第14話 あったかさ
聞くべきじゃなかったのかもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。
「じゃあ……鮎川から見て、オレはどう見えてる?」
鮎川が動きを止めた。
箸を持ったまま、少しだけ首をかしげる。
五秒。一〇秒。
長い沈黙だった。屋上の風だけが吹いている。
「鈴木くんは」
鮎川がゆっくりと口を開いた。
「すごく優しい人」
「……それは買いかぶりだ」
「買いかぶりじゃないよ。自分じゃそう思ってないかもしれないけど、声を聞いてたらわかるの」
鮎川が弁当箱を横に置いて、両手を膝の上に揃えた。真剣な表情。
「鈴木くんの声はね、普段はすごく平たいの。感情の起伏が少なくて、淡々としてる。海の底みたいに、静か」
「……初日にも言ってたな。海の底」
「うん。でもね、わたしに景色を話してくれるとき、鈴木くんの声は変わるんだよ」
「変わる?」
「ちょっとだけ高くなるの。ほんの少しだけ。たぶん鈴木くん自身は気づいてないと思うけど。言葉を選ぶスピードが変わって、声のトーンが上がって、息継ぎの間隔が短くなる。一生懸命伝えようとしてるのが、声に出てるの」
そんなの、自分じゃ気づかない。
でも鮎川には聞こえている。オレの声の中の、オレ自身が知らない変化が。
「それにね、鈴木くんの声にはあったかさがあるの。夕焼けの色を教えてくれたとき、木漏れ日の話をしてくれたとき、猫のしっぽの話をしてくれたとき。全部、声があったかかった。死んだ目の人が出す声じゃないよ、あれは」
オレは黙っていた。
何も言えなかった。
自分の内面をこんなに正確に言い当てられたのは、一六年の人生で初めてだ。母さんも、翔太も、誰もオレの中にある「あったかさ」なんて見つけてくれなかった。見えすぎる目を持つ全員が見逃していたものを、見えない目を持つ鮎川だけが見つけた。
「鈴木くんは、優しい人だよ。景色を教えてくれるのだって、わたしに頼まれたからじゃなくて、鈴木くん自身がわたしに見せたいと思ってくれてるからでしょ?」
「……それは」
「違う?」
「……違わない、かもしれない」
正直に答えた。取り繕う気力がなかった。
鮎川に景色を伝えるとき、オレは確かに「伝えたい」と思っている。見えないあの子に、オレが見ている世界を届けたいと思っている。いつからそう思い始めたのかはわからないけど、今は確かに、そう思っている。
「ほらね。優しい人」
鮎川が笑った。
風が吹いて、鮎川の髪が揺れた。屋上の昼下がり。五月の青い空。
――オレの目は死んでいるらしい。あの子の目は見えないらしい。
でも、あの子のほうがオレよりずっとよく見えている。
オレが必死に世界を見ようとしているのを、あの子は声だけで見抜いている。
見えない目のほうが、ずっと遠くまで届いている。
それは悔しいはずなのに、不思議と――うれしかった。
その日の帰り道は、あまり喋らなかった。
鮎川はいつもの調子で「今日はどんな景色?」と聞いてくれたけど、オレの頭は屋上での会話でいっぱいだった。景色を言葉にしようとしても、いつもよりうまくいかない。
別れ際に鮎川が「鈴木くん、今日は声が低いね。何か考えごと?」と聞いてきたから、「別に」とだけ答えた。
声の高さで考えごとがバレるのか。ほんとに、この子の前では隠しごとができない。
家に帰って、今度は検索窓に『ヴェニスの商人 あらすじ』と打ち込んだ。
タッチ音はオフにしてある。鮎川はここにはいない。でもなんとなく、癖で指の動きが静かになった。
あらすじを読んでみた。
友情のために自分の肉を担保にする男。金の箱、銀の箱、鉛の箱を選ぶ試練。恋のために駆け落ちする娘。法廷で知恵を使って友を救う妻。
確かに――ラブコメだ。波瀾万丈で、ハチャメチャで、でも根っこには愛がある。
そして、あの有名な台詞。
『恋は盲目』
鮎川はそれを「目じゃない目を開かせる」と解釈した。
四〇〇年前の劇作家の言葉を、目が見えない一六歳の女の子が塗り替えた。
……かっこいいな、と思った。
素直に、そう思った。




