第6話 初めて水の流れを感じたみたいに
家に帰って、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。白い天井。蛍光灯。何の変哲もない、見慣れた景色。
なのに――今日は、少しだけ違って見えた。
蛍光灯のカバーに小さな虫の影が映っている。天井の角にうっすらと蜘蛛の巣がある。カーテンの裾が風でかすかに揺れていて、窓の外から夕方のチャイムが遠くに聞こえる。そんな些細なことが、やけに目に入る。やけに耳に入る。
鮎川のせいだ。
あの子に「今どんな景色?」と聞かれたせいで、オレの目が余計なものまで拾うようになった。
帰り道で見た夕焼け。塀の上の三毛猫。はぐれもののスズメ。ちぎれた綿みたいな雲。三軒先から聞こえるショパンのノクターン。
全部、今までもそこにあったはずのものだ。でも、言葉にしたのは初めてだった。鮎川に伝えるために、初めてちゃんと見た。初めてちゃんと聞いた。
制服のまま寝転がっていたら、母さんがドアの向こうから声をかけてきた。
「湊、牛乳は?」
「……あ」
「忘れたのね。まったく。何してたの、帰り道」
「……景色を見てた」
「はあ?」
母さんは理解できないという顔をしたに違いない。ドアの向こうで「変な子」と呟いて去っていく足音が聞こえた。
……あの子に景色を伝えるとき、オレは初めて、ちゃんとものを見ている気がした。
スマホの画面が光った。翔太からのメッセージだ。
『今日のお前、なんかいつもと違ったぞ』
『何が』
『鮎川さんと話してるとき、ちょっとだけ目が生き返ってた』
『気のせいだろ』
『いーや、オレの目は確かだね。まあいいけど、鮎川さんいい子じゃん。仲良くしろよ』
『別に普通だ』
『はいはい、死んだ魚おやすみ~』
スマホを枕元に置いて、また天井を見た。
目が生き返ってた? ありえない。オレの目は一六年間ずっと死んでいる。一日で変わるわけがない。
翔太の見間違いだ。
でも。
ひとつだけ、認めなきゃいけないことがある。
今日、帰り道で鮎川に景色を伝えたとき。あの数分間だけ、オレは世界をちゃんと見ていた。
薄いフィルター越しじゃない、生の景色を。
目を閉じる。
瞼の裏に、鮎川の笑顔が浮かんだ。
閉じた目。でも、誰よりも明るい表情。
――オレの目は死んでいると言われる。あの子の目は、見えないらしい。でも、あの子のほうがオレよりずっと生き生きしている。
なんだ、それ。
まるで――オレのほうが、よっぽど何も見えていないみたいじゃないか。
四月の夜は、まだ少し肌寒い。
窓の外で風が鳴っている。近所の犬が一声だけ吠えて、すぐに静かになった。時計の秒針がかちかちと時を刻む音が、やけにはっきり聞こえる。
今まで気にしたことのない音。今まで気にしたことのない景色。全部、鮎川のせいだ。あの子と出会ったせいで、オレの感覚がほんの少しだけ、研ぎ澄まされている。
迷惑な話だ。死んだ目には死んだ目なりの、穏やかな日常があったのに。
……でも。
明日も、あの子は「今、どんな景色?」と聞いてくるんだろうか。
そう思ったとき、ほんの少しだけ――ほんとうにほんの少しだけ――明日が待ち遠しいと感じた。
死んだ魚が、初めて水の流れを感じたみたいに。




