第16話 虹の形
一五分ほど経って、雨が止んだ。
嘘みたいに、あっさりと。
さっきまでの豪雨がなかったかのように、雲の切れ間から夕方の日差しが射し込んできた。濡れた校庭がきらきら光って、空気が一変する。雨上がりの匂いがした。土と草と、どこかから漂う花の甘い匂い。
オレは何気なく空を見上げた。
そして――息が止まった。
「……虹だ」
声が、勝手に出た。
「え、虹!?」
鮎川が弾かれたように立ち上がった。
「どこ? どのへん?」
「校舎の向こう。東の空に出てる。でかい。端から端まではっきり見える」
大きな虹だった。
片方の端が校舎の屋上のあたりから始まって、空を大きく横切って、反対側の住宅街の向こうに消えている。七色がくっきりと帯になって、灰色がかった空に架かっている。
きれいだ。
素直にそう思えたのは、鮎川が隣にいるからだろうか。景色を伝える相手がいるだけで、世界はこんなに鮮やかに見える。
「色は……外側から赤、オレンジ、黄色、緑、青、藍、紫。七色が帯になって空にかかってる」
「七色! 全部見えるの?」
「ああ、全部はっきり見える。境目もわかるくらいくっきりしてる」
鮎川が空に顔を向けた。閉じた目を空に向けて、見えない虹を探そうとしている。
当然、何も見えない。
でも鮎川は嬉しそうに笑っていた。
「ねえ、虹ってどんな形なの? アーチって言うけど、どのくらいの大きさ? どのくらいの太さ?」
「えっと……空に弧を描いてて……半円みたいな……いや、もうちょっと浅い弧で……」
言葉にできない。
虹の形を言葉で伝えようとしても、「弧」とか「アーチ」とか、抽象的な言葉しか出てこない。弧ってどのくらいの弧なんだ。大きさは。角度は。言葉じゃ足りない。
もどかしい。すごく、もどかしい。
景色を言葉にするのはだいぶ慣れてきたつもりだった。でも、虹は難しい。色は温度で伝えられるけど、形は――。
そのとき、ふと思いついた。
考えるより先に、体が動いていた。
オレは鮎川の右手を取った。
小さくて、まだ少し雨で冷たい手。その手首を軽く持って、人差し指を空に向けさせた。
「え? 鈴木くん?」
鮎川が驚いた声を出す。でもオレは止まらなかった。
鮎川の人差し指を空に向けたまま、ゆっくりと動かし始めた。
左の低いところからスタートして、少しずつ上に弧を描いて、真ん中で一番高くなって、そこから右に向かって下がっていく。虹の端から端まで、鮎川の指先でなぞるように。
「……こういう形だ。左の低いところから始まって、真ん中が一番高くて、右の低いところに降りてく。こんくらいの大きさの弧が、空にかかってる」
鮎川の指先が、空気の中を滑っていく。
オレの手が鮎川の手を支えて、虹の軌跡を描く。
鮎川は――息を飲んだ。
指先が描く弧を、全身で感じ取っている。左から右へ。低いところから高いところへ、そしてまた低いところへ。大きな弧。空いっぱいの弧。
「……大きい」
鮎川が、かすれた声で言った。
「すごく大きいんだね」
その顔には、驚きと、喜びが入り混じっていた。閉じた目の奥で、何かが弾けたみたいな表情。
オレは手を離そうとした。
でも――鮎川のほうが、離さなかった。
オレの手を握ったまま、もう片方の手で上からぎゅっと包み込んだ。
「もう一回やって」
声が震えていた。泣きそうな声じゃない。嬉しすぎて震えている声だった。
オレは――心臓がうるさくなるのを必死に抑えながら――もう一度、鮎川の指で空に弧を描いた。
左から。ゆっくりと。真ん中が一番高くて。右に降りていく。
虹の形。空にかかるアーチ。七色の橋。
それを、オレの手で、鮎川の指先に伝える。
鮎川は目を閉じたまま空を仰いだ。
濡れた髪。雨上がりの澄んだ光。そして――満面の笑顔。
「見えた」
鮎川が言った。
「わたし、今、虹が見えた気がする」
その笑顔を、オレは見ていた。
死んだ目で。
死んでいるはずの目で。
でも今、この瞬間だけは――この目は、完全に生きていた。確信できる。鮎川の笑顔が、くっきりと、色鮮やかに、一ミリのぼやけもなく、オレの網膜に焼きついていた。
夕立の後の澄んだ空気。金色の光。濡れた髪から滴る雫がキラキラ光って、閉じた目のまま空を仰ぐその顔は、今まで見たどんな景色よりもきれいだった。
鮎川がオレの手をそっと離した。
「ありがとう、鈴木くん」
穏やかな声。さっきまでの興奮が少しだけ落ち着いて、静かな余韻に変わっている。
「虹って、思ってたよりずっとあったかい形だった」
「あったかい形?」
「うん。だって、鈴木くんの手で描いてくれたから」
――何も言えなくなった。
言葉が、完全に消えた。
喉の奥が締まって、胸の奥がぎゅっと潰れて、目の奥がじんわりと熱くなった。
泣きそう――いや、泣かない。泣かないけど。
耳が熱い。たぶん赤くなっている。
鮎川にはそれが見えない。
それだけが、今のオレの唯一の救いだった。




