第12話 夕焼けの色
五月に入った。
空気が変わった。四月のどこか頼りない春とは違う、はっきりとした温度を持った風が吹くようになった。街路樹の若葉はもう黄緑じゃなくて、しっかりとした緑に変わっている。日が長くなって、六時を過ぎてもまだ明るい。
ゴールデンウィークが明けて、学校生活も本格的に動き出した。中間テストの話がちらほら出始めて、クラスの空気が少しだけ引き締まっている。もっとも、オレの空気は相変わらず弛緩しっぱなしだけど。
オレと鮎川の「一緒に帰る」は、もう誰も何も言わないくらいの日常になっていた。
翔太が途中まで一緒に歩いて、交差点で別れる。そこから先は二人。白杖のリズムとオレの足音が、住宅街の夕暮れに重なる。
毎日同じ道を歩いて、毎日違う景色を言葉にする。
花が咲いた、猫が増えた、雲の形が変わった、洗濯物が布団に変わった、小学生が半袖になった。
そんな些細な変化を、オレは拾い上げる。鮎川に聞かれる前に気づくようになったのは、いつからだろう。今日はこれを伝えよう、と帰り道に周囲を見回すのが習慣になっている。
見えすぎるほど見えるこの目が、ようやく本来の仕事を覚えたみたいだった。
その日の放課後も、いつも通りだった。
翔太と別れて二人きりになり、住宅街の道を歩いている。五月の空は高くて、雲が少なくて、嫌味なくらい晴れていた。
鮎川がふと、立ち止まった。
白杖を体の横に添えて、空に顔を向ける。閉じた目がわずかに細まって、眉のあたりにほんのりと影ができる。
「ねえ、鈴木くん。今、夕焼け?」
「……ん? どうしてわかった」
「顔があったかい。太陽の方向から熱が来てるの。でも朝や昼の太陽とは違う角度で、ここに当たってるから」
鮎川が自分の頬を指さした。
太陽の角度と熱の当たり方で、時間帯を判断しているのか。相変わらず、とんでもない感覚だ。
オレは空を見上げた。
「ああ、すごい夕焼けだ」
思わず、声が出た。
空全体が燃えていた。
西の空がオレンジ色に染まっていて、そのオレンジが上に行くにつれて赤みを帯びていく。さらに上のほうは、赤が紫にグラデーションして、空の端にはまだ青が残っている。雲がいくつか浮かんでいて、その裏側まで光が透けて、輪郭が金色に縁取られている。
きれいだ。
……と、思った。
素直に、そう思った。
普段のオレなら「夕焼けだな」で終わるところが、今日は違った。色の一つ一つが目に飛び込んでくる。オレンジの中にも濃いところと薄いところがあって、赤と紫の境目はどこから始まるのか曖昧で、空の青はもう半分くらいオレンジに侵食されていて――。
見えすぎるこの目が、今、夕焼けの色をちゃんと受け止めている。
「すごいって、どんな夕焼け? 教えて」
「空全体がオレンジだ。端のほうが紫になってて、その間に赤が混ざってる。雲が金色に光ってる」
「オレンジ……」
鮎川がその言葉を噛みしめるように繰り返した。
それから、少し首をかしげる。
「ねえ、鈴木くん。夕焼けってどんな色? オレンジって、あったかい色なんでしょう?」
質問の意味を理解するのに、一瞬かかった。
そうだ。鮎川は色を知らない。
生まれつき目が見えないということは、色を見たことが一度もないということだ。「オレンジ」という名前は知っていても、それがどんな色なのかは知らない。赤も青も黄色も緑も、全部ただの名前にすぎない。
色を見たことがない人に、色をどう伝えればいいんだ。
「オレンジはオレンジだ」なんて答えは意味がない。「あったかい色」という表現だって、鮎川自身が誰かから教わった知識にすぎない。
オレは言葉に詰まった。
何て言えばいい。どう説明すればいい。
目に映る色を、目が見えない人に伝えるには――。
しばらく、考えた。
五秒、一〇秒。鮎川は急かさずに待っていてくれた。閉じた目を空に向けて、太陽の熱を顔に受けながら。
そのとき、ふと思いついた。
色を色として伝えるんじゃない。色を、感覚として伝えればいいんだ。
「……太陽の光を、手のひらで受けてみろ」
「手のひら?」
「ああ。空に向けて」
鮎川が右手のひらを空に向けた。夕陽の光が、その白い手のひらに降り注ぐ。
「あったかい」
「それだ。その、手のひらに感じるあったかさ。それが、オレンジだ」
「……あったかさが、オレンジ」
「ああ。太陽の光を手のひらで受けたときに感じる、あのじんわりしたあったかさ。焼けるほど熱くはなくて、でもはっきりと温度があるやつ。あれがオレンジの色だと思う」
鮎川は手のひらを空に向けたまま、じっと太陽の温度を感じていた。
「紫は」
「紫は……そのあったかさが、少し冷たくなっていく感じ。手のひらに日が当たってるんだけど、風が吹いてきて、ちょっとだけ冷える。あったかさの中に冷たさが混ざる。あの感覚が、紫だと思う」
「あったかさの中に、冷たさが混ざる……」
「ちょうど今、風が吹いてきただろ。それだ」
タイミングよく、夕方の風が吹いた。
鮎川の髪がふわりと揺れる。手のひらに太陽のあたたかさ。頬に風の冷たさ。
あったかくて、ちょっと冷たい。
オレンジから紫へのグラデーション。
「……すごい。わかる気がする。オレンジは、あったかい。紫は、ちょっと寂しい」
「寂しい?」
「うん。冷たさって、少し寂しい感じがしない? あったかさが遠ざかっていくみたいで」
寂しい色、紫。
なるほど。そういう解釈もあるのか。オレにとって紫はただの紫だったけど、鮎川にとっては「あったかさが遠ざかっていく寂しさ」だ。
目に見える色と、肌で感じる色。
どっちが本当の色なのかは、わからない。でも、鮎川の「寂しい紫」のほうが、オレの「ただの紫」よりもずっと奥行きがある気がした。
鮎川が目を閉じたまま空に顔を向けて、微笑んだ。
夕焼けの光が、その横顔を染めている。
白い肌がオレンジ色に照らされて、閉じたまつげの影が頬の上に長く伸びている。唇の輪郭が光に縁取られて、横顔全体がひとつの絵画みたいだった。
「すごくきれいなんだろうね。今の空」
きれいだ。
空が。夕焼けが。そして――。
この子に色を伝えるために、オレは初めて夕焼けの色をちゃんと見た気がする。「きれいな夕焼けだな」で終わらせずに、色を分解して、温度に変換して、言葉にした。
オレの目は死んでるはずなのに。
今、目の前の景色がやけにきれいに見える。
空も。雲も。光も。
そして、夕焼けに照らされたこの子の横顔も。
――やけにきれいだと思ったのは、たぶん景色だけじゃなかった。
でもそのことには、まだ気づかないふりをしておく。




