第63話 花火大会
八月。
夏の本番。
翔太からグループチャットにメッセージが飛んできた。
『八月一〇日、地元の花火大会! みんなで行こうぜ!』
翔太、安藤、凛、オレ、鮎川の五人。翔太が全員に声をかけたらしい。
鮎川からは即座に「行く!」の返事。凛は「……まあ」。安藤は「行く行く! 浴衣着る!」。オレは「行く」とだけ打った。
花火大会。夏の風物詩。人混み。屋台。浴衣。
鮎川と花火大会。
……心臓がうるさい。まだ当日じゃないのに。
八月一〇日。花火大会当日。
集合は午後五時、河川敷の入り口。花火の打ち上げは午後七時半。場所取りを兼ねて早めに集まる。
オレは少し早めに家を出た。途中のコンビニで飲み物を買った。鮎川の分も。鮎川が好きなピーチティーを一本。最近の何回かの外出で、鮎川の飲み物の好みを覚えた。甘いものが好き。炭酸は苦手。お茶よりフルーツ系。
こういう細かいことを覚えていること自体が、恋の症状だとわかっている。
翔太が一番乗りで場所を確保していた。レジャーシートを広げて、クーラーボックスを置いて、完璧な準備。「デートの舞台装置は任せろ」と胸を張っているが、五人でデートとは言わない。
安藤が浴衣で現れた。紺地に金魚の柄。「どう? かわいくない?」と翔太に聞いているが、翔太は「ああ、似合ってるんじゃね」と雑に答えている。安藤が少し不満そうだ。
凛は私服。黒のワンピースに白いカーディガン。涼しげで、凛らしい。
オレも私服。白のTシャツに黒のパンツ。特に気合は入れていない。死んだ魚にファッションセンスは必要ない。
そして――。
「みんな、おまたせー!」
鮎川が現れた。
浴衣。
薄い水色の浴衣に、白い花の柄。帯は紺色。下駄を履いて、白杖を持って。髪をいつもと違うアレンジにしている。ゆるく結んで、かんざしを一本。
……。
言葉が出なかった。
きれいだ。きれいすぎる。夏の夕暮れの中に立つ鮎川が、まるで別の世界から来た人みたいだ。浴衣の水色が夕空の色と溶け合って、鮎川が風景の一部になっている。
かんざしが夕日を反射して、小さな光の点を作っている。鮎川の首筋が見える。浴衣の襟元から、白い肌が覗いている。
見すぎだ。目が勝手に細部を拾ってしまう。視力一・五の呪い。
翔太がオレの背中を叩いた。小声で。
「口、閉じろ」
口が開いていたらしい。死んだ魚が口を開けている。金魚みたいだ。
安藤が鮎川に駆け寄った。
「鮎川さん、浴衣かわいい!」
「ありがとう。お母さんが着付けしてくれたの。下駄が歩きにくいけど」
「大丈夫? 転ばないように気をつけてね」
「うん。慣れない靴って怖いの。いつもの靴と歩幅が変わるから、距離感がずれるんだ」
鮎川が苦笑した。視覚障害者にとって、靴の変化は歩行感覚の大きな変化を意味する。いつもの靴で覚えた距離感がリセットされる。下駄は特に底が高くて不安定だ。
凛が鮎川の隣に立って、さりげなく腕を支えた。
オレも近づいた。
コンビニで買ったピーチティーを差し出した。
「これ。鮎川さんの分」
「え、わたしに? ……ピーチティー! 好きなの、よくわかったね」
「……まあ。前にカフェで飲んでたから」
「覚えてくれてたんだ。ありがとう」
鮎川が嬉しそうにペットボトルを受け取った。翔太が後ろで「ナイスアシスト」と囁いている。
そして本題。
「……浴衣、似合ってる」
言えた。
たった五文字だけど、言えた。四月のオレなら「別に」で済ませていた。成長だ。
鮎川がぱっと顔を上げた。
「ほんと? ありがとう。鈴木くんは何着てるの?」
「白Tに黒パン。普通」
「普通って言うけど、鈴木くんの声がちょっと上ずってるから、たぶんオシャレしてると思う」
「してない」
「嘘。声で嘘がわかるって言ったでしょ」
してない。本当にしてない。してないけど声が上ずっているのは、鮎川の浴衣姿を見たからだ。心臓が暴走しているからだ。ファッションの問題じゃなくて心臓の問題だ。
河川敷を歩く。屋台が並んでいて、焼きそば、たこ焼き、かき氷、りんご飴の匂いが混ざり合っている。人が多い。浴衣を着た家族連れやカップルがそこらじゅうにいる。
鮎川が人混みの中で少し不安そうな顔をした。
音が多すぎるのだ。人の声、屋台の呼び込み、祭囃子、子どもの叫び声。全部が混ざって、鮎川の耳を圧倒している。
普段の鮎川なら、音で周囲を把握できる。でもこの人混みでは、音の情報量が多すぎて処理しきれない。白杖も人の足にぶつかりそうで、使いにくい。下駄で歩くことの不安定さも加わって、鮎川の顔にかすかな緊張が浮かんでいる。
オレは自然と鮎川の隣に立った。手を――出した。
右手を。
下げたままの鮎川の左手の前に。
「掴まれ。離れるなよ」
鮎川が一瞬、手の気配を察して、オレの手を握った。
掴まったんじゃない。握った。
雨の日と同じだ。オレの手を、鮎川の手が握った。小さくて温かい手。下駄で歩く不安定な足元を補うように、しっかりと。
翔太が後ろで安藤と目配せしているのが、背中越しにわかった。見守る会、活動中。
凛が鮎川のもう片方の側に立って、人混みから守るようにポジションを取った。凛は黙っていたが、行動で支えている。凛らしい。
鮎川が手を握ったまま、歩きながら周囲の音を聞いている。
「焼きそばの音がする。ジュージューって。あと、かき氷のガリガリって音が……左の方?」
「ああ。かき氷の屋台が左に二つ目。当たり」
「やった。耳ナビ、まだ機能してる」
「お前の耳は人混みでも健在か」
「ちょっと精度落ちるけどね。人が多いと音が反射するから、距離感がつかみにくい。でも鈴木くんの手を握ってると、位置の基準ができるから安心する」
位置の基準。
オレの手が、鮎川にとっての座標の原点になっている。
その事実が嬉しくて、もう少しだけ強く握り返した。
「鈴木くん、屋台のにおいがすごいね。焼きそばとたこ焼きと……あと、甘いの。りんご飴かな」
「ああ。りんご飴の屋台が左にある。赤いりんご飴がズラッと並んでる」
「食べたい!」
「買うか」
りんご飴を二本買った。一本を鮎川に渡す。鮎川が飴にかぶりつく。シャリ、と硬い飴が割れる音。
……りんご飴を食べる鮎川がかわいい。唇に赤い飴がついている。
見るな。見すぎだ。視力一・五の目が呪わしい。




