第17話 七色の何か
雨上がりの帰り道。
水たまりを避けながら、二人で並んで歩く。空にはまだ虹が残っていて、少しずつ薄くなりながらも、大きな弧を描いている。
道路のアスファルトが濡れて黒く光っている。街路樹の葉から雫が落ちて、ぽたぽたと音を立てている。雨に洗われた空気は透明で、遠くの山の稜線までくっきり見えた。
鮎川は鼻歌を歌っていた。知らない曲だ。でもきれいなメロディーで、雨上がりの空気によく合っていた。
「何の曲?」
「ドビュッシーの『月の光』。雨上がりに聴くと、すごく合うの」
「クラシック?」
「うん。ピアノ曲。月の光が水面に映って揺れてるみたいな曲なの。今日の水たまりの景色に似てるかなと思って」
「……水たまり見えないだろ」
「想像で見てるの。鈴木くんが教えてくれた景色で」
想像で見ている。
オレの言葉が、鮎川の中で映像になっている。目が見えない世界で、オレの言葉だけが色を持っている。
そう思うと――うまく言えないけど、責任みたいなものを感じた。いい加減な言葉は使えない。この子に届ける景色は、できるだけ正確で、できるだけきれいなものであるべきだ。
水たまりに映った空が揺れている。逆さまの虹が、水面にぼんやり映っていた。
オレは黙って隣を歩いている。
いつもは景色を言葉にするのに、今日は言葉が出てこない。代わりに、頭の中で同じ言葉がぐるぐると回っている。
あったかい形。
鈴木くんの手で描いてくれたから。
あったかい。
……もう、弁当のせいにはできない。
この胸のざわつきは、消化不良でも、風邪でも、気のせいでもない。
何なのかは、まだわからない。
わかりたくない気持ちと、わかりたい気持ちが半分ずつある。
でも。
ひとつだけ、確かなことがある。
別れ道で、鮎川が「じゃあね、鈴木くん。今日は虹が見られてよかった」と笑って手を振った。
オレは「ああ」と短く答えて、鮎川の背中を見送った。
白杖のリズム。かつ、かつ、かつ。
その音が遠ざかっていくのを聞きながら、オレは空を見上げた。
虹はもうほとんど消えかけていた。七色の帯が薄くなって、空に溶けていく。
でも、さっき鮎川の指で描いた弧の感触は、まだ右手に残っていた。
小さくて、冷たくて、でも柔らかかった指。
あの指先に、オレの見ている世界が届いた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がざわついて止まらない。
家に帰って、部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。
制服がまだ少し湿っている。着替えなきゃと思うのに、体が動かない。
天井の蛍光灯。白い光。
でもオレの目に映っているのは、蛍光灯じゃなくて――虹を「見た」と笑った鮎川の顔だった。
右手を天井に向けてかざす。さっき鮎川の手を握った手。虹の弧を描いた手。
手のひらに、まだ鮎川の指の感触が残っている気がする。小さくて、冷たくて、でも柔らかかった指先。
何も特別なことじゃない。目が見えない子に虹の形を教えただけだ。
それだけのことなのに。
母さんが階下から「湊、ごはんよ」と呼んでいる。「今行く」と答えて、やっとベッドから体を起こした。
着替えて、リビングに降りる。食卓には肉じゃがと味噌汁とご飯が並んでいた。
「……あんた、濡れて帰ってきたの? 傘持っていかなかったの?」
「急な雨だった」
「もう。風邪ひくわよ」
「大丈夫」
「……あんた、なんか今日、顔が違うわね」
「え?」
「なんていうか……目が、いつもよりちょっと違う。少しだけ生きてるっていうか」
母さんがまじまじとオレの顔を覗き込む。
勘弁してくれ。翔太に続いて母さんまで。
「気のせいだろ」
「そうかしら。まあいいわ。食べなさい」
肉じゃがを口に運ぶ。いつもの母さんの味。
でも今日は、じゃがいもの甘さがやけにはっきり感じられた。鮎川のせいだ。あの子と出会ってから、オレの感覚が全部敏感になっている。目だけじゃない。耳も、舌も、肌も。
オレの目は死んでいる。
あの子の目は見えない。
でも今日、オレの指があの子の指を動かしたとき、あの子は虹が見えたと笑った。
オレの死んだ目に映る世界が、あの子の指先に届いた。
それだけのことなのに、胸の奥がざわついて止まらない。
この感覚が何なのか、オレにはまだわからない。
でも、ひとつだけわかることがある。
あの子の隣にいると、死んでいるはずのオレの目に、七色の何かが映り始めている。
スマホが震えた。
翔太からのメッセージだ。
『今日雨やばかったな。お前大丈夫だったか?』
『濡れた』
『マジか。傘は?』
『持ってなかった。鮎川も』
『二人でずぶ濡れ? なにそれ、ラブコメじゃん』
ラブコメ。
四〇〇年前のラブコメ作家が書いた言葉が、頭の中でこだましている。
恋は盲目。
Love is blind.
鮎川はそれを「目じゃない目を開かせる」と言った。
オレの目は死んでいる。でも、鮎川の隣にいると、目じゃない何かが開き始めている気がする。
それが何なのかは、まだ名前をつけたくない。
名前をつけたら、もう戻れなくなる気がするから。
翔太にスタンプだけ返して、スマホを置いた。
窓の外に、夕暮れの空が広がっている。
虹はもう消えていた。
でもオレの目の奥には、まだ七色が残っていた。
第1章「恋は盲目(Love is blind)」 了




