第5話 人から聞く景色
三人で歩き始める。
歩道は広くないから、自然とオレが鮎川の隣、翔太がその向こう側という並びになった。
鮎川は白杖で前方を確認しながら、オレの足音を頼りに歩いているようだった。オレの歩幅に合わせているのか、ぴったりと同じリズムで歩いている。
「鈴木くん、歩くリズムが一定だね。すごく歩きやすい」
「……そうか?」
「うん。人によって歩くリズムって全然違うんだよ。速くなったり遅くなったりする人の隣を歩くのは結構大変なんだけど、鈴木くんはずっと同じテンポだから安心する」
無気力に歩いているだけなんだが。感情の起伏がないから、歩くテンポも変わらないのだろう。死んだ目の副産物みたいなものだ。
まさか「一定のリズムで歩く」ことを褒められる日が来るとは思わなかった。
「あ、今の車、左から来たでしょ?」
鮎川が突然言った。
「え? ああ、うん。左の道から白い車が出てきたけど」
「やっぱり。エンジン音で方向がわかるの。あと、風の向きも変わったから」
「風の向き?」
「うん、車が通ると空気が動くんだよ。それでどっちから来たかわかるの。あとね、この道、少し左に傾いてるよね? さっきから靴の裏の感触が左側だけ強いの」
オレは足元を見た。言われてみれば、たしかに歩道がわずかに左に傾斜している。排水のためだろうか。毎日通っている道なのに、まったく気づかなかった。
「……よくわかるな」
「目が見えない分、他の感覚が敏感なんだと思う。特に耳はね、わたし、絶対音感があるの」
「絶対音感?」
「うん。音を聞いただけで、何の音か当てられるの。今ね、三軒先の家からピアノの音が聞こえてる。ショパンのノクターンの二番。ちょっとテンポが速いから、たぶん練習中だね」
耳を澄ませてみた。たしかに、かすかにピアノの音が聞こえる。でもオレには曲名なんてわからない。
「すげえな」
「えへへ、これだけは自信あるんだ」
鮎川は嬉しそうに笑った。
「ねえ、鈴木くん」
「ん」
「今、どんな景色が見えてるの?」
唐突な質問だった。
「……景色?」
「うん。わたし、人から聞く景色が好きなの。同じ道でも、人によって見えてるものが全然違うから」
人から聞く景色。
オレは周囲を見回した。
「……普通の住宅街だけど」
「もっと詳しく教えて。もっともっと」
「もっと?」
「うん。何が見える? どんな色? 何がある?」
困った。
景色を言葉にするなんて、したことがない。目に映っているものを、そのまま口に出せばいいのか?
オレは改めて、周囲を見た。
いや――「見た」のではなく、「見ようとした」が正しい。
毎日通っている道。毎日見ているはずの風景。でもオレは今まで、この道の景色を本当に見ていただろうか?
「……右側にブロック塀が続いてて、その向こうに二階建ての家が見える。屋根は茶色い瓦で、庭に白い花が咲いてる。たぶんハナミズキだ。左側は駐車場で、シルバーの軽自動車が二台並んでる。正面の電柱に猫がいる。三毛猫。塀の上で丸くなって寝てる」
「猫!」
鮎川が嬉しそうに声を上げた。
「かわいい?」
「……まあ、普通に猫だ。丸くなって寝てる。しっぽだけぴくぴく動いてる」
「しっぽ、ぴくぴくしてるんだ。夢でも見てるのかな」
「さあ。猫の夢はわからん」
「ねずみの夢かもよ」
「ベタだな」
鮎川がくすくす笑う。
オレは続けた。自分でも不思議なくらい、言葉が出てきた。
「……空は夕焼けになりかけてる。西のほうがオレンジっぽくなってきてて、でもまだ真上は青い。雲が少しだけあって、ちぎれた綿みたいな形をしてる。電線にスズメが三羽とまってて、一羽だけ反対向いてる。はぐれものだな」
「はぐれもののスズメ」
「ああ。あと、二軒先の家のベランダに洗濯物が干しっぱなしだ。もう夕方なのに、取り込み忘れてるな」
「それは早く取り込まないとね」
「他人の洗濯物だけどな」
鮎川がまた笑った。
翔太が少し離れたところから、不思議そうな顔でオレたちを見ていた。無理もない。オレがこんなに喋るのは珍しいことだ。自分でも驚いている。
「鈴木くん、すごいね」
「何が」
「景色を話すの、上手だよ。わたし、今すごくこの道が見えてる気がする。猫も、スズメも、洗濯物も。全部見えた」
「大したことは言ってないけど」
「ううん、大したことだよ。目で見えてるものを言葉にするのって、すごく難しいことなんだよ。みんなに聞いても、だいたい『普通の道』とか『特に何もない』で終わっちゃうの。でも鈴木くんは、ちゃんと見てくれてる」
ちゃんと見てくれてる。
その言葉が、ちくりと刺さった。
ちゃんと見ている? オレが? この死んだ目で?
いや――たしかに、今、オレはちゃんと見ていた。
鮎川に聞かれたから。見えないあの子に景色を伝えるために、いつもは死んでいるこの目を、ちゃんと使った。
初めてだった。
こんなふうに、景色をまじまじと見たのは。
翔太と別れる交差点に着いた。
「じゃあな。お似合いの二人」
「誰がだ」
「はいはい。鮎川さん、またね~」
「またね、桐谷くん!」
翔太が手を振りながら角を曲がっていく。
二人きりになった。
鮎川とオレの足音だけが、住宅街に響く。白杖が地面を叩くリズムが、メトロノームみたいに規則正しい。
「鈴木くん」
「ん」
「明日も一緒に帰ろう」
「……まあ、同じ方向だし」
「ありがとう。じゃあ約束だね」
「約束って、大げさだな」
「大げさじゃないよ。約束は大事なの」
鮎川は笑いながら、自分の家の方向へ歩き出した。
白杖のリズムが少しずつ遠ざかっていく。かつ、かつ、かつ、と軽い音を残して。
オレはその場に立って、しばらく鮎川の背中を見ていた。
小さな背中。白い杖。閉じた目。
目が見えないのに、迷いなく歩いていく。
オレは目が見えるのに、いつも立ち止まっている気がする。
なんだそれ。笑えないな。




