第7話 400年前のラブコメ
それから数日が経った。
鮎川愛が転校してきてから、オレの日常には小さな変化が生まれていた。
本当に小さな変化だ。劇的なものは何もない。ただ、隣の席に座っている女の子が、授業中にときどき話しかけてくるようになった。それだけのことだ。
「鈴木くん、今、先生が黒板に描いてる図って何?」
「……えっと、日本地図。太平洋側の気候と日本海側の気候の違いを矢印で示してる」
「矢印、何本くらいある?」
「五本。太平洋側から三本、日本海側から二本。季節風の向きを表してるっぽい」
「ありがとう。助かる」
最初の頃は、こういうやりとりが正直めんどくさかった。
授業中に話しかけられるのは集中が途切れるし、黒板の図を言葉で説明するのは思っている以上に難しい。地図の形を「ブーツを逆さにしたみたいな形」とか、グラフの傾きを「右肩上がりで、途中からぐっと急になる」とか、視覚情報を言語に変換する作業は、オレの貧しい語彙力には荷が重い。
でも、不思議なことに――嫌ではなかった。
鮎川に聞かれるたびに、オレは黒板を「ちゃんと」見るようになった。今まではなんとなく写していただけの図やグラフが、鮎川に説明するために初めて意味を持ち始める。
矢印の本数。線の太さ。色の違い。文字の大きさ。
見えすぎるほど見えているオレの目が、ようやく本来の仕事をしている気がした。
「鈴木くん、数学の先生、今なんか変な顔してない?」
「……してるな。たぶん誰も手を挙げないから困ってる」
「じゃあ、わたしが答えようかな。答え、三二でしょ?」
「合ってると思うけど……手、挙げる前に確認するなよ」
「えへへ、保険」
鮎川は成績が優秀だと聞いていたが、想像以上だった。
数学も英語も、先生の解説を一度聞いただけで理解している。黒板が見えない分、耳からの情報だけで授業についていく。点字タブレットへのメモのスピードも日に日に上がっていて、ときには先生の板書よりも先に要点をまとめていることもあった。
頭がいい、というのとは少し違う気がする。
集中力が、桁外れなのだ。
視覚がない分、聴覚に全神経を集中させている。先生の声だけじゃない。チョークが黒板を叩く音、教科書のページをめくる音、クラスメイトのシャーペンが走る音――それらすべてを手がかりにして、鮎川は「見えない教室」の中で授業を組み立てている。
そのことに気づいたとき、オレは少しだけ恥ずかしくなった。
目が見えるオレは、授業中にぼんやり窓の外を見ている。見えすぎるほど見えているくせに、何も見ていない。一方、目が見えない鮎川は、見えないからこそ必死に「聴いて」いる。
見えない世界と、見えすぎる世界。
どっちが豊かなんだろう、と考えて――答えは出なかった。
四月の半ばを過ぎた頃、それは唐突にやってきた。
五時間目。古典の授業。
担当の佐々木先生は初老の男性で、独特の間を持った話し方をする人だ。生徒の間では「眠くなる授業」で有名だが、たまに面白いことを言う。
その日の授業は、海外文学の影響を受けた日本の近代文学という話題だった。夏目漱石がイギリスに留学した話から、西洋文学全般へと話が広がっていく。
「さて、ここでひとつ、皆さんに有名な言葉を紹介しましょう」
佐々木先生がチョークを手に取り、黒板にゆっくりと書いた。
――Love is blind.
「『恋は盲目』。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる有名な台詞です。恋をすると、相手の欠点が見えなくなる。――つまり、理性を失ってしまうという意味ですね」
その瞬間、オレの隣で小さな笑い声が聞こえた。
くすっ、と。鈴が揺れるみたいな、短い笑い声。
鮎川だった。
閉じた目のまま、口元を手で押さえて笑っている。
周囲の何人かが不思議そうにこちらを見た。オレも正直、なんで笑ったのかわからなかった。
「……何がおかしいんだ」
授業が終わった直後、小声で聞いた。
鮎川はまだ笑いの余韻を残したまま、こちらに顔を向けた。
「ごめんね、つい。だって、『恋は盲目』だよ? わたし、本当に盲目なのに」
「……ああ」
「盲目の人間が、『恋は盲目』って聞いたら、笑うしかないでしょ。わたし、恋する前からもう盲目なんだから」
不謹慎とかそういう話じゃなくて、純粋に自分の状況と言葉の意味のギャップがおかしかったらしい。この子、自分の障害をネタにして笑えるタイプなんだな。メンタルが強いというか、なんというか。
「鈴木くん、シェイクスピアって知ってる?」
「名前くらいは。ロミオとジュリエットの人だろ」
「そうそう。でもね、シェイクスピアって、悲劇より喜劇のほうがずっと多いの。知ってた?」
「いや、全然」
「わたし、シェイクスピアが大好きなの。特に喜劇が」
鮎川が嬉しそうに語り始めた。
休み時間の一〇分。短い時間だったけど、鮎川の話は止まらなかった。
「わたし、目が見えないから舞台そのものは見えないの。でもね、音声ガイド付きの公演っていうのがあってね。イヤホンで場面の説明を聞きながら、役者さんの声やお芝居を楽しめるの。それがもう、すっごく面白くて」
「へえ」
「シェイクスピアの戯曲って、言葉がすごいんだよ。四〇〇年以上前に書かれたのに、今読んでも鳥肌が立つような台詞がたくさんあるの。しかもね、喜劇のほうが天才的なの。だって、笑いって悲しみより難しいでしょ?」
「……そうなのか」
「うん。泣かせるのは簡単だけど、笑わせるのはすごく難しい。シェイクスピアの喜劇は、勘違いとかすれ違いとか変装とか、そういうハチャメチャな展開で観客を笑わせるの。でも最後はみんなハッピーエンド。恋が成就して、みんなが幸せになる。わたし、そういう話が好き」
楽しそうだった。
本当に、心の底から楽しそうだった。
目を閉じたまま、シェイクスピアの話をしているときの鮎川は、教室の誰よりも輝いて見えた。好きなものの話をしているとき、人はこんなにも生き生きするものなのか。
オレには、そんなふうに語れるものが何もない。
「ねえ、鈴木くん。さっきの『恋は盲目』の原文、暗唱してあげようか」
「英語で?」
「うん。――But love is blind, and lovers cannot see the pretty follies that themselves commit」
流暢な英語だった。
発音がきれいなのは知っていたけど、シェイクスピアの古い英語を暗唱できるのは驚きだ。
「……すげえな。意味は?」
「『恋は盲目で、恋する者たちには自分のしでかす可愛い愚行が見えない』。素敵でしょ?」
「可愛い愚行、か。恋するとバカになるってことか」
「そう! でもそのバカさがいいんだよ。シェイクスピアの喜劇の登場人物たちは、みんな恋でバカになる。でもそのバカさが愛おしいの。完璧な人間なんて面白くないでしょ?」
鮎川が笑った。
完璧じゃないから面白い。バカだから愛おしい。
……なんとなく、わかるような気がした。オレの死んだ目だって、ある意味では完璧じゃない証拠だ。でもそれを鮎川は「面白い」と笑った。初日に。
「シェイクスピアって難しくないのか。正直、古典の授業ですら眠くなるのに」
「言葉は難しいかもしれないけどね。やってることはすごくシンプルだよ。恋して、すれ違って、勘違いして、最後にハッピーエンド。ラブコメだよ、ラブコメ」
「ラブコメ」
「そう。四〇〇年前のラブコメ。元祖ラブコメ作家だよ、シェイクスピアは」




