第11話 見えない世界と、見えすぎる世界
「ねえ、鈴木くん」
「ん」
「昨日ね、思ったんだけど。鈴木くんって、景色を言葉にするのがすごく上手だよね」
「……別に上手じゃない」
「上手だよ。この前も言ったけど、だいたいみんな『普通の道』とか『特に何もない』で終わっちゃうの。でも鈴木くんは、猫のしっぽとか、はぐれもののスズメとか、木漏れ日の万華鏡とか、そういう細かいところまで教えてくれる」
「……見えてるから、言ってるだけだ」
「それがすごいんだよ。見えてるものを全部言葉にできる人って、なかなかいないの」
鮎川が真剣な顔で――目は閉じているけど、表情が真剣なのは口元でわかる――続けた。
「わたしね、ずっと思ってたことがあるの。目が見える人って、見えることに慣れすぎてて、見えてるものを当たり前だと思ってる。だから言葉にしない。言葉にする必要がないから」
「……まあ、そうかもな」
「でも鈴木くんは違う。鈴木くんは、目が死んでるって言われてるけど、わたしに景色を話してくれるとき、すごくちゃんと見てる。それってすごいことだよ」
すごいこと。
そうなのか。オレはただ、聞かれたから答えているだけなのに。
「鈴木くん」
「ん」
「鈴木くんの目は、死んでなんかないと思うよ」
心臓が、一回だけ大きく跳ねた。
比喩じゃなくて、物理的に。ドクン、と。
死んでなんかない。
一六年間、ずっと「死んだ目」だと言われ続けてきた。母さんにも、翔太にも、クラスメイトにも、通りすがりの知らない人にも。
でも鮎川は――目が見えない鮎川は――オレの目は死んでいないと言った。
「……何でそう思うんだ」
「だって、死んだ目の人は、あんなにきれいな言葉で景色を描けないもん。鈴木くんの目は、ちゃんと世界を見てるよ。ただ、それを外に出すのが苦手なだけ。きっとそうだよ」
返す言葉が見つからなかった。
喉の奥が、きゅっと締まった。
泣きそう――いや、オレは泣かない。泣いたことなんて、記憶にあるかぎりでは一度もない。感動的な映画を観ても泣けないオレが、こんなところで泣くはずがない。
でも。
喉の奥のきゅっとした感覚は、確かにそこにあった。
「……鮎川」
「ん?」
「人の内面を見抜くのが趣味なのか」
「趣味じゃないよ。ただ、見えないから、聞こえるものに敏感なだけ。鈴木くんの声はね、景色を教えてくれるとき、ちょっとだけ温度が変わるんだよ。少しだけあったかくなる。死んだ目の人の声が、あったかくなるわけないでしょ?」
声の温度。
そんなものを聞き分けるのか、この子は。
見えない世界で生きている鮎川には、オレの「見えすぎる世界」では感じ取れないものが、はっきりと聞こえている。
声のトーン。足音のリズム。言葉の温度。
目じゃないもので、人を見ている。
チャイムが鳴って、朝のホームルームが始まった。
藤原先生が連絡事項を伝えている。来月の中間テストのスケジュール、委員会の募集。
オレはそれをぼんやり聞きながら、さっきの鮎川の言葉を反芻していた。
『鈴木くんの目は、死んでなんかないと思うよ』
嘘じゃなかった。鮎川は嘘をつくような人間じゃない。思ったことをまっすぐに言う。それが鮎川の強さであり、怖いところでもある。
オレの目は、死んでいないのか。
死んでいないとしたら、今まで「死んでいる」と言ってきた周りの全員が間違っていて、目の見えない鮎川だけが正しいことになる。
それはあまりにも――あまりにも、皮肉な話だ。
目が見えない子だけが、オレの目が生きていると気づいた。
見えない世界と、見えすぎる世界。
その境界線の上で、オレたちは隣り合って座っている。
昼休み。
今日は翔太が「お前ら二人で食えよ」と気を利かせて食堂に行ったので、オレと鮎川は二人で弁当を食べていた。
凛もいつもの席で文庫本を読んでいたが、ふと顔を上げて声をかけてきた。
「鮎川さん、今度の週末、シェイクスピアの朗読劇があるの。音声ガイドはないけど、朗読だから台詞だけで楽しめると思う。興味ある?」
「え、行く行く! 何の演目?」
「『夏の夜の夢』」
「大好き! 妖精パックが最高なんだよね!」
「……あんたと趣味合うの、ちょっと複雑」
「えー、いいじゃん。一緒に行こうよ、凛ちゃん!」
鮎川が凛の手を取ってぶんぶん振る。凛は迷惑そうな顔をしながらも、振りほどかない。
……あいつら、もう完全に友達だな。
オレは弁当の卵焼きを箸でつつきながら、その光景を眺めていた。
鮎川と凛のシェイクスピアトーク。楽しそうだ。妖精がどうとか、恋の媚薬がどうとか、ロバの頭がどうとか。何を言ってるのかさっぱりわからない。
でも、わからないなりに――鮎川の声を聞いているのは、嫌じゃなかった。
内容はわからなくても、鮎川の声には温度がある。好きなものを語るときの、きらきらした温度。
それを聞いているだけで、なんとなく――ほんとになんとなく――耳が温かくなる気がした。
ふと、鮎川がこちらを向いた。
「鈴木くんも、よかったら一緒に行く? 朗読劇」
「え、オレ?」
「うん。シェイクスピア、ちょっと興味あるんでしょ?」
「……別に興味ない」
「嘘。昨日、スマホでシェイクスピアって検索してたでしょ」
凍りついた。
なんで知ってるんだ。この子、目が見えないんじゃなかったのか。
「……なんでわかった」
「鈴木くんのスマホ、タッチ音がオンになってるの。昨日の放課後、鈴木くんがスマホ触ってたとき、入力の音が聞こえたの。『シ、ェ、イ、ク、ス、ピ、ア』って」
「……お前の耳、やばすぎないか」
「えへへ」
凛が「盗聴レベルね」とぼそっと呟いた。鮎川が「盗聴じゃないよ、自然に聞こえただけだよ!」と慌てる。
オレはその場で、静かにスマホのタッチ音をオフにした。
今後は気をつけよう。この子の前では、あらゆる音が筒抜けだ。
「で、朗読劇、どう?」
「……考えとく」
「やった! 『考えとく』は、鈴木くんの場合、五〇パーセントくらいの確率で来てくれるって意味でしょ」
「なんでパーセントまで出てくるんだよ」
「声のトーンで分析しました」
「……怖いな、お前」
鮎川が笑う。凛がため息をつく。
オレは弁当の最後のおかずを口に入れながら、朗読劇のことをぼんやり考えていた。
シェイクスピア。四〇〇年前のラブコメ。妖精とロバと恋の媚薬。
わからないことだらけだ。でも、鮎川の隣でそれを聴くのは――たぶん、悪くない。
見えない世界は、こんなにも声にあふれている。
見えすぎる世界は、こんなにも声を聞き逃している。
オレは今まで、何を聞いていたんだろう。
何を見て、何を聞いて、何を感じて生きてきたんだろう。
そんなことを考えながら、卵焼きを口に運んだ。
母さんの卵焼きは、今日もほんのり甘かった。
その甘さが、今日は少しだけ――いつもよりはっきりと、舌の上で感じられた。
鮎川のおかげで、目が少しずつ開いてきている。
翔太の言葉を借りるなら、「鮎川さん効果」。
死んだ魚の目が、少しずつ水のきらめきを映し始めている。
まだ微かな光だ。死んだ目が生き返るには、きっとまだ時間がかかる。
でも――確かに、何かが変わり始めている。
見えない世界と、見えすぎる世界。
その二つの世界が重なる場所に、オレたちはいる。




