……何も」
「嘘つけ。お前、さっき眉間にしわ寄ってたぞ。死んだ魚の目に、初めてしわが入った歴史的瞬間だった」
「入ってない」
「入ってたって。オレの目は確かだからな」
翔太がけらけら笑う。
「まあ、気になるってのは悪いことじゃないだろ。鮎川さん、いい子じゃん。かわいいし、明るいし、頭いいし」
「だから、気になってないって」
「はいはい。死んだ目で嘘つくの、お前ほんと下手だよな」
下手。
嘘が下手。
……否定できないのが悔しい。
家に帰って、部屋でスマホを触っていた。
いつもならゲームをするか、動画を見るか、何もしないで天井を眺めるかのどれかだ。
でも今日は、違うことをした。
検索窓に、指が勝手に文字を打ち込んでいた。
『シェイクスピア 喜劇 入門』
……何をやっているんだ、オレは。
別に興味があるわけじゃない。ただ、鮎川と凛が楽しそうに話していたのが少しだけ引っかかっていて――いや、引っかかってはいない。ほんの少し、気になっただけだ。会話に参加したいわけじゃない。ただ、隣の席の人間が好きなものくらい、知っておいても損はないだろう。
検索結果をスクロールする。
シェイクスピアの喜劇は全部で一四作品あるらしい。代表作は『夏の夜の夢』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』。共通しているのは、恋愛を軸にしたドタバタ劇であること。勘違い、すれ違い、変装、入れ違い――そういったハプニングが重なって、最後はみんな幸せになる。
鮎川が言っていた通りだ。ラブコメだ。四〇〇年前のラブコメ。
さらにスクロールすると、『ヴェニスの商人』の解説が出てきた。
「恋は盲目」の台詞は、ジェシカという女性キャラクターのものらしい。父親の元から恋人のもとへ駆け落ちする場面で発せられる言葉。恋に夢中になって、自分の行動の愚かさが見えなくなる――という意味。
ほかにも気になるフレーズがあった。
「外見で人を判断してはいけない」――これも『ヴェニスの商人』の台詞らしい。物語の中で、三つの箱の中から正しい箱を選ぶ試練がある。金の箱、銀の箱、鉛の箱。派手な金の箱を選んだ者は外れで、地味な鉛の箱を選んだ者が当たり。
見かけに騙されるな。大切なものは、目には見えない。
……どこかで聞いたことのある話だ。
そうだ、『星の王子さま』だ。「大切なものは、目に見えないんだよ」。小学生のとき図書室で読んだ記憶がかすかにある。
シェイクスピアもサン=テグジュペリも、同じことを言っている。
目に見えるものが全てじゃない。
目が見えない鮎川は、それを身をもって知っている。目が見えすぎるオレは、それを知らなかった。
恋は盲目。
Love is blind.
鮎川は笑っていた。「わたし、恋する前からもう盲目なんだから」と。
それは自虐なんかじゃなかった。鮎川愛は、自分の「見えない」ことを、弱さだとは思っていない。むしろ、自分の一部として自然に受け入れている。
オレはどうだろう。
「死んだ目」を、自分の一部として受け入れているだろうか。
……受け入れている、のかもしれない。少なくとも、抗ったことはない。ただ、受け入れているのと、認めているのは違う。オレは死んだ目に慣れているだけで、それでいいとは思っていない。
でも、何がいいのかもわからない。
目が生き返ったら、世界はどう見えるんだろう。今と何が違うんだろう。
――そんなことを考えている時点で、何かが変わり始めているのかもしれない。
以前のオレなら、そんなことを考えもしなかった。
スマホを閉じて、ベッドに転がった。
天井。蛍光灯。蜘蛛の巣はこの前掃除した。カーテンが風に揺れて、窓の外から子供の笑い声が聞こえる。
見える世界。聞こえる世界。
鮎川には、聞こえる世界しかない。でもその世界は、オレが思っていたよりもずっと広くて、ずっと色鮮やかだ。
オレには見える世界がある。でもその世界は、薄いフィルター越しで、色あせている。
見えない世界と、見えすぎる世界。
どっちが本当に「見えている」のかは、まだわからない。
翌朝。
教室に入ると、鮎川がすでに席についていた。白杖を机に立てかけて、イヤホンで何かを聴いている。
オレが隣の席に座ると、鮎川はすぐにこちらを向いた。イヤホンを外しながら。
「おはよう、鈴木くん」
「……おはよ。早いな」
「うん。お母さんが早めに送ってくれたの。鈴木くん、足音でわかったよ」
「足音?」
「鈴木くんの足音、ちょっと特徴があるの。歩幅が一定で、かかとからつま先に体重が移る音が静かなの。忍者みたい」
「忍者……」
「褒めてるんだよ」
「褒められてる気がしない」
鮎川がくすくす笑う。
この子といると、朝から妙に調子が狂う。死んだ目に忍者の足音。褒めてるんだかけなしてるんだか。




