第13話 目じゃない目を開かせる
しばらく二人で黙って、夕焼けを眺めていた。
正確に言えば、オレが眺めていた。鮎川は目を閉じたまま、顔に感じる温度で夕焼けを「見て」いた。
空の色が少しずつ変わっていく。オレンジが赤に寄って、紫の領域が広がって、東の空から夜が忍び寄ってくる。
鮎川が口を開いた。
「鈴木くん」
「ん」
「鈴木くんが教えてくれる景色、わたし好きだよ」
また、好き。
この子はなんでこんなに簡単にその単語を使うんだ。
「鈴木くんの目は死んでるかもしれないけど、鈴木くんの言葉はすごく生きてる。わたし、鈴木くんの言葉で見る景色が一番好き」
一番好き。
景色の話だ。オレの言葉で見る景色が好きだと言っている。それ以上の意味はない。
ないはずなのに、胸の奥がざわついた。
ぎゅっと握りつぶしたみたいな、苦しいような、くすぐったいような、形容しがたい感覚。
「……じゃあな」
それだけ言って、別れた。
いつもの別れ道。いつもの「じゃあな」。
でも今日は、足が重かった。もう少し一緒に歩いていたかった、なんてことは、絶対に思っていない。思ってない。
家に帰ってベッドに倒れ込んでも、胸のざわつきは消えなかった。
天井を見つめる。蛍光灯の白い光。さっきまで見ていた夕焼けのオレンジとは正反対の、冷たい白。
なのに、瞼の裏にはまだ夕焼けが残っている。
オレンジの光に照らされた、鮎川の横顔。
閉じた目。長いまつげの影。「鈴木くんの言葉はすごく生きてる」。
……何なんだ、この感覚は。
わからない。わかりたくない。
でも、わからないことが、少しだけ怖い。
死んだ魚は、怖いなんて感覚を持たないはずなのに。
スマホを手に取った。翔太にメッセージを打つ。
『なあ翔太。胸がざわざわするときって、何の病気だと思う?』
『は? 急にどした。不整脈か?』
『いや、そういうのじゃなくて。特定の場面でだけざわつくんだけど』
『特定の場面って?』
『帰り道で鮎川と話してるとき』
『お前マジか』
『何だよ』
『いや、それ病気じゃねえよ。診断名つけてやるよ。恋だ恋』
『は?』
『恋です。以上。おやすみ』
恋。
翔太は簡単にそう言った。
でもオレにはその言葉がしっくりこない。恋ってもっとこう、ドキドキするとか、相手のことが頭から離れないとか、そういうわかりやすいやつだろう。
オレのは――ざわつきだ。胸の奥がもやもやする感じ。名前をつけるには曖昧すぎる。
翔太の診断は無視することにした。あいつの恋愛偏差値はオレと同じくらい低いはずだ。信用ならない。
スマホを枕元に置いて、また天井を見た。
蛍光灯の白い光。さっきの夕焼けのオレンジとは全然違う。
でも今、オレの目に映っているのは蛍光灯じゃなくて――夕焼けの中で笑った鮎川の横顔だった。
数日後の昼休み。
鮎川がオレに「今日、屋上に行かない?」と誘ってきた。
私立三波高等学校の屋上は、昼休みと放課後に開放されている。景色がいいらしいが、わざわざ階段を上がって行く生徒は少ない。たいていは空いている。
「なんで屋上?」
「高いところの風を感じたいの。教室の風と、屋上の風って全然違うんだよ」
「……風に違いがあるのか」
「あるよ。教室の風は人の匂いとか給食の匂いが混ざってるけど、屋上の風はもっと遠くから来るの。山の匂いとか、空の匂いがする」
「空に匂いなんてあるのか」
「あるよ。鈴木くんも屋上に行けばわかるよ」
断る理由もなかった。というか、断りたくなかった。その自覚はある。
鮎川は白杖を頼りに階段を上がる。オレは少しだけ前を歩いて、段差の数を声に出して教える。「あと三段」「踊り場」「また上り。あと八段」。
こういうことが自然にできるようになっていた。最初は意識してやっていたけど、今はもう考えなくてもやっている。鮎川の歩幅に合わせて歩くのも、段差の手前で一拍置くのも、体が勝手に覚えていた。
屋上に出ると、五月の風が一気に吹き抜けた。
昼休みの屋上には、オレたち以外に誰もいなかった。フェンスの向こうにはグラウンドが広がっていて、その先に住宅街と山の稜線が見える。空は抜けるように青い。
鮎川がフェンスの近くまで歩いて、風を全身に受けた。
髪が風に踊る。制服のリボンがはためく。閉じた目が少しだけ細まって、気持ちよさそうに息を吸う。
「……いい風。高い場所の風って、地上の風と全然違うの」
「違うのか」
「うん。地上の風は色んな匂いが混ざってるけど、高い場所の風は透明なの。余計なものが削ぎ落とされた感じ。好き」
「透明な風、か」
オレには風の匂いの違いなんてわからない。でも、鮎川の感覚を通して聞くと、なんとなく理解できる気がする。たしかに屋上の風には、地上のような排気ガスや食べ物の匂いがない。ただ、空の匂いだけがする。
空に匂いなんてあるのか。
あるとしたら、今日の空は何の匂いだろう。
――こんなことを考えるようになったのも、全部鮎川のせいだ。
フェンス際のベンチに二人で座った。弁当を広げて、いつもの昼食。
鮎川が卵焼きをつまみながら、唐突に話し始めた。
「ねえ、鈴木くん。この前、古典の授業でやった『恋は盲目』の話、覚えてる?」
「……ああ。Love is blind」
「覚えてるんだ。嬉しい」
「まあ、お前があれだけ盛り上がってたからな。忘れようがない」
「えへへ。あのね、もう少し詳しく話していい?」
「……聞くだけなら」
鮎川が弁当箱を膝の上に置いて、いつもの「シェイクスピア語りモード」に入った。目を閉じたまま、どこか遠くを――いや、遠くは見えないのだから、遠くの何かを感じながら、語り始める。
「『恋は盲目』って言葉、シェイクスピアの中では、ネガティブな意味で使われてるの。恋をすると理性がなくなって、相手の欠点が見えなくなる。バカになる。愚かになる。そういう意味」
「ああ、この前そう言ってたな」
「でもね、わたしは思うの」
鮎川がこちらに顔を向けた。閉じた目がまっすぐオレを向いている。見えていないはずなのに、真正面から見つめられている感覚がある。
「本当の恋は、盲目なんかじゃないと思う」
「……どういう意味だ」
「恋をすると目が見えなくなるんじゃなくて、目じゃないもので相手を見るようになるんだと思うの」
目じゃないもので、見る。
鮎川は続けた。
「わたしは目が見えない。だから、最初から目じゃないもので世界を見てる。声のトーン、言葉の選び方、足音のリズム、息づかい、体温。そういうもので、人がどんな人かわかるの」
「……前にも言ってたな」
「うん。でもね、それって、恋をしている人と似てると思うの。恋をすると、相手の見た目とか外見とかじゃなくて、もっと奥のほうを見ようとするでしょ? 声の震え方とか、言葉の裏にある気持ちとか。そういう、目に見えないものを。恋は盲目なんじゃなくて――恋は、目じゃない目を開かせるんだよ」
目じゃない目。
心の目、ということだろうか。
鮎川の言葉は、いつもストレートだ。難しい哲学を語っているわけじゃない。自分の実感を、自分の言葉で話しているだけだ。
でも、それがオレには刺さる。刺さりすぎるくらい刺さる。
「じゃあ、鮎川は……最初から恋をしてる人と同じ目で世界を見てるってことか」
「あはは、そう言われるとなんか恥ずかしいね。でも、そうかもしれない。わたしは最初から、目じゃないもので見てるから」
鮎川が照れたように笑った。頬がほんのり赤い。
オレは少し迷ってから、聞いた。




