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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第1章 恋は盲目(Love is blind)

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7/40

第7話 400年前のラブコメ

 それから数日が経った。

 鮎川愛が転校してきてから、オレの日常には小さな変化が生まれていた。

 本当に小さな変化だ。劇的なものは何もない。ただ、隣の席に座っている女の子が、授業中にときどき話しかけてくるようになった。それだけのことだ。


「鈴木くん、今、先生が黒板に描いてる図って何?」

「……えっと、日本地図。太平洋側の気候と日本海側の気候の違いを矢印で示してる」

「矢印、何本くらいある?」

「五本。太平洋側から三本、日本海側から二本。季節風の向きを表してるっぽい」

「ありがとう。助かる」


 最初の頃は、こういうやりとりが正直めんどくさかった。

 授業中に話しかけられるのは集中が途切れるし、黒板の図を言葉で説明するのは思っている以上に難しい。地図の形を「ブーツを逆さにしたみたいな形」とか、グラフの傾きを「右肩上がりで、途中からぐっと急になる」とか、視覚情報を言語に変換する作業は、オレの貧しい語彙力には荷が重い。

 でも、不思議なことに――嫌ではなかった。

 鮎川に聞かれるたびに、オレは黒板を「ちゃんと」見るようになった。今まではなんとなく写していただけの図やグラフが、鮎川に説明するために初めて意味を持ち始める。

 矢印の本数。線の太さ。色の違い。文字の大きさ。

 見えすぎるほど見えているオレの目が、ようやく本来の仕事をしている気がした。


「鈴木くん、数学の先生、今なんか変な顔してない?」

「……してるな。たぶん誰も手を挙げないから困ってる」

「じゃあ、わたしが答えようかな。答え、三二でしょ?」

「合ってると思うけど……手、挙げる前に確認するなよ」

「えへへ、保険」


 鮎川は成績が優秀だと聞いていたが、想像以上だった。

 数学も英語も、先生の解説を一度聞いただけで理解している。黒板が見えない分、耳からの情報だけで授業についていく。点字タブレットへのメモのスピードも日に日に上がっていて、ときには先生の板書よりも先に要点をまとめていることもあった。

 頭がいい、というのとは少し違う気がする。

 集中力が、桁外れなのだ。

 視覚がない分、聴覚に全神経を集中させている。先生の声だけじゃない。チョークが黒板を叩く音、教科書のページをめくる音、クラスメイトのシャーペンが走る音――それらすべてを手がかりにして、鮎川は「見えない教室」の中で授業を組み立てている。

 そのことに気づいたとき、オレは少しだけ恥ずかしくなった。

 目が見えるオレは、授業中にぼんやり窓の外を見ている。見えすぎるほど見えているくせに、何も見ていない。一方、目が見えない鮎川は、見えないからこそ必死に「聴いて」いる。

 見えない世界と、見えすぎる世界。

 どっちが豊かなんだろう、と考えて――答えは出なかった。


 四月の半ばを過ぎた頃、それは唐突にやってきた。

 五時間目。古典の授業。

 担当の佐々木先生は初老の男性で、独特の間を持った話し方をする人だ。生徒の間では「眠くなる授業」で有名だが、たまに面白いことを言う。

 その日の授業は、海外文学の影響を受けた日本の近代文学という話題だった。夏目漱石がイギリスに留学した話から、西洋文学全般へと話が広がっていく。


「さて、ここでひとつ、皆さんに有名な言葉を紹介しましょう」


 佐々木先生がチョークを手に取り、黒板にゆっくりと書いた。

 ――Love is blind.


「『恋は盲目』。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる有名な台詞です。恋をすると、相手の欠点が見えなくなる。――つまり、理性を失ってしまうという意味ですね」


 その瞬間、オレの隣で小さな笑い声が聞こえた。

 くすっ、と。鈴が揺れるみたいな、短い笑い声。

 鮎川だった。

 閉じた目のまま、口元を手で押さえて笑っている。

 周囲の何人かが不思議そうにこちらを見た。オレも正直、なんで笑ったのかわからなかった。


「……何がおかしいんだ」


 授業が終わった直後、小声で聞いた。

 鮎川はまだ笑いの余韻を残したまま、こちらに顔を向けた。


「ごめんね、つい。だって、『恋は盲目』だよ? わたし、本当に盲目なのに」

「……ああ」

「盲目の人間が、『恋は盲目』って聞いたら、笑うしかないでしょ。わたし、恋する前からもう盲目なんだから」


 不謹慎とかそういう話じゃなくて、純粋に自分の状況と言葉の意味のギャップがおかしかったらしい。この子、自分の障害をネタにして笑えるタイプなんだな。メンタルが強いというか、なんというか。


「鈴木くん、シェイクスピアって知ってる?」

「名前くらいは。ロミオとジュリエットの人だろ」

「そうそう。でもね、シェイクスピアって、悲劇より喜劇のほうがずっと多いの。知ってた?」

「いや、全然」

「わたし、シェイクスピアが大好きなの。特に喜劇が」


 鮎川が嬉しそうに語り始めた。

 休み時間の一〇分。短い時間だったけど、鮎川の話は止まらなかった。


「わたし、目が見えないから舞台そのものは見えないの。でもね、音声ガイド付きの公演っていうのがあってね。イヤホンで場面の説明を聞きながら、役者さんの声やお芝居を楽しめるの。それがもう、すっごく面白くて」

「へえ」

「シェイクスピアの戯曲って、言葉がすごいんだよ。四〇〇年以上前に書かれたのに、今読んでも鳥肌が立つような台詞がたくさんあるの。しかもね、喜劇のほうが天才的なの。だって、笑いって悲しみより難しいでしょ?」

「……そうなのか」

「うん。泣かせるのは簡単だけど、笑わせるのはすごく難しい。シェイクスピアの喜劇は、勘違いとかすれ違いとか変装とか、そういうハチャメチャな展開で観客を笑わせるの。でも最後はみんなハッピーエンド。恋が成就して、みんなが幸せになる。わたし、そういう話が好き」


 楽しそうだった。

 本当に、心の底から楽しそうだった。

 目を閉じたまま、シェイクスピアの話をしているときの鮎川は、教室の誰よりも輝いて見えた。好きなものの話をしているとき、人はこんなにも生き生きするものなのか。

 オレには、そんなふうに語れるものが何もない。


「ねえ、鈴木くん。さっきの『恋は盲目』の原文、暗唱してあげようか」

「英語で?」

「うん。――But love is blind, and lovers cannot see the pretty follies that themselves commit」


 流暢な英語だった。

 発音がきれいなのは知っていたけど、シェイクスピアの古い英語を暗唱できるのは驚きだ。


「……すげえな。意味は?」

「『恋は盲目で、恋する者たちには自分のしでかす可愛い愚行が見えない』。素敵でしょ?」

「可愛い愚行、か。恋するとバカになるってことか」

「そう! でもそのバカさがいいんだよ。シェイクスピアの喜劇の登場人物たちは、みんな恋でバカになる。でもそのバカさが愛おしいの。完璧な人間なんて面白くないでしょ?」


 鮎川が笑った。

 完璧じゃないから面白い。バカだから愛おしい。

 ……なんとなく、わかるような気がした。オレの死んだ目だって、ある意味では完璧じゃない証拠だ。でもそれを鮎川は「面白い」と笑った。初日に。


「シェイクスピアって難しくないのか。正直、古典の授業ですら眠くなるのに」

「言葉は難しいかもしれないけどね。やってることはすごくシンプルだよ。恋して、すれ違って、勘違いして、最後にハッピーエンド。ラブコメだよ、ラブコメ」

「ラブコメ」

「そう。四〇〇年前のラブコメ。元祖ラブコメ作家だよ、シェイクスピアは」

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