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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第4章 夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream)

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第62話 夢と現実の違い

「鈴木くん?」

「ん」

「ぼーっとしてた? 声が途切れた」

「……考えてた」

「何を?」

「夢と現実の違いを」

「難しいこと考えるね。結論は?」

「……オレの場合は、現実の方がいい」

「どうして?」

「夢は覚めたら終わりだろ。でも現実は続く。……続いてほしいものが、あるから」


 何を言ってるんだ。哲学的すぎる。鮎川に「続いてほしいものって何?」と聞かれたら答えられない。

 でも鮎川は聞かなかった。少し黙って、それから穏やかに微笑んだ。


「……うん。わたしもそう思う。現実の方がいい。だってね」

「だって?」

「夢の中では、匂いも温度も感じないでしょ。でも現実は、風の匂いがわかる。木漏れ日の温度がわかる。鈴木くんの声が聞こえる。全部、感じられる」

「……」

「わたしにとっての現実は、感じることだから。見えなくても、聴けて、触れて、嗅げて。それが現実。夢は……たぶん、音がない世界」

「音がない世界が、鮎川にとっての夢か」

「そう。音がない世界は、わたしにとっては何もない世界。……だからね、現実が好き。鈴木くんの声が聞こえる、この現実が」


 鮎川の声が穏やかだった。でも奥に、真剣なものが潜んでいた。

 鮎川にとっての現実は、音と触覚と匂いでできている。オレの声はその現実の一部になっている。

 オレの声が、鮎川の世界を構成する要素の一つ。

 それは――責任でもあり、喜びでもあった。


 風が吹いた。木漏れ日が揺れた。

 鮎川の麦わら帽子が風に飛ばされそうになって、鮎川が慌てて押さえた。帽子の下から髪がはらりと落ちて、頬にかかった。

 その仕草が、息が止まるほどきれいだった。

 夢みたいだ。でも、現実だ。


 帰りにコンビニでソフトクリームを買った。鮎川がバニラ、オレがチョコ。

 バス停のベンチに座って食べた。暑くて、ソフトクリームがどんどん溶けていく。


「鈴木くん、溶けてるよ。右手。垂れてる」

「……なんでわかるんだ」

「垂れる音がした。ぽたって」

「お前の耳は何でも聞こえるのか」

「ソフトクリームが溶ける音くらいはわかるよ。液体が落ちる音は特徴的だから」


 鮎川が自分のソフトクリームを器用に舐めている。溶ける前に食べる速度が完璧だ。オレの方がぐちゃぐちゃになっている。

 鮎川がティッシュを差し出してきた。


「はい。手、拭いて」

「……ありがと」

「えへへ。鈴木くん、食べるの下手なんだね」

「うるさい」


 下手だ。食べるのも。恋も。

 でも、鮎川の隣でソフトクリームを食べる午後は、悪くなかった。

 こうやって、夏休みの一日が過ぎていく。何か特別なことがあったわけじゃない。公園に行って、景色を話して、シェイクスピアの話を聞いて、ソフトクリームを食べた。それだけだ。

 でも、それだけのことが、こんなにも楽しい。

 死んだ魚が「楽しい」と感じている。進歩だ。半年前は「楽しい」という感情自体がなかった。存在しなかった。鮎川が発掘してくれた感情だ。

 鮎川はオレの中に眠っていた感情を、一つずつ掘り起こしている。考古学者みたいに。


 その日から、二、三日に一回のペースで鮎川と会うようになった。

 水曜日。近所のカフェ。鮎川がアイスティーを注文して、「このカフェ、コーヒーの豆を挽く音がいいね。ゴリゴリって、リズムが安定してる」と言った。オレは「店の壁に猫の絵が飾ってある。目が大きくて、鮎川に似てる」と言ったら、「わたし、目閉じてるのに?」と笑われた。

 そのカフェで、鮎川がスマホの音声読み上げ機能でメニューを確認しているのを初めてじっくり見た。指先で画面をスワイプするたびに、機械音声が「アイスコーヒー、四五〇円」「カフェラテ、五〇〇円」と読み上げる。鮎川はそれを聞きながら、一瞬で選ぶ。迷わない。

 「鮎川さん、注文早いな」と言ったら、「メニュー聞くのに時間かかるから、逆に事前に決めておく癖がついたの。音声で全部聞くと長いでしょ? だから最初の三つくらいで決める」と返ってきた。

 効率的だ。鮎川は見えないことを不便だと嘆くのではなく、工夫で補っている。その姿勢が、オレには眩しい。


 土曜日。図書館。鮎川が点字の本を読んでいる隣で、オレは文庫本を読んだ。何を読んだかは覚えていない。鮎川の指が点字を辿る音を聞いていた。さらさらと紙の上を滑る、かすかな音。

 鮎川は集中すると、唇が少しだけ動く。読んでいる内容を口の中で反芻しているのだろう。無意識のくせ。

 二時間くらい、ほとんど喋らずに隣にいた。でも気まずくなかった。むしろ心地よかった。隣にいるだけで満たされる。言葉がなくても、同じ空間にいるだけで。

 帰り際、鮎川が「今日読んでた本、シェイクスピアのソネット集なの。一五四編の恋の詩。いつか鈴木くんにも読んであげたい」と言った。オレは「聞きたい」と答えた。素直に。


 月曜日。川沿いの遊歩道を散歩。「川の水面に空が映ってる。逆さまの入道雲が水の中にある」と描写した。鮎川が「水の中の空。不思議だね。上下が逆転した世界」と言った。

 川沿いのベンチで休んでいるとき、トンボが飛んできた。赤トンボ。鮎川の麦わら帽子の上にとまった。


「鮎川さん、動くな」

「え、何?」

「トンボが帽子にとまった」

「え! ほんとに?」


 鮎川が嬉しそうに笑った。動かないように体を固めながら、「どんなトンボ?」と聞いてきた。「赤い。小さい。羽根が透明で、光に当たるとキラキラしてる」。鮎川が「きれい」と呟いた。

 三〇秒ほどで、トンボは飛んでいった。鮎川が「ありがとう、トンボさん」と手を振った。見えないのに。

 どこに行っても、やることは同じだ。オレが景色を伝え、鮎川が耳で世界を描く。

 翔太にメッセージを送るたびに「進展は?」と聞かれるが、「ない」としか答えようがない。告白もしていないし、手紙も渡していない。ただ一緒にいるだけだ。

 でも翔太は「一緒にいるだけで十分進展してるんだよ。お前は気づいてないだけだ」と返してきた。

 安藤からもメッセージが来ていた。「鮎川さんの鈴木くん言及回数、夏休みに入ってから爆増してるよ。凛ちゃん情報」。

 ……安藤の情報網は凛にまで及んでいるのか。恐ろしい。

 何が進展なのか。わからない。でも、鮎川の隣にいる時間が積み重なるほど、引き出しの中の手紙の重さが増していく気がする。

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