第18話 噂の二人
友情はあらゆることにおいて不変だが、恋愛の場面だけは別である——ウィリアム・シェイクスピア『空騒ぎ』
五月も半ばを過ぎると、朝から空気がぬるい。
季節が確実に夏に向かっていて、制服のブレザーがだんだん邪魔になってくる。今朝も家を出てすぐにブレザーを脱いで、腕にかけた。
通学路の景色も変わった。街路樹は完全に緑になり、生け垣のジャスミンはもう咲き終わって、代わりにアジサイが蕾をつけ始めている。梅雨が近い。
鮎川と出会ってから、ひと月半が経った。
ひと月半。たった四五日くらい。なのに、それ以前の日常がもう思い出せない。鮎川がいない帰り道、景色を言葉にしない帰り道。あの頃のオレは何を見て、何を考えて歩いていたんだろう。
たぶん、何も見ていなかった。何も考えていなかった。
死んだ魚のまま、ただ水に流されていただけだ。
いつもの角を曲がると、いつものように翔太が待っていた。
「おはよう、デッドフィッシュ」
「新しいあだ名か」
「英語の方がかっこいいだろ。デッドフィッシュアイ。ほら、なんか技名っぽい」
「全然かっこよくない」
翔太が笑う。いつもの朝。いつものやりとり。
でも今日の翔太には、いつもと違う空気があった。ニヤニヤしている。それも、普段のふざけたニヤニヤじゃなくて、何か「ネタ」を持っている人間のニヤニヤだ。
「なあ、湊」
「何だよ」
「お前、知ってるか? 今、クラスで噂になってること」
「興味ない」
「まあそう言うな。お前に関係ある噂だから」
「オレに?」
死んだ目の男子高校生に関する噂なんて、ろくなものじゃないだろう。「鈴木の目がさらに死んだ」とか「鈴木が授業中に本当に死んでた」とか、そんなところだ。
翔太がわざとらしく間を取ってから、言った。
「鈴木湊と鮎川愛は付き合っている。……という噂」
足が止まった。
一秒。二秒。
「……は?」
「いい反応だな。お前にしては珍しい」
「付き合ってない」
「知ってるよ。でも周りはそう思ってるって話」
「なんでだよ」
「なんでって、お前……毎日一緒に登下校して、昼飯も一緒で、授業中は隣同士でずっと喋ってて、放課後は二人で帰ってる。それで付き合ってないほうが不自然だろ」
言葉に詰まった。
事実だけ並べると、たしかにそう見える。毎日一緒にいる。二人きりの時間も多い。客観的に見れば、付き合っていると思われても仕方がない。
でも、違う。オレたちは友達だ。隣の席で、目が見えない鮎川をサポートしているだけだ。
――そうだ。そうに決まっている。
虹の日から胸の奥に居座っているざわつきは、別の問題だ。あれは――あれは、まだ名前をつけていないだけの、よくわからない感覚だ。恋じゃない。翔太の診断は却下した。
「で、誰がそんなこと言い出したんだ」
「安藤」
「安藤?」
「安藤美咲。ほら、女子グループのまとめ役みたいな子。ロングヘアで、声がでかい」
「……ああ、あの、いつも教室の真ん中で喋ってるやつか」
「そう。あいつが女子の間で『鈴木くんと鮎川さんって絶対付き合ってるよね』って広めてる。で、それが男子にも伝染してる」
安藤美咲。たしかにクラスの情報センターみたいな存在だ。誰と誰が仲良いとか、どの先生が結婚したとか、そういう話題を常に把握していて、クラス中に発信している。
その情報センターに目をつけられたということは、もう手遅れだ。
「放っておけば消えるだろ」
「どうかな。お前ら、日に日に距離近くなってるからな。消えるどころか、加速してる気がするけど」
「距離は変わってない」
「変わってるって。お前、一か月前は鮎川さんのこと『鮎川』って呼んでただろ。最近は『鮎川さん』だ」
「……そうだっけ」
「そうだよ。『さん』がついた。無意識なのがまた怖い」
言われてみれば、たしかに。
いつからだろう。鮎川のことを「さん」付けで呼ぶようになったのは。あの子と話すとき、いつの間にか自然と「鮎川さん」と言っている自分がいる。
別に深い意味はない。ないはずだ。ただ――なんとなく、呼び捨てにするのが失礼な気がしただけだ。
……なんで失礼だと思ったのかは、考えないことにする。
教室に入ると、いつもと空気が違った。
オレの顔を見た瞬間、何人かの女子がくすくす笑った。男子の一人がニヤッとした。視線が刺さる。
今まで、オレに向けられる視線なんてほとんどなかった。「死んだ魚の目」はクラスの風景の一部であり、注目される対象じゃなかった。それが今、まるでスポットライトを浴びているみたいに視線が集まる。
居心地が悪い。もともと注目されるタイプじゃないし、されたくもない。死んだ目のモブキャラとして静かに暮らしたいのに。
席に向かう途中、後ろの席の男子二人の会話が聞こえた。
「マジで付き合ってんのかな、鈴木と鮎川さん」
「わかんね。でも毎日一緒だしな。弁当も交換してるらしいぞ」
「うわ、ラブラブじゃん。死んだ目のくせに」
「意外とやるよな、鈴木」
やってない。何もやってない。
弁当の交換は鮎川が「交換しよう」と言うから交換しているだけだ。毎日一緒にいるのは席が隣だからだ。一緒に帰るのは同じ方向だからだ。全部、合理的な理由がある。
――全部、合理的に説明できるはずなのに、なぜか説得力がない。自分でもわかっている。
席について鞄を下ろすと、隣にはもう鮎川が座っていた。いつも通り、白杖を机の横に立てかけて、イヤホンで何かを聴いている。
「おはよう、鈴木くん」
「……おはよ」
「あれ、今日は声が低いね。寝不足?」
「いや、別に」
「嘘。声のトーンが〇・三ヘルツくらい低い」
「ヘルツで測るな」
鮎川がくすくす笑う。
いつもの朝だ。いつもの鮎川だ。
何も変わっていない。変わっているのは周囲の視線だけだ。
――と思ったのに。
四時間目の体育の前、教室で着替えの準備をしているとき、男子更衣室に向かうオレに、後ろの席の田中が声をかけてきた。
「なあ鈴木、お前と鮎川さんってマジで付き合ってんの?」
「付き合ってない」
「えー、でもさ。俺、昨日の帰り見たんだよ。お前と鮎川さんが二人で歩いてるとこ。鮎川さん、すげー楽しそうだったぜ」
「一緒に帰ってるだけだ。同じ方向だから」
「同じ方向って、お前んち、鮎川さんちと全然方向違うだろ。駅の反対側じゃん」
……え。
全然方向違う?
いや、最初の日に「途中まで同じ方向」と言ったのは事実だ。途中までは同じ方向なんだ。ただ、途中から分かれる。それだけだ。
でも最近、オレは鮎川の家の近くまで送っている。途中で別れるんじゃなくて、鮎川が「ここでいいよ」と言うところまで歩いている。
いつからそうなったんだ。
気づいたら、自然にそうなっていた。鮎川の歩く距離が少しでも短くなるように、少しでも安全であるように。
それは――友達として当然のことだろう。目が見えない人を途中で一人にするより、できるだけ近くまで送ったほうがいい。合理的な判断だ。
合理的。
……最近、「合理的」という言葉を盾にすることが増えた気がする。
「まあ、付き合ってないなら別にいいけどさ。俺、鮎川さんかわいいと思うから、フリーなら告白しようかなって」
「……好きにしろ」
「あ、やっぱりムリ。鈴木の目が急に怖くなった。死んだ魚から殺し屋の目になった」
「なってない」
「なってる。マジで。じゃ、俺やめとくわ」
田中が逃げるように去っていった。
殺し屋の目。何だそれ。オレの目は一貫して死んでいる。殺し屋になった覚えはない。




