第15話 三種類の音
翌週。その日は朝から雲が多かった。
天気予報は「午後から雨」と言っていたけど、昼休みの時点ではまだ降っていなかった。空は灰色がかっていて、太陽が雲の向こうでぼんやり光っている。
六時間目が終わった放課後、オレと鮎川はいつものように校門を出た。
翔太は今日はサッカー部の練習で残っている。二人きりの下校は久しぶりだった。
「鈴木くん、今日の空は?」
「灰色。雲が厚くて、太陽がどこにあるかわからない。ちょっとじめっとしてる」
「雨、降りそう?」
「天気予報は午後からって言ってたけど……まだ大丈夫そうだ」
そう言った三分後、世界が一変した。
ぽつ。
頬に、冷たい雫が一粒。
次の瞬間、空が割れたみたいに大粒の雨が降り始めた。
「うわっ――」
「きゃっ」
突然の夕立。さっきまでの曇り空が嘘のように、バケツをひっくり返したような豪雨が襲ってきた。
オレは咄嗟に鮎川の手を引いた。
「走るぞ!」
「え、どこに!?」
「学校の渡り廊下! まだ近い!」
鮎川の白杖がガタガタと地面を叩く。走るには不向きだとわかっていたから、オレは鮎川の手をしっかり握って、できるだけ揺れないように引っ張った。
校門から校舎の渡り廊下まで、全力で走って三〇秒くらい。たったそれだけの距離で、二人ともずぶ濡れになった。
渡り廊下の屋根の下に滑り込んで、肩で息をする。目の前を、雨のカーテンが轟々と落ちている。
「はあ……はあ……セーフ」
「鈴木くん、大丈夫? 息、すごいよ」
「お前も同じだろ……」
「あはは、そうだね」
鮎川が息を整えながら笑った。髪から雨粒が滴って、制服の肩が黒くなっている。
オレは――そこで、ようやく気づいた。
手。
まだ、鮎川の手を握っていた。
走るときに掴んだ手を、屋根の下に入ってからもずっと離していなかった。
鮎川の手は小さくて、少し冷たくて、でも柔らかかった。雨に濡れて指先がひんやりしている。
心臓が跳ねた。
ぱっと手を離す。
「わ、悪い」
「え? 何が?」
「いや、手……」
「ああ、引っ張ってくれたんでしょ? ありがとう。おかげで転ばなかったよ」
鮎川はまったく気にしていない様子だった。手を握られていたことに特別な意味を見出していないらしい。
……助かった。オレの心臓だけが勝手に騒いでいたことが、バレなくて済んだ。
渡り廊下のコンクリートに座り込んで、雨が止むのを待つことにした。
すぐ目の前を、雨の壁が落ちている。校庭はあっという間に水浸しで、あちこちに水たまりができている。雨粒が水たまりに当たるたびに、小さな王冠みたいな水しぶきが上がる。
「すごい雨」
鮎川が耳を澄ませて言った。
「地面に当たる音と、屋根に当たる音が全然違うの」
「違うのか」
「うん。地面に当たるのは低い音。ばしゃばしゃって感じ。屋根に当たるのは高い音。ぱらぱらって感じ。今、二種類の音楽が鳴ってる」
「二種類の音楽か」
「うん。あ、今、排水溝を水が流れる音もしてる。これは中くらいの音。ごぼごぼって。三種類だ」
二種類の音楽。
オレには雨はただの「ざあざあ」にしか聞こえない。でも鮎川の耳には、地面と屋根と排水溝で三種類の音が聞こえている。
もう驚かない。この子の耳は、いつだってオレの目を超えてくる。
鮎川が両膝を抱えて、雨音に耳を傾けている。濡れた髪が頬に張りついていて、閉じた目の周りにも雨粒が残っている。涙みたいに見えた。
ふと、鮎川が小さくくしゃみをした。
「大丈夫か。濡れたからな」
「うん、平気。ちょっと冷えただけ」
オレは自分の鞄からタオルを出した。体育の授業用にいつも入れてある、使い古しのスポーツタオル。
「ほら。頭だけでも拭け」
「ありがとう。……あ、鈴木くんの匂いがする」
「え?」
「タオルに。石鹸の匂いと、鈴木くんの匂い」
「匂いの話はやめろ」
鮎川がくすくす笑いながらタオルで髪を拭いた。
オレは自分の制服の袖で顔の雨粒を拭った。タオルは一枚しかない。まあ、オレは別にいい。
「鈴木くん、今どんな景色?」
「灰色の空と、雨の壁。校庭が水たまりだらけで、雨粒が跳ねてる。……あんまりきれいな景色じゃない」
「雨の景色もきれいだと思うけどな」
鮎川が微笑む。
「鈴木くんが言葉にしてくれたら、わたしにはきれいに見えるよ」
――反則だ。
そういうことを、さらっと言うのは反則だ。
オレが言葉にすれば、どんな景色もきれいに見える。それは褒め言葉なのか、おだてなのか、それとも――。
考えるのをやめた。考えると、胸のざわつきがひどくなる。




