第8話 ジャスミンの道
四〇〇年前のラブコメ作家。
そう言われると、急に親しみが湧くから不思議だ。教科書に載っている偉人は遠い存在にしか感じないけど、「ラブコメ作家」と言われたら、なんだか近所のおっちゃんみたいな気がしてくる。
「鈴木くんも、よかったらシェイクスピア読んでみて。きっと面白いから」
「……気が向いたらな」
「あ、今の『気が向いたら』は、『読まない』の意味でしょ」
「……鋭いな」
「声のトーンでわかるの。でもいいよ、そのうち気が向くから。わたしが気を向かせるから」
「それは脅しか?」
「ふふ、お楽しみに」
チャイムが鳴って、六時間目の授業が始まる。
オレはシェイクスピアの台詞なんて一つも知らない。でも、鮎川が楽しそうに語るシェイクスピアは、少しだけ気になった。
ほんの少しだけ。死んだ魚が、水面のさざなみに気づいたくらいの、微かな興味。
放課後。いつものように鮎川と帰る。
「いつものように」――もう、そう言ってもいいくらいには、一緒に帰ることが日常になっていた。翔太とオレと鮎川の三人で校門を出て、翔太が途中で曲がり、オレと鮎川は二人で最寄り駅の近くまで歩く。そんなルーティンがいつの間にかできあがっていた。
今日も三人で歩いている。
四月も後半に入り、桜はすっかり散って、街路樹の若葉がまぶしい緑色に変わり始めていた。空気の匂いも変わった。冬の残り香が完全に消えて、土と草の匂いがする。春の本番だ。
鮎川がオレの隣を歩きながら、今日あった授業の話をしている。古典の授業で出てきたシェイクスピアの話、数学のテストの予想、体育の授業で聞こえた鳥の声の種類。
この子は本当によく喋る。そして、よく聴いている。
体育の時間にグラウンドで聞こえた鳥の声が「ヒヨドリとメジロとシジュウカラの三種類だった」と言うから驚いた。オレなんて鳥の声は全部同じに聞こえる。「チュンチュン」か「ピーピー」かの二択だ。
見える世界の解像度と、聞こえる世界の解像度。オレたちはまるで違うチャンネルで世界を受信している。
「ねえ、鈴木くん」
「ん」
「今日はどんな景色?」
日課になっていた。
鮎川はほぼ毎日、帰り道でこの質問をする。そしてオレは、そのたびに周囲を見回して、目に入ったものを言葉にする。
「……街路樹の葉っぱが増えてきた。一週間前は枝だけだったのに、今は小さい葉っぱがびっしり生えてる。色は黄緑で、光が当たるとほとんど透明に見える。風が吹くとさわさわ揺れて、木漏れ日が歩道に模様を作ってる」
「木漏れ日の模様! どんな模様?」
「……丸い光の粒が、いっぱい地面に散らばってる感じ。風が吹くと光が揺れて、影と光がまだらになる。万華鏡みたいだ」
「万華鏡かあ。きっときれいだね」
翔太が後ろから「お前、最近やたら詩的なこと言うようになったな」とツッコんできた。
「うるせえ」
「いや、悪い意味じゃなくて。前の湊だったら『木が生えてる。以上』で終わりだったじゃん」
「……そうだっけ」
「そうだよ。鮎川さん効果だな、こりゃ」
鮎川さん効果。
否定しようとして、でもうまく否定できなかった。
事実だからだ。鮎川に出会う前のオレは、帰り道の景色なんて一ミリも気にしていなかった。毎日同じ道を歩いて、同じ景色を見ているはずなのに、何も見ていなかった。
鮎川に「どんな景色?」と聞かれるようになってから、オレの目は景色を拾うようになった。街路樹の葉の色の変化。雲の形。道端の花。猫の昼寝スポット。洗濯物の種類。
見えすぎるほど見えているこの目が、ようやく世界を捉え始めている。
皮肉な話だ。自分の目ではなく、目が見えない誰かのために、やっと「見る」ことを覚えた。
翔太と別れて、二人きりになった帰り道。
鮎川が急に立ち止まった。
「あ、この匂い」
「匂い?」
「うん。甘い匂い。花の匂い。……金木犀じゃないよね、まだ春だし。なんだろう」
オレは周囲を見回した。歩道の脇に、生け垣が続いている。よく見ると、白くて小さな花が無数に咲いていた。
「……ジャスミンかな。白い花が咲いてる。すげえ小さい花で、星みたいな形してる」
「ジャスミン! どのくらい咲いてる?」
「結構たくさん。生け垣全体に散らばってて、緑の葉っぱの中に白い点々がいっぱいある。夜空の星を逆にしたみたいだ」
「夜空の星を逆にした……。緑の空に白い星が浮かんでるってこと?」
「ああ、そんな感じ」
「素敵だね。鈴木くんの表現、好きだよ」
好き。
また、その単語。
前にも言われた。「わたし、変わってる人が好きなの」。あれと同じだ。深い意味はない。
「鈴木くん、ジャスミンの花、ひとつ取ってもらっていい?」
「え? いいのか、他人の家の生け垣だけど」
「ひとつだけ。ひとつだけなら、きっと許してくれるよ」
オレは手を伸ばして、小さなジャスミンの花をひとつ摘んだ。
鮎川の手のひらにそっと乗せると、鮎川は両手で包み込むようにして、花を鼻に近づけた。
「……いい匂い。すごくいい匂い」
閉じた目のまま、幸せそうに微笑む。
たった一輪の小さな花で、こんなに嬉しそうな顔ができるのか。
オレはきれいな景色を見ても心が動かない。でも鮎川は、たった一輪の花の匂いで世界の美しさに触れている。
見えない世界は、こんなにも豊かなんだろうか。
それとも――見えすぎるオレの世界が、こんなにも貧しいんだろうか。
「ありがとう、鈴木くん。今日の帰り道は、ジャスミンの道だね」
「……ああ。ジャスミンの道だ」
鮎川は花を制服のポケットにそっとしまって、また歩き始めた。
白杖のリズム。かつ、かつ、かつ。
その音が、いつもより軽やかに聞こえた。




